家庭礼拝 2016年2月17日ヤコブ3章1‐18舌を制御する

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起 

前回の2章で、「行いの無い信仰は死んだもの」であると言い切ったヤコブは、今度は教師になってはいけないと言います。この教師とは、ユダヤ教で言うラビに相当するもので、人々から絶大な尊敬を受けていた人たちでした。ですから、その様なラビが来ると人々はそのような人を色々ともてなし、多くの尊敬ともてなしとを与えるのでした。ですから、中にはそのラビにふさわしくない人でも、そのような恩恵にこうむりたいと思い、自分にはできないようなことでも平気で語り、自分には良く分からないようなことでも知っているように語り、何とか多くの人々から、もてはやされたいと願っている人々もいたのです。そして人の見ているところでは、さも信仰深く、時には尊大にふるまっていたのです。その様な人々は偽教師と呼ばれ、イエス様からも弟子達からも非難されていた人々でした。それでは教会にはそのような人々はいなかったのかと言えば、クリスチャンの教会でもやはり同じように、教師と呼ばれて尊敬を集めている人々がたくさんいたのです。このヤコブもその教師の一人です。それは1節で、私たち教師は、と語っていることからわかります。

ヤコブは、なぜ教師になってはいけないと言ったのでしょうか。イエス様の御言葉を伝える大切な役割を担っている教師にどうしてなってはいけないと言ったのでしょうか。この当時の教師は、今の牧師や神父さんなどの教職とは比べ物にならないほどの権威を持っていたのです。その教師が、これはこうであると言えば、皆それを信じ、この事はこうしなさいと言えば皆それに従ったのです。それほど力ある権威ある立場だったのです。もし私たちの言葉に、誰もが従って行くとしたら、私たちはどんな誘惑を受けるでしょうか。ヤコブの警告はそこにあるのです。人々が、私たちの語ることを信じ、命じることを行うとしたら、その語ることを自制することが出来るでしょうか。何でも言うことを聞くじゃないかと思った時、それでも言ってはいけないことを自制して、神様が語るように言ったことだけを語ることが出来るでしょうか。それは肉の思いの方が勝ってしまうことが多いのです。この教師になるためには、そのような肉の思いの誘惑にそそのかされないだけの強い信仰が必要なのです。そうでないとその教師はいつの間にか、自分で自分をコントロールできないところに行ってしまって、自らの破滅を招いてしまうからです。似たようなことはユダヤの王様たちの記録、列王記にも多く記されています。みんな自分の言う事を聞くようになると、神様からも民衆からも離れて、自分の欲望のままに進みだしてしまって破滅するのです。

この2章は、この教師になってはいけないと言うのがメインテーマです。そしてそこには舌を制御することの難しさがいろいろな例を挙げて語られています。ですが、ここでのテーマは、舌を制御すると言う事ではなく、舌を制御できないものは教師になってはいけないと言うことを言おうとしているのです。後半には「上からの知恵」言うことも書かれています。これもまた、教師であるものは上からの知恵によって語り行わなければならないと言う事を言おうとしているのです。それが出来ないものは教師になってはいけないと言うことを言おうとしています。

それでは、これらの事を念頭において、3章の聖書の箇所を読んでみましょう。まずは1節の今日のメインテーマを読んでみましょう。

ヤコ 3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

ここでヤコブは、あなた方の内多くの人が教師になってはなりません、と言いました。きっと教会の信者たちは、教師の権威ある姿にあこがれて、自分たちもあのような教師になり信仰を伝えていきたいと言う希望を持っていたのではないかと思います。ですが、ヤコブは教師になることの危険を十分に知っていたし、その事を知らずに教師になって、破滅を招いている人々や、道をそれてしまった教師たちを知っていたのではないかと思います。ヤコブは、続けて、「私たち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなた方は知っています。」と言っていますが、きっと、そのような厳しい裁きを受けた教師たちの事が教会員の中ではよく知られていたのだと思うのです。そうでなくてもその教師たちはその語ることと行うことが一致しているかどうか、誠実かどうか、真実かどうかなどの批判の目にもさらされていたことだと思うのです。何よりも厳しいのは神様の目です。心の中まで見られる神様に対して、本当に誠実に歩まなければ教師としては裁かれて失格となるのです。そしてその中には、その裁きによって、立ち行けなくなってしまった教師もいたと思うのです。ヤコブはそのような教師たちを思い起こして、軽い気持ちで教師になろうなどと思ってはいけないと警告しているのです。さらに、ヤコブは、教師になってはいけない理由をこう言います。2節です。

