家庭礼拝 2016年4月13日フィリピ3章1‐11キリストを信じるとは

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起 

今日の聖書の箇所は、いままでパウロがフィリピの教会の人々に、噛んで含めるように語ってきた雰囲気とはちょっと違った雰囲気になります。今までの話は、どうも3章1節までで、2節からは違う手紙の内容になっているようです。1節まではパウロは落ち着いた調子で話しているのですが、2節から、あの犬どもと言って、急に興奮した怒りを込めた話し方になるのです。ですから多くの学者たちは2節からの手紙の内容は、どこかで見つかった違うパウロの手紙をここにつなぎ合わせたのだろうと言うのが一般的な見解です。

パウロは何に怒っているのでしょうか。あの犬どもに注意しなさいと、相手に対して大変侮辱的な言葉を発して、パウロは自分の生い立ちの事まで話して、反論しようとしているのです。この時代に有っては、キリスト教は新興宗教です。そしてユダヤ教は正統派の宗教です。どこの国でもどの時代でもその時の主流の正統派の宗教は、新しく起こった新興宗教を、異端だと決めつけたり、彼等は未熟で良く分かっていないから、あのような間違った話を信じているのだ、と言ったような批判をするのです。今の私たちのような立場とは違うのです。今では私たちクリスチャンは正統派宗教の仲間入りをしているのです。ですが当時は、正統的な信仰の継承者を自任しているユダヤ人たちは、キリスト教を信じる人々を非難し、自分たちの教えこそ正統的なものなのだから、イエス・キリストの教えなどと言う馬鹿気た教えを捨てて、自分たちのユダヤ教をしっかり学びなさいよと言われていたのだと思います。このように、自分達こそ正しいのだと言う論理で、教会の人々の一致と信仰とをバラバラにしようとしているのです。パウロはその事に対して怒りを込めて反論しているのです。そして、いかにキリストを信じる信仰が素晴らしいのかを、この手紙で教えて、キリストの信仰にしっかりと立つようにと励ましているのです。それでは本文を読んでみましょう。

では、1節ですが、この節だけは今まで語られた、1章、2章の文脈の中にある、最後の締めくくりのような気がします。そこにはこう書かれています。

フィリ 3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

パウロはここで、「主において喜びなさい、」と言いました。

フィリピ書が、喜びの書と言われるように、この締めくくりも喜びなさいと言う言葉で締めくくられています。パウロはこの事をもう一度書きます、何度でも言いますと言うのです。それはパウロにとって煩わしい事ではなくて、それを言うことはその人たちのためになる、安全のためにもなると思って喜んでしているのです。私たち信仰者も、一度言ったことはいいだろうと思うのではなく、善い事は繰り返し何度でも喜んで言うことが大切なのかもしれません。それがその人たちにとってきっと良いことになるからです。

そして、先ほど言ったように2節になって急に言葉使いが荒くなります。人が変わったようになります。2節と3節です。

フィリ 3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

フィリ 3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

 パウロは、割礼の事を言いながら少し興奮して反論をしているのです。あの犬どもと言われるのはユダヤ人たちです。犬と言う言葉のイメージは、今の時代だとペットのイメージが強くてかわいい感じがするかもしれません。今の時代の飼いならされた犬は、吠えることも噛むこともあまりしないので、安全なイメージもあります。ですがパウロが語った時代の犬のイメージは野良犬です。野良犬たちは、残飯やごみをあさり、時には人に吠え付きかみつくような凶暴な犬です。死体でも貪り食うような犬です。人々からは嫌われ、軽蔑と嫌悪の対象となります。その犬どもと呼ばれたユダヤ人たちは、よこしまな働き手たちだと言います。何か悪い事をたくらんで一生懸命になる人たちだと言うのです。そして、代わった表現でこう言います。「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」

どうも割礼の事が問題のようです。ユダヤ人にとって、割礼はとても大切なものです。ユダヤ人になるには割礼を受けなければならないからです。割礼は、神の民とされ、神様の祝福を受けられると言う、免許証であり、パスポートなのです。今の教会で言えば、割礼は洗礼に当たります。洗礼を受けていない人はクリスチャンと言われないように、割礼を受けていない人はユダヤ人とは言われないのです。ですがパウロは、その割礼の事を切り傷に過ぎない割礼と呼んでいます。どうしてでしょうか。その様な割礼を持ったものに警戒しなさいと言っているのです。

