家庭礼拝 2016年3月30日フィリピ2章1‐18キリストを模範とせよ

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起 

フィリピの教会は、パウロにとって最も模範的な教会であり、信頼し親しみを持っていた教会です。そして、フィリピの教会はパウロの事をいつも気遣って援助をしていました。ですが、その様に模範的な教会であっても、パウロには一つの心配があったのです。

それは、この前に学んだヤコブの手紙に共通することです。この時代の初代キリスト教の世界に広くはびこっていた問題です。それは教会の中に分裂が生じていると言う事です。教会の中で、イエス・キリストの教えをどのように受け止めるかによって、いろいろな立場が生じていたのです。ある人たちは敵対し、ある人たちは他の人たちを排除しようとしていました。むしろ、教会にとって教会の外の敵は教会を一つに結束させるのに役立ちましたが、教会の中の敵、すなわち教会の中の不一致は教会そのものを崩壊させる危険を持っていたのです。

ですからパウロの一番の願いは、教会が一つ思いとなって、キリストに従ってほしいと言う事なのです。一つにならない原因は、いつも自分の方が正しいと思っている人がいて、他の人の立場や意見を受け入れられないことなのです。その様な思いを捨てて、へりくだって、互いに受け入れていきなさいと言うのがパウロの薦めなのですが、この事はヤコブの手紙にもふんだんに語られていたことでした。このような問題がこの時代どこの教会でも共通に起こっていたのです。

現代でも起こっているこの様な問題に対して、パウロはどのように語り、勧めているいるのかを聖書から聞いてみたいと思います。そして私たちの信仰生活の指針にしていきたいと思います。

今日の最初のテキストの箇所1節2節で、パウロはこう語りました。

フィリ 2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

フィリ 2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

 この箇所は、そこで、という接続詞で始まっていますが、一体何を受けての、そこで、なのかを振り返って見ます。1章の最後では、「あなた方はキリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」とパウロは語り、私と同じ戦いをあなた方は戦っているのです、と言いました。この言葉を受けて、そこで、と言っているのです。それは、キリストを信じ、キリストのために苦しむことも覚悟しているならば、と言う事です。パウロはどうしろと言っているのでしょうか。結論から先に言うと、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と言う事なのです。それほど、教会の中は一つではなかったのです。パウロの一番の喜びは、あなた方が一つになることですよと言っているのです。その一つ思いになるために必要な事は何かといえば、それは、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心です。パウロは、エフェソの教会の人々に、あなた方が幾らかでもそのような思いがあるならば、一つ思いとなってほしいと訴えているのです。これはエフェソの教会の人々がそのような思いが全くないからというのではなく、むしろあるのだから立場や考えの違いを超えて、共通に持っているキリストの愛、励まし、霊、慈しみ、憐みの心などを第一にして、一つ思いになってほしいと言う事なのだと思います。

そして、具体的にどのように行ったらいいのかをこのように語りました。3節から5節です。

フィリ 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

フィリ 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

フィリ 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

私達が一つ思いになる方法、これは今の私たちにとっても、とても大切な方法です。この方法をぜひみんなで共有していきたいと思います。パウロが教えているのは、まず第一に、何事も利己心や虚栄心からしてはいけないと言う事です。自分の事を考えていては、一つ思いになる事は出来ないし、虚栄心のように、うわべの事を意識していては、一つ思いになる事は出来ませんと言っているのです。自分がどう思われるかなど気にしてはいけませんと言うのです。

二つ目は、へりくだって、互いに相手を自分よりもすぐれたものと考えなさい、と言う事です。謙遜はクリスチャンの特徴です。なぜ謙遜であることが出来るかと言えば、神様こそが全能であり、全ての恵みを与えて下さり、私たちはそれをただ受け取るだけであると言う事から来ているのです。自分ではなく神様を見上げていれば、自然と謙遜になるのです。そして謙遜になって、相手を自分よりもすぐれたものと考えなさいと言っているのです。自分の方が偉いはずだ、などと虚栄心をむき出しにしていては、一つ思いになることなどできませんよと言っているのです。あなたこそ偉い方です、素晴らしい方ですと言っていると、相手も、いやあなたがそうなのですよと互いに謙遜になって一つ思いとなってくるのです。

そして三つ目は、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい、と言う事です。自分の事だけを考えていては、一つ思いなどになる事は出来ないのです。相手の立場や考えに注意を向け理解しようとしない限り、一つ思いになる事は出来ないのです。これは人間関係全般にわたって大切な教えとなるのです。それは、キリスト・イエスにも見られることです、と言っていますが、イエス様もその様に、謙遜にそして他人に心を配って歩まれたのだから、あなた方もイエス様を模範にして歩みなさいと言っているのです。

