家庭礼拝 2016年3月16日フィリピ1章1‐11フィリピの信徒のための祈り

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起 

今日から新しくフィリピの信徒への手紙が始まります。フィリピとは、ギリシャとトルコを結ぶ街道の途中にある、交通の要所で、当時は大都会でした。この町は、アレクサンダー大王の父であるフィリッポス王によって築かれた町です。それでその名をとって、フィリピと名付けられました。

この手紙の主はパウロです。しかも今捕らわれの身で、その獄中からこの手紙を出しているので獄中書巻とも呼ばれています。獄中書巻と呼ばれるものには他にも、エペソ、コロサイ、フィレモンの書簡などもありますが、どの場所にある獄なのは、あまりはっきりしていません。ローマかエペソかであると言うのが有力です。いずれにしても、このフィリピへの信徒への手紙が書かれたのはパウロが獄中にあり、いつ死刑になるかわからないような状況での手紙であると言う事です。

ですが不思議な事に、この手紙は喜びの書簡と呼ばれているのです。その理由は、この手紙の中で何度も喜びと言う言葉を用いて、フィリピの人々を励ましているのです。この手紙はそのような喜びと感謝に満ちた、友人たちに出した手紙なのです。このフィリピの教会の人々は、パウロが最も親しくしていた教会でした。ですから、この手紙の最初の挨拶には、パウロの手紙によくあるような、形式ばった、自分の公的立場を説明するような挨拶というものがありません。親しい友達に語り掛けるような、自然な挨拶なのです。

この手紙を出したのには訳があります。それはパウロの協力者であるテモテと、フィリピの人々が獄中のパウロの世話をさせるために派遣したエパフロディトをフィリピに送るために書いたのです。そのどちらかにこの手紙を持たせて、フィリピに送ったのです。エパフロディトの場合はちょっと状況が複雑でした。獄中にあるパウロのお世話をするためにわざわざ派遣されてやってきたのですが、十分な世話もできないうちに、エパフロディト自身が病気になってしまったのです。それもひん死の重病になってしまったのです。エパフロディトはそのような状況になってしまったことを心苦しく思っていました。ですから、パウロはそのエパフロディトを気遣い、フィリピの人々に温かく迎い入れてくれるように、この手紙の中で説明して、送り返してやったのです。

この手紙にはこのような背景があるのです。そのうえで、パウロはフィリピの教会の人々に感謝と励ましの言葉を述べているのです。獄中にあるパウロがこのような喜びの書を書くことが出来たのは、キリストを模範とし、キリストを生きることが出来たからです。なぜそのようにできたのかをこの手紙を学んで教えられたいと思います。

この手紙もまず、挨拶から始まります。ですがその挨拶は友人たちに対する親しい挨拶のようなものです。自分の事を使徒であると言う事を主張せず、ただイエスの僕であるパウロ、と言っています。では1節と2節です。

フィリ 1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

フィリ 1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 この手紙はパウロとテモテの連名によって出されています。テモテは、パウロにとても愛された人で、パウロと共にたびたび一緒に伝道旅行をしています。先ほど説明した獄中書巻のエペソ、コロサイ、フィレモンの書簡の中にもテモテの名前が出ていますので、テモテはパウロが獄中にある時にはいつもそばにいたことになります。このようにパウロに愛され、パウロを信仰の父として慕っていたテモテの名前でもこの手紙が出されているのは、このテモテが、フィリピの教会に初めて行くので、よろしくお願いしますと言う紹介の意味もあるのです。

そして手紙の受取人は、「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」となっています。聖なる者となっているので、いわゆる聖人のような立派な人宛てに出されたのかと思いますが、この聖なるものとは一般の意味とはちょっと違います。この聖なるものとは、この世の者とは分かたれたもの、という意味です。すなわち、この世的な生き方をするのではなく、イエス・キリストの弟子として生きていく、という決心をした人たちが聖なるものであり、道徳的に徳の高いものと言うわけではありません。すなわち洗礼を受けて新しい生き方をしている教会員と言った意味になります。ですから、私達もまた、聖なるものであり、この世的な生き方からは分かたれている者なのです。

その教会員に対する最初の挨拶の言葉が、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と言う言葉なのです。私達が聖書的な言葉を友達や知り合いの人に与えたいと願うならば、この言葉こそがふさわしいのです。この言葉こそが相手の幸せを願う言葉となるのです。

さてパウロは、挨拶が終わって、まず最初に獄中にあってのパウロ自身の思いを語り始めました。それは感謝と喜びでした。3節から5節です。

フィリ 1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

フィリ 1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

フィリ 1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

パウロは、獄中にあっても、フィリピの人々の事を思い起こすたびに、神様に感謝し、皆のために祈るたびに喜びをもって祈っていると言うのです。その理由は、フィリピの人々が、パウロが宣教した最初の日からずっと、イエス・キリストの福音にあずかり、御心にかなった歩み方をしているからだと言うのです。宣教者にとって、何よりもうれしい事はその宣教の言葉を素直に受け取って、神様に従って行く姿を見ることほどうれしい事はないのです。その様な意味では、このフィリピの教会は、パウロの宣教した教会の優等生なのです。パウロはその教会の成長していく姿を見ることが何よりの生きがいとなっているのです。