当時のクリスチャンたちは、異邦人が多くなってきたので、ユダヤ人の受けているような割礼は特に強制されませんでした。ですから、割礼を受けているユダヤ人たちから見ると、それは割礼を受けていないので、本当には神様の民となることが出来ない、本物は割礼を受けたものにあるのだと言う主張がなされていたのです。その様な人々を非難して、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」と言っているのです。それは割礼のある者達が、割礼の無いものを見下しているからです。その様な言葉に惑わされないように警戒しなさいと言うのです。

そして、反対に、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です、とその主張を言い始めました。真の割礼とは何を言うのでしょうか、切り傷に過ぎない割礼とどう違うのでしょうか。それがここでの箇所の大切な主張なのです。パウロはその真の割礼の根拠を、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」と言いました。割礼とは神の民であることの証しであり、それは体に刻んだ傷が証明となるのではなく、神の霊によって礼拝することである、そしてその事を教えて下さったイエスを誇りとすることであると言うのです。真に礼拝し神に近づく者こそ、真に割礼を受けたものだとするのです。それは心に割礼を受けたもの、霊的な割礼なのです。

そして、パウロはここでまた語調が変わり、パウロにしては全く珍しく、自分自身の生い立ちの事を語り始めるのです。それは、先ほどのイエスを誇りとし、肉に頼らないからです、という言葉を強調するためです。ユダヤ人たちは肉に頼っていました。それはどのような意味かと言えば、自分たちは神様から選ばれた、尊い種族だと言う事です。その系図をたどれば、アブラハムに通じ、そして神様にいたる種族としての系図を持っている、すなわち自分たちは神様のつくられた最初の人間の子孫であると言う誇りでした。そしてアブラハムが神様と交わした契約のしるしとしての割礼を身に帯びて、自分自身の身体にそのしるしを持っていると言う誇りでした。この事が、ユダヤ人たちを特別な人間とし、異邦人たちは神様に属さない人種だと言う考えにいたっているのです。

その特別に選ばれた人種である、ユダヤ人であると言う誇りを頼りにすることなく、今はただ真の割礼を与えて下さった、イエス様のみを誇りとすると言っているのです。ですがユダヤ人たちはクリスチャンたちはユダヤ人でないから、神様の事は本当にわかるはずはないし、割礼も受けていないものがその救いに入れるはずはないと言っていることに対し、パウロは強烈に反論するのです。それは、ユダヤ人が誇りとする、肉による誇りを自分が持っていないのではなく、持っていてもそれを無価値なものと思っているから捨てるのだ。自分にもあなたたちが誇っているようなものは十分にあるが、今はそれに価値を措いていないのだと言って、自分自身の生い立ちを説明をするのです。4節から7節です。

フィリ 3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

フィリ 3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

フィリ 3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

フィリ 3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

 パウロは、ユダヤ人のように肉による誇りを誇ろうと思えば自分も誇れなくはない、それは他のユダヤ人以上に自分の方が誇れるはずだと言うのです。それはどうしてかと言うと、5節の言葉の中にあります。これはいかに自分が優れたユダヤ人であったかを、強調している言葉なのです。

まず、パウロは8日目に割礼を受けたと言います。これはアブラハムの子孫の中でも直系のイサクの子孫であることを意味します。そしてイスラエルの民に属すると言いました。これは、アブラハム、イサクの子孫の中でもその中心となるヤコブの子孫であると言う事です。ヤコブが神様からイスラエルと言う名をいただいているのです。そしてそのヤコブの12人の子供たちの内でも約束の地で生まれた末っ子のベニヤミンの部族に属すると言いました。これは高貴な部族に属すると言う事です。そしてヘブライ中のヘブライ人です、という言葉が続きますが、ヘブライ人と言うのはユダヤ人の中でも、純粋にヘブライ語を話しユダヤ人としての生活を守っている人々なのです。当時はユダヤ人は世界中に拡散していったので、ユダヤ人の信仰的な生活をしっかり守っていても、その言葉はいつの間にかその地方の言葉や特にギリシャ語を話すユダヤ人に代わっていったのです。ですが、パウロはタルソスで生まれましたが、わざわざエルサレムでヘブライ語の教育を受けて、純粋なヘブライ人となったのです。ですから、もっとも純粋なユダヤ人として誇るべきものをすべて持っていたのです。さらに、律法に関してはファリサイ派の一員、すなわち厳格に律法を守る人々の中にいたと言う事です。これもユダヤ人の中でもさらに選ばれた特別な人たちなのです。そして、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした、と言います。そのファリサイ派の中でも最も熱心な一人だったのです。尊敬されるユダヤ教徒になるためには、人よりもすぐれた熱心さがなければなりませんでした。その熱心さは教会の迫害者になるほどだったと言うのです。

