家庭礼拝 2016年4月20日フィリピ3章12‐4章1節目標を目指して

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目標の無い生活は、生きている価値の無い生活だ、という言葉もあり、生きる目標を見失って、自暴自棄になってしまう人もいます。私たちが何に向かって生きているかと言う事が、この人生をとても豊かに、そして生きがいのあるものにさせているのは確かです。何を目標とするかは人さまざまです。アスリートたちは、優勝することを目指して、日々辛い練習をこなしていきます。権力を得たい人は、社長になろうとしたり、政治家になろうと努力します。お金持ちになりたい人はどれほどのお金持ちになるかの目標を建てます。それぞれの目標はその人たちを努力へと駆り立て、なんとか目標を達成したいと頑張って、その人生を輝かしいものにしていきます。

それではクリスチャンの目標は何でしょうか。金持ちになるためにクリスチャンになるのでしょうか。幸せになるためにクリスチャンになるのでしょうか。人助けをするためでしょうか。自分のためでしょうか。その目標はその人を生き生きとさせ、生きがいとさせるのに役立ちますが、間違った目標によっては、最後は惨めな結果に終わることも予想されます。如何に正しい目標を選ぶかで、その人生が祝福に満ちたものになるかどうかが、決まってくるのではないでしょうか。クリスチャンの目標はいったい何なのか、どのようにしたらよいのかと言うのが今日のテーマです。

私たちは、今、何の目標に向かっているのかをしっかりと思い返してみる必要があるのではないでしょうか。それがもし、今日のパウロが教えて下さっている目標と違うものならば、それに向かって軌道修正する必要があるのではないでしょうか。そういう目標もあるかもしれない、でもそれは私の目標ではないと人ごとにならないように、自分自身の問題として今日の聖書の箇所を学んでいきたいと思います。

では本文に入ります。12節から14節です。

フィリ 3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

フィリ 3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

フィリ 3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 12節で、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」と言っていますが、それとは何でしょうか、何を得たわけではないと言っているのでしょうか。それは先週学んだ10節と11節の、キリストとその復活の力とを知ることであり、死者の中からの復活に達することです。すなわち、復活の力を知り復活に達することです。これがパウロの目標であり、クリスチャンとしてパウロが私たちに勧める目標なのです。キリスト教と言うと、愛を目標としているのではないのかと思われがちですが、それは目標ではなく為すべきことです。私が愛するように、あなた方も愛し合いなさい、というイエス様の新しい戒めであって、目標ではないのです。

パウロは、自分が既に完全なものとなっているわけではないと言っていますが、これは道徳的信仰的に完全だと言う事を言っているのでしょうか。そんな人はいるはずもないと思うのですが。ここで言われる完全と言う言葉は、何かをするために必要な機能的完全さなのです。すなわち、復活を知ると言う事において、良く分かっていると言う事なのです。でもパウロはそれを既に得たわけでも、知っているわけでもないと言う事を言っていて、それを目標にして、頑張っているのだと言うのです。何とかそれを捕えようとしているのだと言います。なぜそんなことを目標にするのかと言えば、それは自分自身が既に、イエス・キリストに捕えられているからなのです。イエス・キリストに捕えられた人は、自分から目標を選ぶのではなく、イエス・キリストによって目標を与えられ、それを捕えるように導かれているのです。パウロは13節で、また自分はそれを捕えたとは思っていないと言いました。そして、ただその事だけに集中して、捕えようと全身で、全力でその目標に向かって走っているのだと言うのです。それはその目標に達した時に与えられる、このすばらしさが分かっているからです。誰でもその目標に向かって努力するのは、その目標を達成した時のすばらしい歓喜を思い浮かべるからです。パウロの目標は、神様がお与えになるその賞を得る歓喜を思い浮かべて、そこに向かってまっしぐらにひたすら走るのだと言うのです。しかも「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」ひたすら走るのです。パウロにとって、後ろのものとはユダヤ教です。前のものとはキリスト教です。パウロは、今までずっとその生きる指針としてきたユダヤ教を捨てて、ただキリストの教えにまっしぐらに突き進む決心をしたと言う事なのです。どこまで突き進むのかと言えば、神様が与えて下さる賞を得るところまでです。

私達はクリスチャンとしての目標をそのように考えていたでしょうか。自分の救いだけを考え、自分の幸せだけを考えていたのではないでしょうか。神様や、イエス様はそのための手段になってはいなかったでしょうか。パウロはそんなことよりも、むしろ神様の誉れを得ることを目標としていたのです。復活の信仰を通して、神様の誉れを得ることなのです。

