家庭礼拝 2016年2月24日ヤコブ4章1‐10神に服従しなさい
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起
ヤコブがこの手紙を書いて、世界中の教会に知らしめようとしたのは、外からの迫害に対して、恐れてはいけないと言うようなものではありませんでした。それよりも悩ましい問題があったのです。それは教会内の分裂です。そしてその中での争いと戦いです。愛と平和を教える教会の中でそのような問題が起こっていたのです。なぜそんなことが起こるのか、どうしたらよいのかと言う事をヤコブは一生懸命説いていたのです。
教会が説くことは口だけとなり、実行の伴わない空虚なものとなって来て、この世の争いと大して違わないようなことが起こっていたのです。そこで、ヤコブが訴えたのは、神様に帰りなさい、神様に服従しなさい。私たちはこの世のものではない。必要なものがあったら争って取り合うのではなく、神様に願い求めなさいと切に訴えたのです。
教会が力を失っていくのは分裂です。分裂したものはこの世の力を求めていきます。これは今の時代でも同じです。宗教が宗教本来の使命を忘れて、互いに抗争し、自分たちだけを正しいものにして、相手を裁き貶め高慢になってしまうのです。信仰に必要なのは神様の前に謙遜なものとなり、神様の御心に従って行くことです。その事をヤコブは強く訴えたのです。
承
ヤコブは、教会の中で分裂が起こり、戦いや争いが起こっていることを嘆いてこう言うのです。1節から3節です。
ヤコ 4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
ヤコ 4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
ヤコ 4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブは、その争いの原因は欲望であると言いきりました。神様のためでも信仰のためでもなく、自分たちの利己的な欲望、この世の欲望がそのような争いの原因になっているのではないかと言うのです。そして、あなた方は欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることが出来ず、争ったり闘ったりします、と語りました。もともとは欲望がかなえられなかったことにより、邪魔者を殺そうとしたり、手に入らないと分かると、暴力で争ってでもそれを取ろうとしているのだと言うのです。ですが、ヤコブはこう言うのです。「得られないのは、願い求めないからです。」私たちは、願い求めるものを本当に願っているでしょうか。得られないのは願い求めないからだと考えているでしょうか。それほど真剣に願い求めているでしょうか。願い求めるのは神様に対してです。人に対してではありません。ですから神様に対してふさわしく願い求めなければなりません。ヤコブはこう言います。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」私たちも、いくら願い求めても与えられないことを嘆くときがあります。信仰が足りないからだろうかと思い、どのようにしたら信仰が深くなるのだろうかと思いめぐらしたりします。ですがヤコブは、願い求めても得られないのは、間違った動機で願い求めるからだ、と言います。その間違った動機とは、自分の楽しみのための願い、すなわち利己的な動機で願ったことは叶えられないのだと言うのです。私たちの叶えられなかった願いはこのようなものではなかったでしょうか。ですから、願っても神様が答えて下さらないのではなく、「あなたの心が、聖くなるまで、あなたの願いは叶えない。」と神様が答えて下さっていることなのです。願いがかなえてもらえなかったとき、どうしたらもっと強い信仰をもって叶えてもらえるようにするかではなく、願いがかなえられないのは、自分の思いが利己的な汚れがあるからだと思い改めなければならないのです。ですから、願い求めることは正しいのです。その事によって叶えられても叶えられなくてもそこに神様の答えを聞くことが出来るのです。それには謙遜な姿勢が必要となります。
ヤコブは、欲に駆られて争っている人たちに対してこう言いました。4節です。
ヤコ 4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。
欲望に駆られて、争うものは神様に背くものです。それはこの世の欲に捉われて、私利私欲に生きることが神様の敵になっていると言う事なのです。私たちの思いの中には、この世の事はこの世の事、信仰は神様の国の事と分けて考えていることはないでしょうか。この世の出来事で、いかに争っていても、それは神様に対してではなく、人間に対してだから、神様に罪を犯すようなことはしていないと思ってやってしまうのです。そして困ったときだけ、神様に祈ったりするのですが、ヤコブは、そうではないと言うのです。私たちが、この世の思い、この世の欲によって争っているとき、それは相手を敵にしているだけではなく、神様をも敵にしているのだと言うのです。これは私たちも心に止めておいた方が良いのではないかと思います。私たちが争っているとき、神様を敵にしてはいないかどうかを振り返って吟味する必要があるのではないかと思います。
そして、ヤコブは神様がどのような方であるのかを改めて、聖書の言葉を引用してこう言うのです。5節と6節です。
ヤコ 4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、
ヤコ 4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」
ヤコブが聖書から引用したという、「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」と言う聖書の言葉は、そのままでは聖書の中にはないそうです。旧約聖書の言葉をまとめて意訳したのではないかと言われています。ここで言われていることは、神様は妬む神様であり、私たちをそれほどまでに愛しておられると言う事です。ですが神様は高慢なものは敵とされるのです。神様が愛されるのは謙遜なもので、その者には恵みをくださると言う事なのです。神様に愛されるものとなるのに、謙遜であると言う事がどれだけ大切な事であるかが分かります。謙遜であると言うのは、私たちが、神様によってつくられたものであり、すべて神様から与えられていることを知ると言う事です。謙遜でないものはその事を忘れ、自分が一番偉いと思い高慢になるのです。ですから高慢であることは神様を否定していることなのです。神様を無視しているのです。神様なんかなくても何とかなると思っているのです。もし私たちが、神様に願い求め、神様の豊かな恵みを得たいと思うならば、何よりも謙遜なものとして祈ることが大切なのです。
