家庭礼拝 2016年3月2日ヤコブ4章11‐17兄弟を裁くな
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起
前回のテキストの箇所でも言いましたが、ヤコブの悩みは教会の外にあるのではなく、内なる分裂、堕落の危険に対するものでした。神様に従うことを忘れて、自分勝手に語り、行い、そして争っているのです。その原因が欲望であり、思い高ぶりです。ヤコブは、教会の教えがないがしろにされて、本来の信仰を失っていることを、憂慮して、この手紙を書いているのです。その姿は、まるで、旧約聖書のエリヤやエレミヤのように民衆に警告を発する預言者のようであります。
今の世界のキリスト教を信じているものとしては、その昔、キリスト教の初めにこのような不安定な、自分勝手な教会の実態があったなどとは信じられません。その実態は、どろどろとした、欲と争いの世界に近かったのかもしれません。その様な中には敬虔な思いで信仰をしている人々もきっと少しはいたのでしょう。その様な教会の姿を何とか浄めていきたいと言う思いで、ヤコブは声を上げ、こぶしをあげて、語り掛けているのです。
今の時代の教会も、もしかするとヤコブが見たならば同じように、必死の警告を発しているかもしれません。あなたたちは一体何をしているのだ、どうしてイエス・キリストを見ないのだ、どうして神様の御心を行わないのだ。愛と信仰による一致はどこに行ってしまったのだと言われるかもしれません。今の世界にもこのヤコブのような預言者的な人が必要なのだと思います。今の教会には、生ぬるい信仰生活から抜け出させるような一喝を与える、預言者的な言葉が必要なのだと思います。
承
今日の聖書の箇所は、前回と同じ文脈の中にあります。主の前にへりくだりなさい、という教えです。その時代の教会の一番の問題は、自分を偉いもののように思って、主の前にへりくだる謙虚さにかけていたことです。クリスチャンがどんなに知識や、財力や、権力があったとしても、謙遜さを失ったらクリスチャンとは言えません。謙虚であり、謙遜であることは、クリスチャンの一番の徳質に当たるのです。
今日の教えの最初の言葉は兄弟を裁くな、と言う事です。ヤコブは11節でこう言っています。
ヤコ 4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。
ヤコブは信者たちに対して、互いに悪口を言い合ってはいけません、と言いました。ここでの悪口の言葉のもともとの意味は、面と向かって悪口を言うのではなく、その人のいないところで、噂話で悪口を言い、貶めようとするような悪口です。すなわち陰口です。相手の人はそれに対して反論のしようの無い陰口です。ユダヤ教にしろ、キリスト教にしろ、このような悪口は律法に反するもの罪深いものとされています。この「悪口を言う」と言うのは、聖書で言う「裁く」と言うのと同じ意味になります。相手の人の行為を、これは良いこれはだめだと裁くことです。まるで自分が一番偉いものにでもなったかのように、相手を裁き、これはだめだと決めつけることが多いのです。そうすると本当に自分が偉くなった気持ちになって、快感を感じるのです。キリスト教や、ユダヤ教がこの裁くことをとても強く禁じているのは、それは単に人を傷つけるから良くないとか、高慢であるとか、裁くものは裁かれるからという意味で禁じているのではないのです。それは神様の権威を傷つけるものだから、強く非難されているのです。律法は神様から与えられたものです。その律法を私たちは神様の御心に従って、行うものなのです。ところが裁くものは自分が行うものではなく、その律法の裁き手であるように考えていることに、大きな罪を見出しているのです。
ヤコブは12節でこう言いました。
ヤコ 4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
律法を定め、裁きを行う方は、お一人だけですと言いました。裁くことが出来るのは神様だけなのです。私たちは人を裁いてはいけないのです。自分の意見や考え、価値観があったとしても、それでその人の行為を裁いてはいけないのです。神様が何を考えてその人にそのようにさせているかはわからないからです。それを知っているかのように思う人が、裁きを行うのです。ヤコブは強く叱って、こう言います。「神様だけが、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」私達には裁く権威がないことを肝に命じましょう。人を裁くときには自分を神様のように思っているからだと考えなければなりません。隣人を裁くあなたは、一体何者なのですかと、ヤコブの声が響いてくるのです。あなたは神様にでもなったつもりなのですかと、ヤコブは言いたいのです。
私達の日常生活でも、人を裁くことはいつも行われています。それは神様を神様とも思っていないことが原因なのです。裁くことが神様だけに許されたことであるとの思いがないからです。裁くことが自分を神様と同じにしている罪であると思い返すことが出来ないからです。裁くことに対してもっと敏感になっていく必要があるかと思います。人のうわさ話や、人の悪口は一つの楽しみになっている人もいますが、それは強く禁じられていることであることをしっかり認識しましょう。
転
もう一つの教えをヤコブは語ります。それは「誇り高ぶるな」と言う事です。人を裁くこともまた、誇り高ぶっていることによるのですが、ここではもっとストレートに自分の計画を生きようとして、神様の御心に生きようとしていない人の事を非難しているのです。そしてひとつの例を挙げてこう言いました。13節と14節です。
ヤコ 4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
ヤコ 4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。
ユダヤ人は昔から金儲けが上手でした。そして世界中に行って、いろいろな商売をして金儲けしていたのです。そしてユダヤ人はお金に汚いと言うイメージが出来て、高利貸しの非道な人間と言う印象を与えてきたのです。ですから、世界中で、ユダヤ人を悪く言う人が近代までもいたのです。ドイツ人が第二次世界大戦にユダヤ人をアウシュビッツへ送って大量虐殺したのもそのような背景がありました。ここでは、そのようなよくあるユダヤ人が、金儲けの計画の話をしていることに対して、ヤコブはこう言うのです。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」これは、あなた方がいくら自分の計画を立てていても、自分の命が明日どうなるかは分からないことを言っているのです。ですから自分の計画に重きを置いてはいけない、人間はわずかの間生かされている存在なのだからというのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません、とさえヤコブは言っているのです。
