家庭礼拝 2015年11月25日マタイ26章31‐56ゲッセマネで祈る
賛美歌301 深い傷と流れる血に聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌303丘の上の主の十字架
起
前回の場面では、イエス様はエルサレムで弟子達と過越しの日に、最後の晩餐をしました。そしてその時に、聖餐式の時に語られる。あの有名な『「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」』と言う言葉を語られました。これはイエス様の最後の遺言です。これからイエス様がどうなるかの予言です。そしてユダは、イエス様を裏切るために祭司長たちの所に行くのです。
ユダがどうして裏切ってしまったのかと言う事にはいろいろな見解があります。本当に裏切ったのだろうかと言う見方もあります。裏切ったと言うのはイエス様のメシアとしての将来に、希望を持てなくなって、恨みをもって、イエス様を銀30枚で売ったと言う考え方です。ですがこの考えには、不自然な点があります。なぜならば、先走って話を進めると、ユダは、自分の行った行為を後悔して、裏切って得たお金を返そうとし、それでもイエス様を救えないと知った時、自ら自殺してしまうからです。新約聖書にしろ旧約聖書にしろ、自殺と言うのはとても忌み嫌われていた死に方でした。ですから、これらの聖書の中で、たった4か所にしか自殺の場面はないのです。新約聖書ではこの1箇所だけなのです。イエス様を裏切るような人が、そのような死に方を選ぶと言うのはよほどの事なのです。すなわち、ユダは何かに失敗してしまって取り返しの出来ないことをしてしまい、それで失望して死んでしまったのです。何に失敗したのでしょうか。
ユダは、きっと頭のいい人でいろいろな事を考えられる人だったのです。そうでなければ、イエス様のグループの財布を預かる会計係としての仕事を任されるはずはないのです。そして、最後の晩餐の時にもイエス様の近くにいたのです。ですから弟子の中でも重要な人物だったのです。多分ユダは、この過越しの時にイエス様に立ち上がってもらい体制に対して、暴動を起こすつもりでいたのです。エルサレム神殿での、祭司長たち、律法学者やファリサイ人たち、サドカイ人たちとの論争ですっかり相手を打ち負かして、民衆を味方につけたイエス様が、今立ち上がれば、きっとこのエルサレムをひっくり返すことが出来る、この体制を変えることが出来ると考えたのです。祭司長たちが恐れたのはこの事であり、ユダもまた同じことを考えていて、チャンスが来たと思ったのだと思います。そして、もし、祭司長たちがイエス様を捕えに来たならば、イエス様はきっと立ち上がって、彼らを斥け、本格的な闘争へと発展するだろうと考えていたのです。これがユダの計画でした。あまりにも人間的であり、この世的な計画であり、イエス様の救いの計画とは全く違ったものだったのです。イエス様はユダが思いもよらなかった道を歩んでいたのです。
承
今日の聖書の場面は、過ぎ越しの晩餐を終えて、弟子達と共にオリーブ山に戻った時の話です。31節と32節です。
マタ 26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
マタ 26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
イエス様が最後の晩餐の時に、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言った時に、弟子達はみな動揺し、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、と記されています。今度はオリーブ山で、「今夜、あなた方はみな私につまずく。」と言いました。今度は一人ではなく、皆躓くと言ったのです。そして、その事は既に旧約聖書に預言されていることであると言ったのです。弟子達はみなバラバラになってしまうと言うのです。この言葉を聞いて、弟子達はとても動揺したのです。ですがイエス様はさらに大切な事を言いました。それはイエス様が復活することです。そしてこう言ったのです。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」イエス様は、自分が死んだ後どうなるかを言い、そしてまた集まる目的地をも教えておいたのです。ですが、弟子達にはその言葉は耳に入らず、「あなた方はみな私につまずく。」と言う言葉しか耳に入らなかったのです。イエス様にその様に信頼されていないことにひどく心を痛めていたからです。するとペトロがこう言いました。33節から35節です。
マタ 26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
マタ 26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
マタ 26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
