家庭礼拝 2016年1月27日ヤコブ1章12‐27試練と誘惑
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起
このヤコブの手紙は、いきなり、試練や忍耐の話で始まりました。それはこの時代の人々が、いかに迫害の危険にさらされていたかを教えているのです。その様な迫害が激しくなる中で、クリスチャンはどのように生きて行ったらよいかと言う切羽詰まった状況の中での教えなのです。ですから、貧しい人の話や、富んでいても低くされる人々の事も語りました。迫害の中で、皆、貧しくつらい生活を強いられるようになってきたのです。でもその中で信仰をもって、助け合って生きていくことの大切さを教えているのです。
そして今日の聖書の箇所は、試練や誘惑の話から始まります。このような迫害や困難の中で起こる試練や誘惑の中で、どのように生きて行ったらよいのかを語っているのです。それは決して平和な時代の余裕のある話ではないのです。今そこで苦しんでいる人々が、どのように生きたらよいかを切実に語っているのです。
承
今日の聖書の箇所の最初は、12節です。そこにはこう書かれています。
ヤコ 1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
この聖句は、イエス様の山上の説教を彷彿とさせます。マタイ5章11節12節の山上の説教ではこう書かれています。
「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
このように、試練を堪え忍ぶ人には神様からの約束の命の冠がいただけるのだから、その人たちは幸いですと励ましているのです。人々はこのような言葉に励まされて、死をも超えて、耐え忍んでいったのです。
ですが中には不満を言う人々もいました。どうして自分たちはこんなにも苦しい目にあうのだろうかと嘆く人々が出てくるのです。これはどうしようもないことです。災難にあった時にその様に思わない人はいないのではないかとさえ思います。ですがそこから神様に向き合うかどうかが大切です。それが信仰者なのです。
この様な試練が続いていくと、人々の心には神様に対する疑いを生じる人も出てきます。自分たちに起こる悪いことが、神様から来ているのではないかと思うのです。心に誘惑を受けるのです。その時の事をヤコブはこう言いました。13節です。
ヤコ 1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
試練の中で、自分はこうしたいのにああしたいのにと言う希望がいつの間にか欲望となって、人々は誘惑にあってしまいます。その時ある人たちは、「この誘惑は神様から来たものだ。神様に誘惑されているのだ。」と理解しようとする人々が出てくるのです。もっと簡単に言えば、「私がこのように思うのは、神様のせいだ。」と考えるのです。誘惑とは、罪への誘惑です。その罪への誘惑を感じるのは、神様がそのように自分を追いやっているからだと、その責任を神様のせいにしているのです。このような事は私達にも起こらないでしょうか。こんな風になったのは、あの人のせいだと思うことはないでしょうか。ですが、ヤコブは、その様に神様のせいにしてはいけないと言います。それは、神様は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自分でも人を誘惑したりなさらないからだと言いました。つまり、神様は試練を与えることはあっても誘惑することはないのです。ここのところを私たちは、間違えて、試練を誘惑と取り違えてしまうことがあるのです。ヤコブはなぜ、人々は誘惑に陥ってしまうのかをこう言いました。14節15節です。
ヤコ 1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
ヤコ 1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます
ヤコブは、人々が誘惑に陥るのは外から来るもののせいではなく、自分自身の中にある欲望によって引かれ、そそのかされて、誘惑に陥るのだと言うのです。その心の中の欲望がなければ、決して誘惑など生じないでなないかと言うのです。その欲望が、罪を育て罪を生み出し。そしてその罪が熟すると、死へとつながると言うのです。ですから、罪の原因、死の原因は自分自身の心の中にある欲望なのだと言うのです。そして、ヤコブはこう結論するのです。16節から18節です。
ヤコ 1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
ヤコ 1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
ヤコ 1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
ヤコブは、誘惑が神様から来ているのではないかと言う疑問に対して、兄弟たち思い違いをしてはいけません、と言います。神様から来るものは、そのような、悪いものや、星占いの運勢の様に運気が変わるようなものではないのだと言うのです。神様から来るものは、光の源から来るものであり、それは完全な陰の無い良い贈り物だけだと言うのです。神様から来るものはただ善いものだけなのです。それを信じなさいと語り掛けます。神様は、御心のままに、真理の言葉によって、イエス様を信じる者たちを生んでくださったのだと言うのです。それは私たちを、造られたものの初穂、すなわち最初のクリスチャンとなさるためなのだと言いました。だから、そのように信じて、疑わず、誘惑にあっても耐え忍び、約束された命の冠を受け取りなさいと励ましましているのです。