ヤコ 3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

教師になっていけない理由は、私たちは皆たびたび過ちを犯すからだと言います。それはまず最初に言葉で過ちを犯してしまうからです。教師の務めは語ることです。その語ることによって、たびたび過ちを犯してしまうため、厳しい裁きに会ってしまうのだと言います。その様な言葉の過ちを犯さない人はいないのです。もしそれが出来るのなら、自分の全身を制御できる完全な人だとさえヤコブは言っているのです。言葉を制御できる人はすべてを制御できるのです。

ヤコブはここでそのコントロールすることである制御を、いくつかの譬えで語っています。3節から6節です。

ヤコ 3:3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。

ヤコ 3:4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。

ヤコ 3:5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

ヤコ 3:6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。

ヤコブは、大きな全体の動きを制御するには、小さなもので十分だと言っています。例えば馬を御するにはくつわをはめればいいし、舟を制御するには、極小さい舵があればいい。そして、小さなものが大きな出来事を起こすものとして、舌があると言うのです。その舌は大言壮語して大きな問題を起こすし、同じように、小さな火が大きな森を燃やしてしまうこともあるのだと言うのです。だから、ヤコブは、舌は火と同じだと言います。ここでヤコブは、舌は「不義の世界」だと言います。これは舌が肉の思いを現していると言ってもいいのです。それによって、全身を汚し、人生を焼き尽くし、自らが地獄の火によって燃やされると言います。

ヤコブは舌が、いかに制御しにくいものであるかを言っているのです。教師になるものはその舌を制御できなくてはいけないのです。そしてそのような小さな機関であるにもかかわらず、人生全体を誤らせるような大きな働きをしてしまうので注意しなさいと言っているのです。そしてその危険をこのように言いました。7節から10節です。

ヤコ 3:7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。

ヤコ 3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。

ヤコ 3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。

ヤコ 3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。

ヤコ 3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

ヤコ 3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

 人間はあらゆる種類の獣や鳥や生き物たちを制御しています。ですがその様な力を持っていても舌を制御できる人は一人もいないと言いました。それほど舌を制御するのは難しいのです。その様な舌は「疲れを知らない悪で、死をもたらす毒だ」とさえ言っています。なぜならば、舌で、父である主を賛美し、一方で神にかたどって作られた人間を呪うようなことをしているからだと言うのです。同じ口から賛美と呪いが出てくるようなことがあってはいけないとヤコブは言います。自然界の中で、泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が同時に湧き出ることはないし、イチジクの木がオリーブの実を結ぶこともないし、ぶとうの木がイチジクの実を結ぶこともないのです。

だから、聖い事を語るものは、聖い事だけを語るものでなければ本物にはなれず、制御できずに清くないことを語れば、罪を犯し裁かれることになるのだ。だから教師になるのはやめなさいと勧めているのです。もしそれでも教師になりたいならば、神様から厳しい裁きを受けることを覚悟して、教師になりなさいと暗黙の内に語っているのです。

そして、13節からは舌の話から突然知恵の話に変わります。でもその語ろうとしていることはやはり、教師になってはいけないと言う事なのです。13節から16節です。

ヤコ 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

ヤコ 3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。

ヤコ 3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。

ヤコ 3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。

 ヤコブは13節で、あなた方の中で、知恵があり分別があるのはだれか、と問いかけます。その答えの最も代表的な人は、教師なのです。教師は知恵があり分別があるはずなのです。ところがそうでもない教師がいることをヤコブは嘆いているのです。ですからその後で、「その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」と語りました。その人とは教師たちです。教師たちがその知恵にふさわしい事を行いなさい、言葉と行いを一致させ立派な生き方を示しなさいと言っているのです。このようにヤコブの非難は、語るだけで、行いの無い教師たちを非難しているのです。その語るだけの中には、ヤコブが危惧していた、信仰は信じるだけでよく、行いにはこだわらなくてもいいのだと言う教えが蔓延していることを表しているのです。