ペトロはイエス様の言葉に心を痛め、自分は決してイエス様を裏切ることもつまずくこともしないと必死になって訴えるのです。それはたとえみんながつまずいても、私だけは絶対つまずきませんと、他の弟子達と比較してまでも訴えたのです。ですが、人間の弱さを全て見抜かれているイエス様は、こう言いました。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」そう言われて、ペトロはますます激しく、それを否定しようとするのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と訴えたのです。こんなに強く、決心し、訴えたとしても人間の心は弱いのです。すぐ、その時の状況に飲み込まれてしまうことをイエス様は知っているのです。ペトロがこのように、激しく訴えたので、他の弟子達も同じように、私たちも同じです、決して知らないなどとは言いませんと口々に言ったのです。イエス様はそれ以上何も言いませんでした。実際に弟子たちがどのようになるかを知っているからです。
その後、イエス様たちはオリーブ山のゲッセマネと言う葡萄絞りをする場所にやってきました。イエス様は弟子たちをそこに座らせ、ご自分は離れたところで祈っているから待っているようにと言ったのです。その祈りの場所には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて行き祈り始めました。するとイエス様は、悲しみ悶え始められたのです。そして、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と3人の弟子に言われたのです。イエス様でさえも、死ぬばかりの悲しみに出会っているのです。このイエス様の悲しみは、ご自分が十字架にかけられて死ぬことではないような気がします。それはご自分を憐れんでいるのではなく、そのような事をする、人々を悲しんでいるのです。何も知らずに罪を犯す人々、救いから漏れてしまう人々を憐れんで悲しんでおられるのだと思います。
その様な、死ぬばかりに苦しい悲しみの時には、イエス様でも、弟子に対して、ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい、と言ったのです。それは、この死ぬばかりの悲しい気持ちを、分かち合ってほしいと言う願いなのでしょうか。イエス様がこのように他の人に、ご自分の心の内を語り、願いを語ることは他にはないのです。
イエス様はそこからさらに、少し進んで行って、うつ伏せになり、祈ってこう言われました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈りました。ユダヤ人はふつう祈る時には立って祈るのです。ですがイエス様はうつぶせになって祈りました。この聖書の箇所では一言の祈りですが、きっとこの祈りをずっと祈っていたのだと思います。イエス様は、神様に、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください、と祈りました。この杯とは、イエス様の十字架の死です。イエス様はその十字架の死を出来ることなら、させないでくださいと神様にお願いしたのです。イエス様は何度もこの祈りをしたと思います。それは、この十字架の死が、本当に神様の御心なのか、またはサタンの誘惑なのかを確かめるためだったのではないかと思います。そして、最後にそのことが確かに神様の御心だと知った時に、「私の願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ったのではないかと思います。
ここに私たちの祈りの大切なことが教えられます。私たちは何を祈り、何を願ってもいいのです。ですが、その願いは神様の御心と同じであるのかを知る必要があります。そして、その願いが自分だけの願いであり、神様の御心と違うならば、自分の願いどおりではなく、御心のままにと祈る祈りが大切なのです。私たちの祈りは、神様の御心と同じでなければならないのです。その時神様は、その祈りを聞いてくれるのです。
イエス様の祈りは一言ではなかったのです。ずっと祈っていたのです。ですから、イエス様が弟子たちの所へ戻ってみると、弟子達は眠っていました。それでペトロにこう言いました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」イエス様が祈りはじめの時に、「わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言ったのは、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい、という意味だったのです。イエス様でさえも、この杯をわたしから過ぎ去らせてください、という思いなのです。ましてや弟子達もこの緊迫した場面で祈りなしに誘惑に陥らないはずはないのです。気持ちでは絶対につまづきませんと言っていても、体が弱ってくると、すぐにつまずいてしまうような弱い者なのです。ですから目を覚まして祈ることが大切なのです。
イエス様は、さらに続けて2度目、3度目と祈りを続けるのです。その祈りは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」というものでした。イエス様の祈りは、神様の御心を確かめることであり、そしてその御心が行われることでした。その事を確かめるために3度も祈り続けたのです。私たちの祈りは、自分の願いを祈った後で、神様の御心を確かめているでしょうか。神様の御心を知ることこそ、一番大切な祈りなのです。二度目も三度目も、戻ってみると弟子達は眠っていました。この緊張感に疲れ果て、ひどい眠りに襲われていたのです。弟子達は弱かったのです。