そして、有名な次の言葉を述べました。6節から9節です。

フィリ 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

フィリ 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

フィリ 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

フィリ 2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

この箇所は、イエス・キリストがどのような方であられたのかを非常によく表しています。それは謙遜と従順です。その高さと深さは、天と地とを超えるほどです。キリストは、神の身分であったのに、僕の身分となったのです。それは見かけだけそうなったと言うのではなく、神様の持っている色々な力、特権を全て捨て去ってそれに執着することなく、僕となったと言うのです。その僕と言うのは全く、私たちと同じ人間になったと言う事なのです。それも単に人間になったと言うのではなく、さらに、人に仕える僕すなわち奴隷となったのです。それは自分を無にすること無しにはできることではなかったのです。それほど、イエス様は謙遜になって、私たちに仕えるものとなって下さったと言う事なのです。

そしてその謙遜さをもって、イエス様は死に至るまで、しかもその死は十字架の死と言う恐ろしい死の時にいたるまで、従順であったと言うのです。どこかで居直ってしまって、自分の力を誇示するようなことはなかったのです。僕のままで、奴隷のままで、人々の為すがままに、神の身分を持っていたイエス様は、十字架の上で死んでいったのです。その事を神様は、高く評価されたのです。神様はイエス様に、どの人よりも素晴らしい人間として、崇められるべき栄誉を与えられたと言うのです。神様が評価するのは、そのような、謙遜な姿なのです。何かが出来ると言う事ではないのです。謙遜であればあるほど、神様はその人を高く上げて下さるのです。この事に気が付いた人は、本当のクリスチャンとなって、イエス様に似たものとなろうとするのです。それは謙遜で従順であると言う事です。

この聖書の箇所6節から9節は、リズムが良く、よく知られた箇所なのですが、実はこれは歌になっていると言うのです、韻を踏んだ讃美歌になっているのです。当時この様な讃美歌があったのかもしれません。又それを作ったのはパウロだったのかもしれません。当時もきっとこの言葉を口ずさみ、イエス様に倣って生きようとしていた人々がたくさんいたのだと思います。

パウロは最後にこう言いました。10節と11節です。

フィリ 2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

フィリ 2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 神であるのに僕となられて、謙遜に従順に十字架の死まで生きられたイエス様に対して、天上の者も、地上の者も、地下の者もすべて、すなわち全宇宙がイエス様の御名にひざまづいたと言うのです。イエス様の謙遜に、賛美を捧げたのです。そしてすべての者が、「イエス・キリストは主である。」と公に述べて、父である神をたたえました。この、「イエス・キリストは主である」と言う言葉はまさに信仰告白なのです。この信仰告白を唱えたものは、クリスチャンとなることが出来たのです。イエス・キリストと言うのもすでに信仰告白です。これはイエスはキリストすなわち救い主です、という信仰告白です。その言葉に対して主である、という言葉が付け加えられました。主である、というのは、神であると言う言葉とほぼ等しい言葉なのです。しかも当時の最も権力のあったローマ皇帝が、自分の事を主と呼ばせていたのですから、当時のこの言葉の重みが分かります。イエス・キリストは主である、というとき、それはローマ皇帝よりも高い支配者、全ての支配者である、と言う事なのです。ですからこれを語ることは危険でもあり、命がけの事なのです。今ではすっかりすたれてしまった言葉で、その重く深い意味さえも失われてしまいましたが、主と言うのは単に主人と言う程度のものではなく、全ての支配者と言う意味なのです。神と言ってもいい言葉なのです。すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです、とパウロは言っています。

パウロは、このようにイエス様の謙遜と従順を示したのち、だから、と言います。だからどうしなさいと言うのでしょうか。これはクリスチャンである私たちの信仰生活の指針となる言葉です。それは、12節13節の言葉です。

フィリ 2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

フィリ 2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 パウロの愛するピリピの人々への願いは、いつも従順であってほしいと言う事なのです。キリストから離れて自分勝手な思いに捉われて、教会を分裂させてはいけないと言う事なのです。そして、従順に生活し、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように務めなさい、と勧めているのです。信仰も長い時間がたってくると、慣れっこになってしまって、初期の初々しさを失ってしまうのです。段々、そんなことは分かっていると思って、自分勝手な思いと、自分の方が良く知っていると言った思いが湧きあがってくるのです。それでは謙遜で従順な歩みはできないのです。その様な慣れっこにならないために、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように務めなさい、と教えているのです。恐れおののくのは嫌だと思う人もいるかもしれません。もっと神様と仲良くしていたいと思うのかもしれません。ですが、恐れおののくことは信仰の防腐剤なのです。食べ物が腐らないように、塩漬けにするように、私たちの信仰にもそれが腐敗しないように、恐れおののきが大切なのです。その恐れおののきをもって、いつも新鮮な思いで、自分の救いを達成するように務めなさいと言うのです。