転
そして、次には二つ目の教えに移りました。それは御言葉を聞くときの姿勢です。ここでは二つの事を言っています。一つ目は「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」と言う事です。二つ目は「御言葉を行う人になりなさい。」と言う事です。これらの事を教えていると言うのは、これとは反対の人々が教会には多くいたと言う事になります。それは、御言葉を聞いてもなかなか受け入れず、いろいろ知った風なことを言い出し、そして議論すればすぐに怒り出すと言う人々です。そして、御言葉を受け入れたように見える人でも、受け入れたと言うだけでそれを実行しようとはしない人々です。今でも教会にたくさんいるタイプの人たちです。ヤコブは、キリスト教会が迫害を受ける中で、このような事をしていては、教会が、死んだ教会になってしまうと言う危機感でこれ等の事を言ったのでしょう。
では、まず最初の教えを聞き取ってみましょう。19節から21節です。
ヤコ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
ヤコ 1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコ 1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
これは必ずしも御言葉を聞くときだけの姿勢ではないかもしれませんが、御言葉を聞くときの姿勢としては特に大切な教えです。それはまず、聞くのに早くしなさい、と言っています。これは人の話を聞くときは、しっかりと理解するつもりで聞きなさいと言う事です。聞くときに先入観を持って聞くと、人の話を理解するよりも先に反論ばかり考えて、素直に理解できなくなるからです。そして話すのに遅くしなさいと言うのは、よく理解もしていないのに、すぐに反論を言い出すようなことはしてはいけない、また解ったつもりになってはいけない、よく理解するまで待ちなさいと言う事です。そのうえで質問があるなら、尋ねなさいと言う事です。そして怒るのに遅いようにしなさいと言うのは、怒りが個人的な感情となって、神様が為そうとしていることを理解できなくなるからです。ヤコブは、人の怒りは神の義を実現しないからです、と言っていますが、人の怒りは個人的な立場を守ろうとする小さな利己的な思いに立つものだから、それは神様の御心とは相反するよと言っているのです。だから、御言葉を聞くときは、よくわきまえて、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさいと教えているのです。
そして、その様になるように、心の中のあらゆる汚れや溢れるほどの悪を素直に捨て去って、開かれた素直な心で、その心に植え付けられた御言葉を受け入れなさいと言っています。そして、その御言葉が、あなた方の魂を救うのですと言っているのです。
そして、二つ目の教えである御言葉を聞くときの姿勢は、「聞いて、御言葉を行う人になりなさい。」と言う事です。ヤコブは22節から25節でこう言っています。
ヤコ 1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
ヤコ 1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
ヤコ 1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
ヤコ 1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
ここの箇所が、ルターが一番嫌った箇所です。ルターは、信じることによって救われるのであって行いによって救われるのではないと言う、信仰義認の教えを伝えようとしたのです。ですが、ヤコブにここで、「御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わるものになってはいけません。」と教えていることに対して反発したのです。ですが、ヤコブはここで、行うことによって救われると言っているのではないのです。「御言葉を聞いて行うと、幸せになりますよ、」と言っただけなのです。なぜならば、御言葉を聞くだけで行わないと、せっかくその時は理解したと思ってもすぐに忘れてしまうからですよ、と言っているのです。そうではなくて、聞いてその言葉を守る人と言うのは、それを行うことによって忘れることなく守ることができ、そしてその事によって幸せになるのですよと言っているのです。行うのは、律法主義者のように、行うことが目的となっているのではなく、御言葉を守るために、忘れないために行うのです。行えばますます心にしっかりと根付くからです。これはその通りだと思うのです。聞いて頭だけで理解していたことが、実際に行ってみて体でも心でも理解できるものだと思うのです。
ここでヤコブは、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、と言っています。ユダヤ教では律法を守る人は救われると言われて、その律法を事細かく守ろうとしているのですが、それは人々の重荷となり、手かせ足かせとなって、自由を奪うものでした。ですからイエス様にもパウロにもルターにもその事を非難されたのです。ですが、ヤコブは、自由をもたらす完全な律法と言っています。これはイエス様の新しい戒め、愛し合いなさいと言う律法なのです。この新しい律法は、人々に自由をもたらし、完全な律法となるのです。その戒めを一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れるような人ではなく、行う人となるのだと言っているのです。そして行うことによって、幸せになるのだと言っているのです。ヤコブは決して律法を守れば幸せになると言っているのではないのです。自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、行う人となると言っているのです。行うと言うのは目的ではなくて、その結果なのです。
