家庭礼拝 2016年2月10日ヤコブ2章14‐26行いを欠く信仰は死んだもの

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起 

ヤコブは、繰り返し行いの大切さを強調します。信仰よりも行いの方を強調しているようにさえ思います。ですから、宗教改革者のルターは、このヤコブの手紙を毛嫌いしたのです。ルターは、パウロと共に信仰義認を強調した人です。行うことによって人は救われるのではない、その信仰によって救われるのであると主張した人なのです。ですが、パウロは果たして信仰義認だけを言ったのでしょうか。そうではないのです。パウロもまたその行いの重要性を主張しているのです。パウロは、ローマ2・6では、「神は各々の行いに従ってお報いになります。」と言ってます。また、ローマ14・12では私たちは皆、神の裁きの座の前に立って、「私たちは一人一人、自分の事について神に申し述べることになるのです。」と言いました。コリント第一の手紙の3章8節では「それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。」と言っています。コリント第二の5章10節では「私たちは皆、キリストのさばきの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」といっています。すなわちこれらは、行いは信仰さえあればどうでもいいと言う事ではなくて、裁きの時には、それぞれその行ったことによって裁かれる、と言う事を現しているわけです。

それでは、信仰が大切なのか行いが大切なのかと言うのはどのように決着がつけられるのでしょうか。そもそもの間違いは信仰と行いを切り離していることが間違いなのです。信仰の実は行いとなって表れるのです。ですから善い行いの無い人は良い信仰がないのです。良い信仰の無い人は良い業が出来ないのです。信仰と行いとはひとつのものの裏と表のような関係です。正しい信仰を求めれば結果としてよい業が行われるのです。正しい信仰を求めずに、見かけの信仰を求めれば、その結果としての良い業がついてこないのです。ですからヤコブは、善い業が自然に現れるような信仰を求めなさいと言っているのです。

イエス様も、ルターも、律法主義者の見かけの善い行いすなわち律法を守る事だけを求める信仰を批判しました。ユダヤ人たちは、律法さえ守れば、それが神様に義とされることであって、それ以外はしてもしなくてもいいと考えていました。信仰すらも、律法さえ守っていればどうでもいいのだと言う考えなのです。それは本末転倒だとイエス様もパウロもルターも言っているのです。それなのに、どうして、ヤコブは誤解されるかもしれないのに、ここで行うことを強調しているのでしょうか。それはその時の時代背景と、語っている相手を考えなければなりません。

イエス様は、ローマの支配下の時代にあり、信仰的には律法学者たちによって、抑圧されていた人々に対して語りました。律法を守りたくても守る余裕すらない貧しい人々に対して語りました。彼らは律法を守れないために罪人とされた抑圧された人々でした。その人々に対して、行うことによってではなく、信じることによって義とされることを語ったのです。次にパウロは、原始キリスト教と呼ばれる時代の異邦人たちに対して語ったのです。その異邦人たちに対しては、律法を守ることでも行うことによってでもなく、信じる信仰によって救われることを語ったのです。ルターの時代はカトリック全盛の時代で、むしろカトリック教会が、昔の律法学者たちのように、貧しい人たちを抑圧して、金銭をむさぼり取ろうとしていました。その様な教会に対して、ルターは、カトリック教会の言いなりになるような行いによってではなくただ信仰のみ、聖書のみ、と言ってその原理を示したのです。ではヤコブはどのような時代のどのような人々に語ったのでしょうか。ヤコブがこの手紙を書いたのは、異邦人社会にキリスト教会が浸透し、その教会員たちが、自分の解釈で、その信仰を言い表そうとしていた時代なのです。初代教会の人たちの教えを忘れかけて次の時代が始まろうとしている時代です。そしてその語っている相手は、イエス様の事を知らない人々に対してではなく、その教会の人々、すなわち洗礼を受け、キリスト者とされた人々に対して語っているのです。ある程度信仰を持っている人々に対して語っているのです。その人々はキリスト教の教義に対して、ある一定の理解を持っているのです。その一つが、信仰とは行う事ではなく信じることであり、恵みであると言う事です。それは間違いではないのですが、信仰のみが強調されて、信仰と行いとが一体のものであることを忘れた信仰になっていることに対して、くぎを刺しているのです。ですから、行いが強調されているのですが、これはパウロが信仰も行いも両方大切にしたように、ヤコブも信仰も行いも両方大切にしているのです。それらは一体だと考えているのです。ですがその時代で強調しなければならなかったのは、パウロの時代では信仰であり、ヤコブの時代では行いだったと言う事ではないでしょうか。もともとの考え方、その信仰には大きな違いはないのです。その時代で主張すべきウェイトが違っていただけなのです。

