家庭礼拝 2016年1月13日ヤコブ1章1‐11信仰と知恵

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起 

新年に入って、いよいよ聖書の新しい箇所ヤコブの手紙を学びます。この手紙は色々といわくつきの手紙で、新約聖書の正典に選ばれるのにもだいぶ議論があり、正典となったのも、新約聖書がまとまって来た大分後の事です。アウグスチヌスがこの手紙を認めてからの事なのです。それに一番有名なのは、この手紙を、ルターが「藁の書簡」と呼んで、とても軽く扱ったことです。ですが、それでもこの書簡はしぶとく聖書の中に正典として残ってきました。

なぜこんなにもルターに、悪く言われたのかと言えば、ルターやパウロの唱える、信仰義認の話とは反対に、行いがなければ、その信仰は無意味だと言っているからです。確かにそのように行いを重視すれば、律法主義者と同じになり、あれをしなければならない、これをしなければならないと言う束縛にがんじがらめになって、本来の信仰を失ってしまうことになるからです。ですから、ルターにしろパウロにしろ、信仰こそは大切であり、信じることによって義とされるのであって、行いによるのではないと教えているのです。

ですが、ここに一つの誤解があるのです。ヤコブは律法主義者のように、行うことを最終目的としているのではないのです。行えば救われると言っているのではないのです。ルターは、ヤコブの手紙がパウロの信仰義認の教えに対して攻撃しているように感じたのですが、決してそうではないのです。ヤコブが攻撃したのはパウロ主義を奉じて、信仰さえあればいいのだ、行いはどうでもいいのだと思っている、間違った信仰義認の人々に対して、いやそうではない、行いも大切なのだと言っているのです。信仰があればおのずと行いも伴ってくるものなのだと教えているのです。この考え方は、今でも信仰義認を語る時にしばしば起こる問題です。このヤコブの手紙が書かれた時代には、教会に行いを軽視する傾向が強くなり、本来の信仰の形から外れてきている人々に対して、ヤコブは危機感をもってこの手紙を書いているのです。しかも、一個の教会に対してではなく世界中の教会にあてて、この手紙を出しているのです。

実はこの手紙は、手紙の形をとっていますが、手紙ではないのです。教会に対する、訓戒集のような形をとっているのです。ですから数節ずつ、一つの教え訓戒としてとらえた方がいいのです。教会がどうあるべきなのか、物事をどのように捉えたらよいのか、その様な教えが、ずっと続いていて、あたかも手紙のような形をとっていますが、それは1章1節だけの話です。ですから、この節はあとから付け加えられたのではないかと言う人々もいます。

この手紙が、ルターに厳しく扱われているもう一つの理由は、ここにはイエス様にかかわる事柄が、たった2回しか出てこないのです。1章1節と2章1節にしか出てこないのです。ここにイエス・キリストと言う言葉がなければ、この書物が、ユダヤ教の教えだとしても全く違和感がないのです。十字架も、復活も、福音の話も出てこないのです。ですからルターはこのような書物は聖書になくてもいいと言ってしまったのです。

だからと言って、この書物を私たちも軽く考えてはいけないのです。その様な先入観を持たずに読んだならば、この書簡には教会にとって、信仰者にとって大切なことが山ほど書かれているからです。むしろ、まだ信仰の浅い人が、どのように信仰生活を歩んでいったらよいかわからない時、このようなガイドラインを参考にしながら信仰生活を深めていくことは大切だと思うのです。ですがそれが律法主義にならないためには、これを守ることが目的ではなく、信仰の結果であると言う事をしっかりと心に納めていなければなりません。私たちの救いは行いによって救われるのではなく、信仰により、恵みによって救われるのです。ですが救われたものにはそれにふさわしい実を結び、豊かな行いとなって人々に施すことが出来るのです。その事をこのヤコブの手紙を読みながら学んでいけたらと思います。

 

まず最初に、一章一節に手紙としてのあいさつ文があります。手紙としての体裁をとっているのがここだけなので、後から追加されているのではないかとも言われているのです。

ヤコ 1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。

このヤコブが誰かと言う事は色々な説があって、ここでは取り上げません。一番わかりやすい人として、エルサレム教会のイエスの兄弟ヤコブがいます。この手紙は教会の指導的な人が、世界中の教会の人々にあてている手紙です。離散している、12部族の人たちに挨拶いたします、とありますが、これは本当に12部族の人たちにあてたと言うよりは、世界中のキリスト教会にあてた手紙であると言う事です。当時教会にはいろいろな問題があり、中央の教会すなわちエルサレムの教会は地方の教会を指導する役割を持っていました。ですからそのような意味で指導するための手紙がこのヤコブの手紙なのです。

なぜこのような手紙を書いたかと言えば、先ほど言いましたが、教会の中に、信仰さえあれば後はどうでもいいのだと言って、その行いを軽視する人々が増えてきたことでした。それに対して、ヤコブはそれではいけない、行いの実をつけなければその信仰は虚しいと説いたのです。

これはある意味で、ユダヤ教的なのです。キリスト教はもともとキリスト教として生まれたものではありません。イエス様の教えが、ユダヤ教キリスト派的な形で広まっていったのです。ですからキリスト教がヨーロッパ全体瞬く間に広がって行ったのも、既にヨーロッパ全体に広がっていた、ユダヤ教徒の会堂シナゴクを中心に広まっていったのです。新しく基督教会を作っていったのではなく、ユダヤ教としてユダヤ教の教会シナゴクの中で伝えられていったのです。それがだんだんとイエスを神とする信仰であると言う事で、完全にユダヤ教からは離れて行ってしまうのです。実はイスラム教でもイエス様の事は教えているのです。ただここでも神としてではなく、預言者の一人として教えているのです。ですから、キリスト教のキリスト教たるべきところは、イエスは神であると認識することにおいてなのです。