パウロは、この完全なものと言う事をさらに詳しく言い続けます。それはフィリピの教会の中に、自分たちは完全なものだ、だからもう何もしなくていいのだと考える人たちがいたのだと思います。自分達はイエス・キリストの十字架の贖いによって完全にされたから、何をやっても救われると言う考え方です。ですがパウロは自分は完全なものではなく、それを何とかして捕えようとしているものだ。その目標を目指してひたすら走るものだと言うのです。そしてフィリピの教会の人々にはこう言うのです。15節から17節です。

フィリ 3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

フィリ 3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

フィリ 3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

 パウロはフィリピの教会で自分たちは完全だと思っている人たちに対して、パウロは自分が完全だと思っていないし、ただ完全を求めて捕えようと全力でその目標に向かうものであるように、あなた方もそうしなさいと言いました。もし違う考えがあって、自分が完全だと思うならば、神様がその事を本当かどうか明らかにしてくださいますと言いました。パウロは自信を持って言います。兄弟たち、皆一緒に私に倣うものとなりなさい。私たちを模範として歩んでいる人々もいるのだからその様な人たちにも目を向けて、あなたたちもその様にしなさいと言っています。

そしてついにパウロは本音の所を言い始めます。なぜ、パウロがこんなにも、私に倣うきりものとなりなさいと言うのかの理由を話します。それは同じ教会の中に、福音の自分勝手な解釈をして、キリストの十字架の教えとは反対の事を語り行っている人々がいると言う事です。その事を、パウロは、いままでも何度も言って来たし、今また涙ながらに語ると言うのです。18節と19節です。

フィリ 3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

フィリ 3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

パウロは、涙ながらにこう言うのです。彼らの行きつくところは滅びです。本人たちは救われたと思って、自分たちの思い通りにやろう、この世で楽しい事をやろうと思っているのですが、その行きつくところは滅びであり考えていることはこの世の事しか考えていない、神の国を考えることはないと言っているのです。間違った救いの考えに陥っていることを反省しようとしないことをパウロは嘆いているのです。だからパウロは、そのような妄想を懐かないで、完成を目指して、復活の力を知るものとなるように努力しなさいと言っているのです。そして、私が目標を目指して努力しているように、私のようになりなさいと言っているのです。

パウロは、このようにこの世の思いに捉われて、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者に対して、あなたたちは違うと言います。20節から4章1節までです。

フィリ 3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

フィリ 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

フィリ 4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

 パウロは、私たちの本国は天にあると言います。この世はつかの間の寄留地であり、本国に帰るために、主なるイエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っているのだと言うのです。そのキリストは、万物を支配する力を持っており、私たちのこの死ぬべき卑しい体を、キリストの栄光ある体、永遠の命を持つ体と同じ形に変えて下さると言うのです。だから、私が愛し、慕っている兄弟たち、とフィリピの人々に呼びかけます。そして繰り返して、冠であり愛する人たち、と如何にパウロはフィリピの人々を愛し誇りに思っているかを言います。そしてフィリピの人々に、このように主によってしっかりと立ちなさいと呼びかけるのです。私のようになりなさい。最後まで完成を求めて目標に向かって走り続けなさいと言うのです。

 パウロのフィリピの人々への呼びかけの裏には、イエス・キリストの救いを誤解して、救いに至る事の無い人々に対するパウロの涙がありました。その様になってはいけないとパウロは必死になってイエス・キリストに従うように、その復活の力を知るものとなるようにと呼びかけているのです。パウロの考える救いは、この世のものではないのです。神の国のもとでキリストと同じ形になることなのです。私たちの救いは一体どのようなものでしょうか。私たちの救いは神の国にあるでしょうか。もしこの世での救いのみを考えているのでしたら、パウロが涙ながらに語っている救われない人々の中に私たちもいるのかもしれません。


 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様、パウロは為すべきことはただ一つだと言います。目標に向かって、ひたすら走ることだと言います。クリスチャンの目標は復活の力を知ることです。そして、神の国にあって、キリストと同じ体となり、永遠の命に生きることです。神様どうか私たちも、この世の事に捉われることなく、パウロの示してくれた目標に向かってひたすら走っていくことが出来ますように。この世の救いに捉われることなく、復活の力を信じ、キリストと同じ体となることに望みを置くことが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:◇フィリピの信徒への手紙)>>

 

◆目標を目指して

フィリ 3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

フィリ 3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

フィリ 3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

フィリ 3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

フィリ 3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

フィリ 3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

フィリ 3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

フィリ 3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

フィリ 3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

フィリ 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

フィリ 4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。