ヤコブは、14節でます自分の主張を語ります。

ヤコ 2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

ヤコブは信仰を持っていると言っても行いが伴わないような信仰は意味がないと言っているのです。役に立たず、救うこともできないと言っているのです。ヤコブにとっての信仰とは、行いが自然に伴うような信仰なのです。そうでなければそれは信仰とは言えないと思っているのです。

ヤコブはその理由をこのように述べています15節から17節です。

ヤコ 2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

ヤコ 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

ヤコ 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

これは今でも、私たちの身近に起こりそうなことです。誰か困っている信仰者がいた時に、具体的な援助を差し出すことをせず、「大丈夫です、神様が守ってくださいます。何とかなるでしょう。安心していきなさい。そして与えられたもので暖まりなさい、与えられたものを満腹するまで食べなさい。」と言って、それで十分に相手に親切をした気になっているような信仰者です。自分は困っている相手に、金銭ではなく信仰を与えたのだと言うような自己満足に陥ってしまうような行いです。ヤコブは、体に必要なものを何一つ与えないなら、それは何の役に立つでしょう、と言っています。具体的な行いが伴わないならば、実際的な援助をしないならば、そのような信仰は死んだものであり、何の役にも立たないではないかと言っているのです。本当の信仰があるならば、困っている人がいま求めているものを与えるような愛の行いをするではないのかと言っているのです。

ヤコブはこのように言うとそれに反論してくる人を想定してこう言いました。18節から20節です。

ヤコ 2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

ヤコ 2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。

ヤコ 2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。

これは人にはそれぞれ違った賜物が与えられているのではないか。「あなたには信仰があり、私には行いがある。それぞれが与えられた賜物で行っていくことが大切ではないか。」と言うような反論なのです。ですが、ヤコブはそれには賛成していません。そもそも信仰と行いとを切り離して考えることには反対なのです。ですから、ヤコブは、「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって自分の信仰を見せましょう。」と言ったのです。ヤコブは信仰には必ず行いが伴うと信じているのです。行いの伴わない信仰は信仰ではないと思っているのです。その様に「行いを伴わない信仰を持っているあなたの信仰はどんな信仰なのですか」と言われると、その人は、「私は神が唯一であると信じています」と答え、自分の信仰を言い表すのです。ですが、ヤコブに言わせると、それは結構だが、そんなことは悪霊どもでさえもそう信じているのですよ、と言っているのです。それだけでは本当の信仰にはならないことを言ったのです。そしてヤコブは嘆いて、「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」と行いが伴わない信仰なら、悪霊でさえも持つことが出来るような信仰であることを語ったのです。

そして、ヤコブは、旧約聖書を引き合いに出して、その語ることの根拠を述べました。教義に対しては、聖書の教義を例に出して語るのが一番説得力があるのです。21節から23節です