さて、それではヤコブの最初の訓戒をよんでみると、次の言葉となります。2節から4節です。

ヤコ 1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

ヤコ 1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。

ヤコ 1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

 それは、教会の人々に対して、「試練をこの上ない喜びとしなさい、」と言う事です。それは、その試練によって、信仰が試され、忍耐が生じ、完全な人となることが出来るからだと言うのです。この言葉は、パウロのローマの信徒への手紙5章3節から5節を思い出させます。それは、「そればかりか、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと言う事を。希望は私たちを欺くことはありません。」と言う言葉と同じことを言っているのです。この時代のクリスチャンに対する厳しい風当たりの中で、信仰をもって忍耐をして生きることの大切さを語っているのです。それを喜びとしなさい、そして完全なものとなりなさいと言っているのです。

次は5節から8節で、話の内容が、急に変わってしまいます。今度は、「神様に願い求めなさい」と言う話になります。このようにヤコブの話は全体で一つの流れを作っていると言うよりも、いろいろなテーマの言葉を集めて教え諭していると考えた方がいいのです。5節からです。

ヤコ 1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。

ヤコ 1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。

ヤコ 1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

ヤコ 1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

 知恵の欠けている人、すなわちどうしたらよいかわからず、悩んでいる人々にヤコブはこう言うのです。「どうしたらよいのかの知恵は、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」このように、非常に単純に、神様を信じて必要な知恵を願えば必ず与えられると教えているのです。ただその時は、いささかも疑わず、信仰をもって願いなさいと教えるのです。疑って祈るようではだめだと言う事です。このような人の事をヤコブは、「疑うものは、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と言っています。疑う人は心が定まらず、フラフラとしており、生き方全体に安定を欠いており、願いが叶えられると思ってはいけませんと教えているのです。ですから願い求めるものは、与えられたと信じて、迷わず祈ることなのです。

そして今日の三つめの教えは、富んでいることと貧しいことに対する教えです。その事に対してどのような態度で臨むべきかを教えています。9節から11節です。

ヤコ 1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。

ヤコ 1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。

ヤコ 1:11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

 まず、貧しい人々に対してこう言いました。「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。」普通ならば、貧しいことは嫌だ惨めだと思うのですが、それを誇りに思いなさい、と言うのです。何故かと言えば、その貧しさは自分を高めてくれるからだと言うのです。このように考えたことがあるでしょうか。信仰によってそれは可能となるのです。信仰がなければそれは惨めなだけなのです。スポーツの選手は、その練習を苦しいとは思っても、その事によって、上達することを思って、誇りを持って練習するのです。貧しさも、その様に自分を高めうるものであることを知って誇りに思いなさいと言っています。

そしてまた富んでいる人にも言いました。それは、「自分が低くされることを誇りに思いなさい。」と言う事なのです。ここでは、貧しくされることを誇りに思いなさいではなくて、低くされることを誇りに思いなさいと言っていることに気を付けましょう。富んでいる人は、貧しくなることが低くされることであることは当然ですが、富んでいるままに低くされることもあるのです。富んでいる人々が周りから尊敬を集めるのは当然の事と考えています。その様に尊大に構える人もいるのです。ですが、クリスチャンであると言う事から、周りから蔑まれることや迫害に会うこともあるのです。ヤコブは、このように富んだままでも、低くされることを思って、その様に低くされることを誇りに思いなさいと言っています。その様な富に捉われないで信仰に生きる人生を誇りに思いなさいと言っているのです。なぜならば、富んでいる者は草花の様に滅び去るからだと言います。富は一時のものであり、そのようなものに捉われることなく信仰をもって誇りを持って歩みなさいと教えています。

 今日はヤコブの手紙の最初の10節ほどの短い箇所ですが、ここにはすでに三つの勧めが書かれてありました。一つは試練をこの上ない喜びとしなさいと言う事です。二つ目は、必要な知恵は、疑わずに神様に願い求めなさいと言う事です。三つめは、貧しいことを誇りとし、富んでいるものが低くされることも誇りとしなさい、と言う事です。これらの事はすべて、信仰がなければ成立しないことです。イエス・キリストを信じるものはこのような喜び、知恵、誇りが与えられると言う事です。ですから、私たちはどのような状況の中にあっても嘆くことなく、惨めな思いになることなく、喜びをもって、知恵をもって、誇りをもって生きていけると言う事なのです。こんな素晴らしい人生が、信仰を持つものには約束されているのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。ヤコブの手紙を始めることが出来感謝いたします。どうかヤコブの手紙を通して、私たちに必要なメッセージが与えられますように。信仰者としてどのように歩んでいったらよいのかを教えられますように。そして、イエス・キリストの栄光を現すものとなることが出来ますように。いつも喜び、知恵、誇りを持って歩んでいくことが出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◇ヤコブの手紙

◆挨拶

ヤコ 1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。

◆信仰と知恵

ヤコ 1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

ヤコ 1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。

ヤコ 1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

ヤコ 1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。

ヤコ 1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。

ヤコ 1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

ヤコ 1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

◆貧しい者と富んでいる者

ヤコ 1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。

ヤコ 1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。

ヤコ 1:11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。