転
ヤコブは、それならばどうしたらよいのかを語りはじめます。7節と8節です。
ヤコ 4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
ヤコ 4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。
私達の為すべきことは、神様に服従することです。そしてそれだけではなく、どんなことがあっても神様に近づいていくことです。神様を遠くに眺めるのではなく、自分から進んで近づいていくことです。そうすれば、神様は私たちに近づいてくれるとヤコブは言います。私たちの周辺に、いろいろな悪い事や仲たがいや争いが起こるのは、私たちが神様から離れてしまっているからです。神様がなすべき裁きを、自分たちでやろうとして、他人を裁き、自分自身を良しとして喜んでいるのです。あなたたちは神様の御前に謙遜なものとなって神様に近づきなさい、そうすれば神様は近づいてくれます、とヤコブは言います。
もう一方では、悪魔に反抗しなさいと教えます。そうすれば悪魔はあなた方から逃げていきます、と言います。悪魔や誘惑に対しては、毅然とした態度で、はねつけるのがいいのです。そうすれば悪魔は自然と逃げていくだろうとヤコブは言うのです。悪魔や誘惑に対しては、毅然とした態度で、それをはねつけること、これが大切なのです。
ヤコブは、罪人たちや心の定まらない人たちに対して呼びかけます。罪人とは、神様に背を向けている人、心の定まらない人と言うのは、この世に従うか神様に従うかがいまだに定まっていず、その時の都合によって、フラフラとしている人たちです。教会に来ているクリスチャンの多くがまだその段階かもしれません。心の定まったクリスチャンとはそれほど多くはないと思います。
この様な罪人たちに対しては、まず手を清めなさいと言います。心の定まらない人たちに対しては、心を清めなさいと言いました。どちらも清めることが必要なのですが、罪人たちに対しては、手と言う身体的なもの、心の定まらない人たちに対しては、心という精神的なものを清めなさいと言っているのです。汚れたままであってはいけない、まず浄めなさいと言う事です。そうすれば神様に近づくことができ、神様も近づいてくれるであろうと言う事です。ヤコブはそのように少しずつでもいいから、神様に近づいていく努力を行いなさいと言っているのです。神様の御心に適うものとなりなさいと言っているのです。そうすれば、神様に従うものとなって、この世の欲望から離れ、争いや戦いからも解放されるであろうと言っているのです。
さらにヤコブはこう言いました。9節と10節です。
ヤコ 4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
ヤコ 4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
これらの言葉は、神に近づきなさい、という言葉との関連の中で言われているのだと思います。ただ単にこれらの言葉だけを読むならば、何と変な事を言っているのだろう、どうして悲しみ、嘆き、泣かなければならないのだろうと思います。ですが、神に近づきなさいと言う言葉の関連の中で読むと、この世の欲望に捉われて、神様に近づくことが出来ず、悪魔の言いなりになっている自分に悲しみ、嘆き、泣きなさいと言っているのだと思います。そして、今までこの世の笑いや喜びを求めていたことを悔い改めて、それを悲しみに変え憂いに変えて神様のもとに近づいていきなさいと言う事だと思うのです。その様に悔い改めて、主の前にへりくだるならば、主は反って、それを喜び、あなた方を高めてくださいますと、ヤコブは励ましているのです。
結
今の時代にあっても、教会の中でさえ分裂や争いが絶えないものです。それは自分たちだけが正しいと思っているためであり、そこに神様を第一にしていない思いがあるのだと思います。一番困った考え方は、神様を第一にしているから、自分たちは正しい、他の人たちは間違っていると排除しようとする考え方です。神様はわけ隔てしない方です。自分たちだけが正しいと言う考えを受け入れない方です。自分たちだけが正しいと考える人たちは、結局、兄弟を裁くものとなり、自分を神様のように裁くものとしてしまう罪を犯すのです。
ヤコブの教えは、神様に服従しなさい、神様に近づきなさい、そして願い求めなさい。その願いがかなえられなかったら、間違った動機で願い求めているのではないのか、心が清くないのではないかと反省しなさい、と言う事なのです。
私たちの日々の生活の中で、このヤコブの教えを日々実践していくことが求められています。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちが心を清めてあなたに願い求め、私たちに本当に必要なものが与えられますように。もしそのことがかなわなかった場合には、神様が私たちに、その動機を吟味しなさいと教えて下さっていることに気が付き改めることが出来ますように。私達はいつも自分たちの方が良いものとして、人を分け隔てしてしまいますが、あなたはそのような事を望まれる方ではないことをいつも思い起こすことが出来ますように。あなたがなさったように、私たちも互いに愛し合い、大切にしあうものでありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆神に服従しなさい
ヤコ 4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
ヤコ 4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
ヤコ 4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコ 4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。
ヤコ 4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、
ヤコ 4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」
ヤコ 4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
ヤコ 4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。
ヤコ 4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
ヤコ 4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。