口だけの生き方や信仰とは、イエス様の信仰を語りながら、内心ねたみ深く利己的であり、自慢したり、真理に逆らって嘘をついたりすることです。ヤコブは、そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のものでありこの世のものであり、悪魔から出たものであると言いました。ねたみや利己心がありながらいくら立派な事を言ったとしても、そこには混乱やあらゆる悪い行いが生じてくると警告しているのです。ですからそのような教師になるくらいなら、ならない方がいいと言う事なのです。

それでは上から出た知恵、本当の知恵とはどんなものなのかをヤコブはこのように語りました。17節と18節です。

ヤコ 3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。

ヤコ 3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

 ヤコブは上から出た知恵とは、何よりもまず、純真であることを語りました。純真であるとは、その内に妬みや利己心がないと言う事です。すなわち自分の事を思うことなくただ神様の事のみを思う純真さなのです。ただ、それだけですと厳しくストイックになる人もいるので、「さらに、温和で、やさしく、従順なものです。」と、付け加えることを忘れませんでした。すなわち、上から出た知恵とは、純粋で愛に満ちたものであると言う事なのです。その後に続く言葉も同じことの言い回しを替えて訴えた言葉と言えます。それは、「憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」と言う言葉です。教師となるものは上から出た知恵によって語るものでなければならないと言う事です。それは、純真であり愛に満ちた言葉によって語り行うものであると言う事なのです。

この17節と18節はどこかで聞いたことのある言葉のように思わなかったでしたでしょうか。私は、コリント13章の愛の賛歌の4節から7節の言葉を思い起こしました。それは、

1コリ 13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

1コリ 13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

1コリ 13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

1コリ 13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

ここにはヤコブと同じ思いが語られています。ヤコブの知恵と言う言葉は、パウロの愛と言う言葉に入れ替えることが出来ます。ヤコブとパウロは決して違ったことを言おうとしているのではないのです。純真で愛に満ちた言葉と行いによって行いなさいと言っているのです。

 ヤコブは、当時の教会の中にはびこっている、浮ついた言葉だけの世界に危機感を持っていたのだと思います。その様な言葉だけの教師になってはいけない。そんな教師をまねてはいけないと言っているのです。そして、もし教師になるならば、純真で愛に満ちた言葉と行いとで示しなさいと言う事を言っているのです。信仰によって救われていると思って安心していると、人はだんだん自分を制御不能のところに追いやってしまう危険があります。ヤコブはそれに対して、目を覚ましてしっかりと御言葉を行いなさいと訴えているのかもしれません。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちは、緩んだ信仰によって、いい加減な思いで語り、行っていました。それでも神様は赦してくれるのだ、救ってくれるのだと思い込んでいました。ですが、ヤコブはここで、信仰に対して、もっと純粋になりなさいと教えてくれました。私たちが思っているものが、この世の知恵ではなく、上からの知恵に従うようにと教えてくれました。神様どうか、私たちが、この世の知恵に流されることなく、あなたの上からの知恵によって導かれ、あなたの信仰を行っていくことが出来ますように導いてください。教え語ることに、畏れをもって望んでいくことが出来ますように、導いてください。

この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◆舌を制御する

ヤコ 3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

ヤコ 3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

ヤコ 3:3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。

ヤコ 3:4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。

ヤコ 3:5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

ヤコ 3:6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。

ヤコ 3:7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。

ヤコ 3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。

ヤコ 3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。

ヤコ 3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。

ヤコ 3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

ヤコ 3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

◆上からの知恵

ヤコ 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

ヤコ 3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。

ヤコ 3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。

ヤコ 3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。

ヤコ 3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。

ヤコ 3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

1コリ 13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

1コリ 13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

1コリ 13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

1コリ 13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

1コリ 13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、