そして行うことの大切さの例を挙げてこう言いました。26節27節です。
ヤコ 1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
ヤコ 1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
ここに二つの例があげられていますが、一つ目は自分は信仰がある思い込んで自分を欺いている無意味な信仰者、二つ目はみなしごや、やもめが困っているときに世話をするような清く汚れの無い信仰者です。この二つとも、その信仰が行いによって証明されていることを言っています。一つ目の例は、自分は信仰があるから、救われていると思い、自分で行いもしないことを人に教えたり指導したりするような人です。このような人は、自分の心を欺いていると言っています。それは自分がやりもしないことを信仰ぶって人に語るような、自分の舌を制することの出来ない人だからです。このような人の信心は無意味だと言うのです。言う事と、行うことが一致してこそ意味のある信仰だと言うのです。二つ目の例は、みなしごややもめが困っているときに黙って世話をするような清く汚れの無い信仰者です。この人たちは、世の汚れに染まらないように自分を守っている人、すなわち、この世の損得で計算して行うのではなく、神様の御心に適うことを行おうとする信仰者なのです。愛の心をもって、進んで手を差し伸べる行いをする信仰こそ、清く汚れの無い信仰なのですと、ヤコブは言っているのです。
結
イエス・キリストを信じる信仰こそはどんな行いよりも大切な事であることには違いありません。だからと言って、それが行いとして現れてこないような信仰であったならば、それは中途半端な信仰であり、本当にはまだ信じていない信仰なのです。私たちの信仰が、本当に愛に根差した信仰ならば、自ずとその行いは正されて、神様の御心にかなう行いとなっていくはずです。ヤコブはそれを語ろうとしました。律法を行うことによって救われるのではありませんが、信仰が行いとなって表れてこないような信仰は、まだ本物の信仰とはなっていないのです。私達の信仰が本物となっているかどうか、行いによって、確認をしてみる必要があるのだと思うのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちは自分が信仰者だと思い込んでそれで満足しているのかもしれません。本当は、本物の信仰にまだ届いていないのに、自分はこのままで救われていると、自分を欺いているのかもしれません。私たちの信仰が本当にあなたの御心にかなうものならば、私たちの行いは、自ずと、あなたの御心にかなう行いとなるはずです。神様、どうか私たちが自己満足し、自己欺瞞に陥らないように導いてください。私たちの信仰が人々の助けとなるように働くようにどうか導いてください。あなたの御心にかないますように。私たちの信仰が本物となることが出来ますように。この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆試練と誘惑
ヤコ 1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコ 1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
ヤコ 1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
ヤコ 1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
ヤコ 1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
ヤコ 1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
ヤコ 1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
◆神の言葉を聞いて実践する
ヤコ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
ヤコ 1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコ 1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
ヤコ 1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
ヤコ 1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
ヤコ 1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
ヤコ 1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
ヤコ 1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
ヤコ 1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。