さらに、パウロはフィリピの教会の人々の事をどれほどまでに思っているかをこう語りました。6節から8節です。

フィリ 1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

フィリ 1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

フィリ 1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

 パウロのフィリピの教会の人々に対する信頼はとても強いものでした。パウロはこう言うのです。あなた方の中でよい業、すなわち信仰の業をはじめられた方が、キリスト・イエスの日すなわち再臨の時までに、その信仰を完成させてくださると、私は確信していると言っているのです。すなわち、フィリピの教会の人々こそ、救われて信仰を完成させられて、パウロともに神の国に入る人々だと言う事を確信していると言っているのです。完成させてくださるのは神様であり聖霊なのでしょう。パウロがそのように考える理由は、牢獄に入って監禁されている時も、福音を弁明し立証するときも、自分には、フィリピの教会の人々がいる、ともに神の恵みにあずかる教会の人々がいると言う事を思い起こして、心に止めているからだと言うのです。そしてパウロがフィリピの教会の人々の事をどれほど思っているかは、神様が証して下さいますとさえ言っているのです。パウロのフィリピの教会を愛してやまない思いが伝わってきます。それは、たとえ獄中の捕らわれの身になったとしても、フィリピの教会の事を思うと、パウロの心は喜びと感謝があふれ出てくるのです。パウロにとって、フィリピの教会の人々は、神の業の証しそのものなのです。神様が、このような新しい人々を作って下さったと言う証拠そのものなのです。

 そして、パウロはフィリピの教会のために祈りました。9節から11節です。

フィリ 1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、

フィリ 1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、

フィリ 1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 パウロがフィリピの教会のために祈った祈りは、単にあなた方の愛がますます豊かになりますようにと言う事だけではありませんでした。その愛が、知る力と見抜く力とを身につけたものとなるように、と言うこの世への対処も含めた愛の力を持つものとなるようにと言う祈りでした。いろいろな現実的な問題や誘惑を含む教会の歩みの中で、知る力と見抜く力をも身に着けてほしいと言うパウロの願いでもありました。それは、本当に重要な事を見分けられるようになってほしいと言う思いでもありました。その本当に重要な事とは、イエス様の再臨の時に備えて、清いもの、とがめられるところの無いものになると言う事なのです。そしてそうなれば、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるようになるでしょうと言う事なのです。

 私たちクリスチャンが、再臨の時に備えて、清いもの、とがめられるところの無いものになろうとしているでしょうか。パウロが愛してやまないフィリピの教会のために祈った言葉は、この再臨の時に備えて、清いもの、とがめられるところの無いものとなりますようにと言う祈りだったのです。私達もまた、自分の愛してやまない者たちのために、清いもの、とがめられるところの無いものになりますようにと祈る思いが大切なのではないでしょうか。

 パウロは獄中にあっても感謝と喜びを捧げることを忘れませんでした。そして愛する者たちのために祈りを捧げていました。それは、その愛する者たちが、再臨の時に備えて、清いもの、とがめられるところの無いものになるようにと言う祈りでした。

 私達は、ちょっと苦しい状況の中にあると、もう自分の事しか考えられず、不平不満を言い、つぶやいてしまうものです。ですが、キリストによって生きているパウロにとって、そのようなものは全く問題ではないのです。むしろ自分の事よりも愛する者たちが、正しい信仰の道を歩んでくれていることが一番の嬉しい事だったのです。そしてこの獄中書巻と呼ばれるフィリピの信徒への手紙は、喜びの書と呼ばれるほど喜びに満ちた書簡となったのです。

 

 

(一分間黙想)(お祈り)

 

 天の父なる神様。今週から、フィリピの信徒への手紙を学ぶことになりました。あなたの導きが与えられて感謝いたします。喜びの書と言われるこの手紙を学ぶことによって、私たちの心にも大きな喜びが与えられますように。パウロが、自分の事よりも愛するフィリピの教会の事を思っていつも喜びに満たされていたように、私たちも愛する者が、御心に適って成長している事を思っていつも喜びに満たされますように。そしていつもその事を願い求めて祈っていくことが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◇フィリピの信徒への手紙

◆挨拶

フィリ 1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

フィリ 1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

◆フィリピの信徒のための祈り

フィリ 1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

フィリ 1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

フィリ 1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

フィリ 1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

フィリ 1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

フィリ 1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

フィリ 1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、

フィリ 1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、

フィリ 1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。