家庭礼拝 2016年3月23日フィリピ1章12‐30生きるとはキリストを生きること

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多くの人間が一度は自分に問いかけ、多くの哲学者がその答えを求め続けた問、それは「生きるとは何か、」と言う問です。今日のテキストは、その問いに対して、パウロは、明快に一言で答えているのです。多くの哲学者たちがこの問いに答えるのに、一冊の本を著すほど多くの言葉を用いなければならなかったの較べ、なんという単純明快さでしょうか。後で順を追って学んでいきますが、パウロのこの答えは、「私にとって、生きるとはキリストを生きることである。」と言う答えなのです。そして、パウロはその言葉通りに、生きた人でした。

私達にとって、生きるとは何でしょうか。その答えは人それぞれであって構わないのです。ですがその人にとって生きるとは何かを、明快に答えられなければ、その人は本当には生きていないのかもしれません。人によっては、生きるとは目標をもって生きること、生きるとは他人のために善い事をすること、生きるとは、最高の力を得るものとなること、生きるとは自己実現をすること、生きるとは、幸せになること、などいろいろあるのでしょう。では本当にそれを生きているでしょうか。それが問われているような気がします。

パウロは、今獄に捕らわれています。ローマかエフェソの獄にいます。これをローマであると考える人が多いのではないかと思います。獄に捕らわれているとのイメージは、石牢の暗いじめじめした小さな部屋に、鎖でつながれ、身動きできずうなだれていて、牢番がそれを監視していると言う、映画でよく見るイメージを思い出します。たしかに、パウロは鎖でつながれていたし、兵隊がいつも監視していたのです。ですがそこは石牢ではないのです。パウロが自分で借りた家なのです。その家の中で、パウロの手と兵卒の手が鎖でつながれて四六時中監視されてはいるのですが、パウロに会いに来る人には会う事は出来、話も世話もできるのです。ですから、訪ねてきた人たちといろいろな話をし、それを兵卒も一緒に聞いている内に、その兵卒たちもまた、パウロに驚きと関心をもってその話を受け入れていくようになっていたのです。ですから、獄と言っても、とても開かれた感じの捕らわれの身であったのです。

それでも、フィリピの教会の人々は、パウロが捕らわれの身となっていることを悲しみその宣教の障害になっていることを惜しんだのです。そして、もっと自由であったなら、キリストの宣教はもっともっと広く正しく行われているだろうにと言う事をパウロにつぶやいていたのです。フィリピの人々は、このように言って、パウロが早く自由の身になって、宣教できることを願っていることを伝えて励まそうとしていたのですが、パウロはそうではなくて、今の状況の中で新しい宣教が出来ていることを伝えて、決して落胆しないでくださいと反対にフィリピの人々を励ましているのです。その様な状況の中で語られたのが、「私にとって、生きるとはキリストを生きることである。」と言う言葉なのです。それでは本文に沿って、その言葉の意味を学んでいきましょう。

今日の聖書の最初の箇所で、パウロはこう言いました。12節から14節です。

フィリ 1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。

フィリ 1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、

フィリ 1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

フィリピの教会の人々は、パウロが自由を奪われていることで、福音宣教が阻害されていることを心配していました。それに対して、パウロはその心配はありませんと言う事を「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」と言う言葉で表しているのです。獄に繋がれていることが、かえって福音宣教に役立っているとはいったいどういう事でしょうか。それは、パウロは手に鎖をつながれ、監視の兵士の手にその鎖が繋がれているのですが、そこでパウロは、かえってその兵士たちに福音を伝え、その監視の兵士たちが交代するたびに新しい兵士たちに福音を伝えて、いつの間にか、兵営全体と、その他の関係するすべての人々に知れ渡るほどになったと言うのです。それは3年ほどの長い間だったので、多くの人々に伝えることが出来たのです。たとえ監禁されていても、このような宣教の仕方もあるのだと言う事なのです。しかもその兵隊たちと言うのは、近衛兵に相当する人たちで、上級の兵士たちなのです。その人々に、パウロの事がどのように伝わったかと言うと、パウロが監禁されているのは、キリストのためであると言う事です。それは、神様の御心を行うために監禁されていると言う事であり、神様の御心を知らせるために監禁されていると言う事なのです。そして、パウロに会いに来た信仰者たちは、その様に監禁されていても福音が述べ伝えられているのを見て、その信仰を確信し、恐れることなく勇敢に御言葉を語るようになったと言う事をフィリピの教会の人々に伝えたのです。

 ですがこのように、パウロに対して好意的な人ばかりではなく、むしろパウロを批判し、パウロが獄に入れられているのは、その罪であり、その間違った教えのためであると言って、パウロを貶め、自分の方に信者を呼び寄せようとする利己的な人もいたのです。ですがパウロは、そのような事をも受け入れて、こう言ったのです。18節から20節です。

フィリ 1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

フィリ 1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

フィリ 1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

パウロは、自分がどのように言われても構わないと言っているのです。自分を非難することによって、キリストが告げ知らされるのならば、それでもいい、私はそれを喜んでいると言ってるのです。自分がどうなろうと、キリストが述べ伝えられるのならば、自分はそれを喜ぼうと言っているのです。その支えとなっているのは、あなた方の祈りと、イエス・キリストの霊の助けである、それが私の救いになっていると言っているのです。それほどパウロのフィリピの人々に対する信頼は高いのです。どんな風に言われても、フィリピの人々が祈ってくれて、キリストの霊の助けさえあれば、どんなことにも恥をかかずに、キリストがあがめられることを願って行けると告白しているのです。