ヤコ 2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。

ヤコ 2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。

ヤコ 2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

 ヤコブが、まず引き合いに出したのは、信仰の父と呼ばれ権威あるアブラハムです。アブラハムの信仰は神様に義と認められれたのです。同じことを扱いながらヤコブとルターは全く違った見解を導きます。ヤコブですが、アブラハムが義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上にささげると言う行いによってであると言っています。アブラハムの信仰が行いと共に働きそして完成されたのだと言うのです。ヤコブにとって行いあるところに信仰ありなのです。信仰があるから行いがあるのです。ですから行いによって義と認められたと言ったとしても、それは信仰によって義とされたと言う事とほとんど同じことです。一方ルターは、アブラハムは、信仰によって旅に出て、信仰によってイサクを捧げようとした。行うかどうかではなくそれ以前の信仰こそが大切なのだと言うのです。かといって、行いが大切ではないと言うのではないのでしょうが、信仰こそが何よりも大切であり原点であると言う事を強調しています。

この信仰と行いとがもともと一つのものの裏と表の関係であるとすれば、どちらか一方を強調しすぎるのは、バランスを欠いてよくないような気がします。その時代時代に強調する面が変わってきたとしても、私たちは、信仰と行いは一体のものであるとの認識の上で、物事を行っていきたいと思うものです。今の時代は、クリスチャンは個人的な信仰の殻に閉じこもっているような気がするので、その殻を破って、行いを実践することが求められているのかもしれません。

アブラハムはさらにラハブを例に出してきました。このラハブは城壁の上に住むエリコの娼婦でありましたが、ヨシュアがエリコを攻撃するために派遣した二人の斥候をかくまって、イスラエルがエリコをせめ落とすのを手伝いました。このラハブはボアズの母となり、ダビデ王と主イエスの先祖となったのです。その様な事情を知っている教会員に対してこのように言ったのです。25、26節でこのように語っています。

ヤコ 2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。

ヤコ 2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

これはラハブが、実際に命の危険を承知で、イスラエルの斥候達をかくまったので、義とされ生かされたことを言っています。ヤコブにとっては、このような娼婦でさえもその行いによって、神様から義とされ、ダビデ、イエスの家系に繋がることが出来たのだと言おうとしたのだと思います。ヤコブはここで、行いの伴わない信仰は、魂の無い肉体のようなものであり死んだものだとさえ言っています。この言葉はヤコブの行いに対する理解を良く表しています。

 このように、ヤコブにとって、行いの伴わない信仰は信仰ではなかったのです。かといって、行えば救われると言う事ではないのです。行いは救われるための手段ではないのです。ファリサイ派の人々は、行いを救われるための手段として、それを厳格に守ろうとしたために、かえって信仰から離れてしまいました。ヤコブは決してそう考えたわけではありません。信仰と行いは切っても切れない関係にあり、本当の信仰を持てば、行いはおのずとついてくる、と言う事を主張したのです。もし行いが付いてこないならば、その信仰は本物ではないと言っているのです。さて、私たちは自分を振り返って見て、自然に良き行いへと導かれる信仰を持っているでしょうか。それが問題なのです。もし行いを軽んじているとすれば、私たちは自分を欺いていることになり、私たちの信仰も、本物にはなっていないのかもしれません。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 

神様、信仰のみと言う言葉は確かに信仰者の魂を揺さぶる、大切な言葉です。ですが、私たちはそれを隠れ蓑にして、自分が良き行いをしないことの言い訳に使っているのかもしれません。もし私たちに本当の信仰があるならば、自ずと良き行いが伴って来るからです。神様、どうか私たちが、自分をごまかさずにその信仰を語り、その信仰に応じた行いをすることが出来ますように導いてください。困っている人々に、信仰によって手を差し伸べ、助け、励ますものとなることが出来ますように。そして多くの人々に平安と喜びが与えられ、神様の栄光を示すものとなりますように。

この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。


 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◆行いを欠く信仰は死んだもの

ヤコ 2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

ヤコ 2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

ヤコ 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

ヤコ 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

ヤコ 2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

ヤコ 2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。

ヤコ 2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。

ヤコ 2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。

ヤコ 2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。

ヤコ 2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

ヤコ 2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

ヤコ 2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。

ヤコ 2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。