人間が目的や目標、計画を作ることは決して悪い事ではないはずです。では、なぜヤコブはこの事を非難したのでしょうか。ヤコブは次の事を言いたかったのです。15節から17節です。
ヤコ 4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
ヤコ 4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
ヤコ 4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
ヤコブは、自分の計画を立ててもいいが、自分の考えや計画に捉われることなく、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきであると言うのです。何事においても、「主の御心であれば、」と考えて行いなさい。主に許されて行うことが出来るのであることを思いなさい。自分に何でもできると思ってすることは思い上がりですよ、と言っているのです。
ヤコブは、あなた方がそのように自分の計画を語っているのは、神様のもとに生かされていることを思わず、実際は、誇り高ぶって考えているのだ、そのような神様を無視した誇りはすべて、悪い事だと言っているのです。何よりも、神様に生きることを許され、行うことを赦されて、私たちは存在するのだと言う事を謙遜に受け止めなさいと言っているのです。それを端的に表す言葉が、「主の御心であれば」と言う言葉です。私たちが何か計画しよう、行動しようと思うとき、主の御心であれば、行わせてください、と祈るならば、それは神様のみ心に適った計画となるでしょう。
ヤコブは、最後にこう言いました。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」この言葉は、ここだけではなく全体にかかっている言葉だと思います。それは行わない罪です。罪とは罪を犯したことが罪であって、何もしていなければ罪ではないだろうと思うのが、一般の考え方です。ですが、ヤコブは、善い事を知りながらしないことは罪だと言うのです。為すべきことをしないのは罪であると感じることは多いでしょうが、出来ることをしないこと、善い事を知りながらしないことまで罪だとはあまり感じないかもしれません。そこまでは自分の責任ではないと思ってしまうからです。ですが、ヤコブは、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」と言い切りました。きっと教会の中には困っている人々、苦しんでいる人々がたくさんいて、力のあるもの、お金のあるものがその人たちを助けようとしないことを非難しているのだと思うのです。「自分の事は自分でするべきだ、何も私たちが犠牲になる必要はないではないか」と思うようではいけないと言っているのです。助けることが出来るのに助けないのは罪だと言っているのです。私達にも手を差し伸べる機会は色々な所にありますが、なかなかその事を実行できません。ですが、それはもう罪なのです。知らない振りをしているのです。出来ないふりをしているのです。やろうと思えば出来ることをやろうとしていないのです。それを神様は見ているのです。私たちは「主の御心であれば、それを行わせてください。」と謙遜に祈る必要があるのです。そうすれば、神様は私たちに必要な力を与えてくれるでしょう。謙遜であることそして神様に願うことはクリスチャンの徳質です。
結
今日の聖書の箇所では、ヤコブは、兄弟を裁くな、誇り高ぶるなと言う事を言いました。教会の中には、弱い人々、貧しい人々がたくさんいたのです。ですがそれを援けようとしない金持ちの人々や力ある人々が勝手な事を言って、助けようとせず、自分勝手な計画で歩もうとしていたのです。その様な人々は、弱い人々や貧しい人々を見下し裁き、自分たちは偉いのだと言う高ぶった思いでいたのです。ヤコブは、教会はそれではいけない、兄弟を裁いてはいけない、誇り高ぶってはいけない。謙遜に「主の御心であれば、為さしめたまえ」と祈りなさい。と言っているのです。なずべきことを知りながら、それを行わないのは罪だと言っているのです。これらは本当に、今の私達にも強く迫ってくる言葉です。この言葉を大切にしていきたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちは日常生活の中で、あなたを忘れて、つい人の悪口を言ってしまったり、噂話をしてしまったり、自分の計画に夢中になったりしてしまいます。その様な事は誰でもやっていることで何の罪悪感も感じないでしてしまいますが、ヤコブは、そのような事は思い高ぶりから来ていることだと言いました。確かにその通りです。もし私たちがあなたによって生かされて、行うことを赦されていなければ、何も出来ないし、人に対しても何も言う権利がないのです。その事を忘れて、罪を犯していたことを思い起こさせてくださり感謝いたします。良い事を知りながらしないこともまた、罪であることを改めて思い起こさせられました。どうかいつも謙遜な思いで、「主の御心であれば、行わせてください」と祈り続けて、行うことが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆兄弟を裁くな
ヤコ 4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。
ヤコ 4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
◆誇り高ぶるな
ヤコ 4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
ヤコ 4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。
ヤコ 4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
ヤコ 4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
ヤコ 4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。