パウロは、これほど自分はユダヤ人として誇るべきものを持っていたと言います。しかし、パウロにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった、と言うのです。どうしてでしょうか、それはそれ以上に素晴らしいものを発見したからでした。それはイエス・キリストを知ることのすばらしさを知ったからです。8節から11節です。

フィリ 3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

フィリ 3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

フィリ 3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、

フィリ 3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

パウロはユダヤ人としての誇りだけどころか、他の一切のものを損失とみなしていると言いました。一番素晴らしいものを得た人は、それだけでいいと言う事になるのです。一番いいものを持っていながら、他のものにも捉われているならば、それは一番いいものを貶めることになるからです。ですからパウロは一番いいものだけを残して他はすべて手放したのです。むしろそれらはちり芥のように、かえって一番いいものを汚してしまうものと考えているのです。

その一番良いものとは、キリストを得、キリストの内にいるものと認められることです。それまでのパウロは、律法を厳格に守ることによって、神様から義とされ、救われる道を求めていました。ですがそこではいくら頑張っても救いを得る事は出来なかったのです。ところが、キリストを信じる信仰を得てからは、ただそれだけで神様から義とされていることを悟ったのです。

パウロが他のすべてを捨てても得たかった、一番素晴らしいものとは、キリストを信じ神様から義とされることだったのです。そしてパウロはそれをついに得たのです。そして、今では、こう告白するのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」救いにあずかったパウロの次の目標は、キリストとその復活の力を知ることです。それは単に死者の中からの復活に達したいと願っていることだけでなく、キリストと同じその苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりたいと願っているのです。十字架での死さえも願っているのです。そのうえで同じように死者の中から復活したいと願っているのです。

 パウロは純粋なユダヤ人であり、その中でも特に素晴らしい血統と教育を受けたユダヤ人でした。ユダヤ人達はそのような肉の事を誇りに思って、クリスチャンたちを見下げていたのですが、パウロは自分はそのようなものは全部持っているけれども、そんなものはちり芥のように思っていると言うのです。なぜならば、そんなものよりもずっと素晴らしいものを発見したからです。それはキリストを信じることによって、神様から義と認められることを知ったからです。そして今では、キリストとその復活の力とを知って、キリストのその苦しみも、十字架も全部受けて、何とかして死者の中からの復活に達したい、と願っていると言うのです。それほどイエス・キリストによる救いを受けることは素晴らしい事だと言うのです。もう何もいらないのです。なにもこだわるものはないのです。ただイエス・キリストの信仰のみに生きることが、パウロの生きがいとなったのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。今日、パウロからイエス・キリストの信仰にあずかることがどんなに素晴らしい事なのかを教えられました。この世の宝、誇りよりもずっと素晴らしいものがそこにあったのです。私たちは、この素晴らしさになかなか気が付かず、この世のちりあくたを喜んでいる未熟なものですが、どうかあなたに委ねて、自分の思いではなく、ただあなたの思いによって、あなたの憐れみによって、あなたのもとにひざまづくことが出来ますように。その素晴らしい恵みを知って喜ぶものでありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


<<聖書の箇所(新約聖書:◇フィリピの信徒への手紙)>>

 

◆キリストを信じるとは

フィリ 3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

フィリ 3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

フィリ 3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

フィリ 3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

フィリ 3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

フィリ 3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

フィリ 3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

フィリ 3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

フィリ 3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

フィリ 3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、

フィリ 3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。