そしてパウロは、最初の命題の、パウロにとって、生きるとは何かを語りだすのです。21節から24節です。

フィリ 1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

フィリ 1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。

フィリ 1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

フィリ 1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

 パウロは「私にとって、生きるとはキリストである。」と言いました。すなわち、キリスト無しに生きていくことは考えられないと言う事です。キリストによって生き、キリストのために生き、キリストを伝えるために生きるのです。その心からキリストがひと時も離れる時がないのです。いつもキリストと共にあり一体となっているのです。このパウロが多くの言葉を費やしているのは、むしろ死ぬことです。パウロにとって死ぬことは利益だと言うのです。かえって死ぬことの方が望ましいと言っているのです。ですが、生き続ければ、この世で実り多い働きが出来るのであって、死んだ方が良いのか生きていた方が良いのかわからないと言います。この二つの事の間で板挟みになっていると言うのです。死んでキリストと共に居るほうがずっと良いと望んでいるのだけれども、あなた方のためには生きて共に働いた方が良いと思っているのです。

 生きているよりも、死んでキリストと共に居る方が良いと言う思いまで、その信仰が高まるものなのでしょうか。多くの苦しみの中にあっても、キリストの喜びを知ったパウロにとっては、その方が、良いと言う思いにもなっていたのかもしれません。私たちの信仰にもそのような高みが与えられることを願うものです。

そしてパウロはこう結論付けました。私は生きるか死ぬかの思いの中で板挟みになっているが、あなた方のために、生き続けた方が良いと確信したのです。25節と26節です。

フィリ 1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。

フィリ 1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

パウロは、あなた方の信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなた方一同と共に居ると約束しました。そして、再びあなた方のもとに姿を見せるときには、その再会の喜びとともに、共にイエス・キリストに結ばれていると言う喜びと誇りが増し加わるでしょうと言いました。

そして、フィリピの教会の人々にこれからどのように生きて行ったらよいのかを、具体的に示しました。27節から30節です。

フィリ 1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、

フィリ 1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

フィリ 1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

フィリ 1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

 どのように生きて行ったらよいのかを一言でいうと、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」と言う事です。ひたすらと言うのは、何があっても良いことがあっても、悪いことがあっても苦しいことがあっても、それにもかかわらずただひたすらに福音にふさわしい生活を送りなさいと言う事です。こんなに頑張っても何の報いもないではないかと思われるようなときでも、ひたすら、キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい、と言う事がパウロの勧めなのです。この言葉の陰には、パウロの教えに敵対する人々がいて、フィリピの教会の人々に苦しみを与えていることがうかがわれます。そしてそのような人々に対して、心を一つにして、福音の信仰のためにともに戦い、反対者たちに脅かされてもたじろぐことはないようにしなさいと言っているのです。この事が、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をすると言う事なのです。そうすれば、反対者たちは滅びの道を歩んでおり、あなたたちは救いの道を歩んでいることが分かるようになるからだと言うのです。これは神様がそのように導いていることなのだと言っているのです。

パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」言いました。だから、ひたすら福音にふさわしい生活を送りなさい、と言っているのです。キリストのために苦しむことは恵みなのです。キリストの愛する人々のために苦しむことは恵みなのです。私たちは苦しいことがあると、この苦しみを取り除けてくださいと祈りますが、本当は、この苦しみを恵みとして、喜んで受けさせてくださいと祈るべきなのです。私たちは、苦しみを恵みとして与えられているのですから。その模範となっているのはパウロです。パウロはそのような戦いをしていました。そして、フィリピの人々の戦いもまた、パウロと同じような戦いをしているのですから、パウロとフィリピの人々は一つなのですよと言っているのです。

 パウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストである。」と言いました。キリスト無しには生きられないと言う事です。それは生きるために絶対に必要なものであり、また目的でもあるものです。空気を息するように、ひと時も離れることなく、そのキリストのために生きると言う事です。そして、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」と命じました。そこにはどんな苦しみがあったとしても、ひたすらにキリストの福音を生きなさいと言う事です。それは「苦しむこともまた恵みとして与えられている」のだから、その苦しみをも喜んで、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい、と言う事です。

 パウロ達には多くの敵対者がいて、その道を阻んでいました。戦いの連続だったのです。ですが、フィリピの教会の人々と心を一つにして戦い抜いたのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。パウロ自身は獄に捕らわれており、フィリピの教会には教会に敵対する人々もいました。その様な状況の中でパウロは、私にとって、生きるとはキリストを生きることであるとはっきり言いました。そして、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい、と言いました。神様、どうか私達にもそのようなキリストに集中する力と生活とが与えられますように。それをできないことを嘆くのではなく、その様に祈らないことを嘆きますように。いつも喜びをもって祈り続けることが出来ますように。その祈りは、たとえどんな障害があっても私たちを新しい世界へと導いてくださいます。生きることが、キリストを生きることとなりますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:◇フィリピの信徒への手紙)>>

 

◆わたしにとって、生きるとはキリストを生きること

フィリ 1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。

フィリ 1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、

フィリ 1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

フィリ 1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。

フィリ 1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、

フィリ 1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。

フィリ 1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

フィリ 1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

フィリ 1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

フィリ 1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

フィリ 1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。

フィリ 1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

フィリ 1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

フィリ 1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。

フィリ 1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

フィリ 1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、

フィリ 1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

フィリ 1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

フィリ 1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。