そして、私たちが、信仰を求め救いを求めているのは、自分の思いでそうしていると思っているけれども、実はそうではなくて、私たちの内にいる神様がそうさせているのだと言うのです。私達の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であると言うのです。望ませるのも神様、行わせるのも神様であるのだから、私達は神様と一つなのです。自分の思いでやっていたと思っていたことは実は神様と一緒にやっていたのです。

ですからパウロはこう勧めます。救いを達成するために、身近にある簡単な事をいつも行いつづけなさいと教えているのです。それは14節から16節です。

フィリ 2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

フィリ 2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、

フィリ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

その身近にある簡単な事とは何かというと、何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい、と言う事なのです。今までは、なんで自分ばかりがこんなことをしなければいけないのかと、不平や理屈を言っていたのですが、実は神様が私たちの内にいて、望ませ行わせているのだから、自分の事など考えずに神様に委ねなさいと言う事なのです。そして、こんな簡単な不平や理屈を言わずに行うことにより、とがめられるところの無い清いものとなり、非の打ち所の無い神の子となり、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと守ることが出来るようになると言うのです。とても大切なことですが、私たちの内に神様が居られると思って、不平や理屈を言わずに行っているだけで、こんな素晴らしい成長が与えられるのです。これは誰にでもでき、やろうと思いさえすれば出来ることです。ですが、私たちは、この大切な事を忘れて、今でも不平や理屈でごまかしてしまいます。

このように、不平や理屈を言わずに行うようにするだけで、私たちはその人生の最後の日には、自分が行ってきたことが無駄ではなく、労苦したことも無駄ではなかったと、イエス様の再臨の時にはそれを誇ることが出来るでしょうと言っているのです。すべては内にある神様がなしてくださると信じて、不平を言わず、理屈を言わずに行っていきたいと思うものです。

そして、最後にパウロはこのような不思議な事を言いました。17節と18節です。

フィリ 2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。

フィリ 2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

 パウロは、まるでユダヤ教のように、または異教徒の様に、生贄を捧げることを言いました。ここで生贄を捧げると言う事は何を意味するのでしょうか。クリスチャンは生贄を捧げるはずはなく、また、礼拝で血を注ぐこともありません。パウロはその当時色々なところで見かける宗教的儀礼に真似て言っているのです。生贄を捧げるとは、私たちの生活全体を捧げることでしょう。そして私の血が注がれるとは、信仰者の礼拝が守られるためには、パウロはその命をも惜しまず捧げると言う事でしょう。パウロは今、キリストのために獄に捕らわれており、いつ自分の命が奪われるかわからない状況にあるのです。ですが、キリストのためならば、私はそれをも喜ぶと言っているのです。あなたがた一同と一緒に、その礼拝を喜ぶと言っているのです。だから、あなた方も喜びなさい。私のような獄にいるものが喜んでいるのだから、私と一緒に喜びなさいと、信仰に生かされる生活を喜ぶことを勧めているのです。

 パウロは、最後に喜びなさいと4回も言い続けました。それも、たとえ私の命が奪われ、その血が注がれるとしても、喜びなさいと言っているのです。イエス・キリストのために注がれる血はその死をも超えて喜びに満ちているのです。ですからパウロは言うのです。虚栄心や利己心で自分の我を通そうとして、教会の中で仲たがいしてはいけない。謙遜になり、従順になりなさい。イエス様がその模範を示してくださったではないか、十字架の死にいたるまで従順であられたではないか。一つ思いになって、相手を自分よりもすぐれたものと考えて、尊敬しなさい。へりくだっていきなさい。あなたたちが一つであることこそ、私の喜びなのだから、というのです。そして不平や理屈を言わずに、清いものとなって、自分の救いを達成しなさいと教えてくれているのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様、私たちがあなたの教えてくださいました、謙遜と従順を身に着けて歩み通すことが出来ますように導いてください。私たちが信仰を持って歩むことが出来る幸いは、私たちの思いによるものではありません。あなたが私たちの心に住んでくださって、私たちのその思いを願わせてくださっており、その信仰の行いを行わせてくださっています。私たちが何気なく思い、行う中にもあなたの御手の業が働いていることを覚えさせてください。そしてそのようなあなたに守られていること、導かれていることを感謝と喜びをもって賛美することが出来ますように。その様に生かされていることを覚えて、謙遜に従順に歩んでいくことが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇フィリピの信徒への手紙)>>

 

◆キリストを模範とせよ

フィリ 2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

フィリ 2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

フィリ 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

フィリ 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

フィリ 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

フィリ 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

フィリ 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

フィリ 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

フィリ 2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

フィリ 2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

フィリ 2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

◆共に喜ぶ

フィリ 2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

フィリ 2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

フィリ 2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

フィリ 2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、

フィリ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

フィリ 2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。

フィリ 2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。