イエス様が3度目の祈りを終えて、弟子たちのところに戻って来てこう言いました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」イエス様の3度目の祈りが終わったころ、裏切り者のユダが、祭司長たちやローマ兵の人々を連れてゲッセマネにやってきたのです。それで、眠っている弟子たちを起こして、「立て、行こう。見よ、私を裏切るものが来た。」と言ったのです。
転
この様な話をしているときに、十二人の一人であるユダがやって来きました。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来ました。ヨハネ福音書では、その中に一隊の兵士たちもいたと書かれています。イエス様の12人のグループを捕えるには、ずいぶんと大掛かりなのです。きっとイエス様の奇跡の力を恐れていたのだと思います。ヨハネ福音書では、イエス様が「だれを捜すのか」と彼らに言われた時、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えたので、イエス様が彼らに「それはわたしです」と言われました。その時、彼らは驚いてあとずさりし、そして地に倒れた、と書かれています。それほど、この人々はイエス様の奇跡的な力を恐れていたのです。ですが、マタイやマルコではそのような記述はなく、イエス様を裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていたのです。そして、ユダはすぐイエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻したのでした。ユダはどうして、イエス様に接吻までしたのでしょうか。裏切ったならば、そこまでしなくても教えてやればいいことであって、それでなくてもイエス様の姿はきっと一目で分かったはずだと思うのです。きっとユダにはまだ、イエス様を裏切ったと言う思いはなかったのではないでしょうか。イエス様が闘うきっかけを自分がお膳立てしたと言う思いだったのではないでしょうか。この後ユダは、この場面から消えてしまって次に現れるときには自殺してしまうのです。完全にユダのその目論見は外れてしまったのです。
接吻をされたイエス様は、ユダに「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われました。すると祭司長たちの人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえたのです。そのとき、イエス様と一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした、と書かれています。ヨハネ福音書ではそれがペトロだとはっきり書かれています。そして、イエス様は言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。と、言ったのです。イエス様には、祭司長たちの人々が恐れていたように、神様にお願いすれば、12軍団以上の天使さえもすぐ送って下さって闘うことが出来たのです。ですがそれはしなかったのです。なぜなら、剣を取る者は皆、剣で滅びるからなのです。イエス様が示そうとしているのは、それに抵抗しないで十字架で死ぬことなのです。それが神様の御心であると受け止めているからです。
そして、その捕えに来た群衆にこう言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」と、言ったのです。このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった、と書かれています。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも他の弟子達も、皆怖くなって逃げて行ってしまったのです。イエス様は、たった一人でとらえられてしまったのです。ですがイエス様は、このすべての事が起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためだと言っています。すべての事は預言書通りだと言うのです。イエス様以外の人々は、皆自分の考えで、意志でやっていると思っているでしょう。ですがイエス様はこれらはみな預言者たちの言ったことが実現しているだけだと言うのです。イエス様は、預言書の中に自分の行うべきことを見ていてそれを実現していたのです。
結
イエス様はついに、祭司長たちに捕えられてしまいましたが、それは既に予言されていることが実現しただけなのです。このイエス様が捕えられる直前に、イエス様は非常な悲しみに捉われたのです。ユダの裏切りを見届け、弟子たちが皆躓くことを予言し、ペトロも弟子達も決してそんなことは致しませんと言っても、その思いだけではその通りにできないことを知っていたのです。そして実際にイエス様が捕えられた時にはだれ一人そこに弟子は残っていなかったのです。ですがイエス様のその深い悲しみは、弟子たちに裏切られると言う事だけではないはずです。むしろ罪を犯してしまう人々に対する憐みではないのかと思います。その憐れみが死ぬほど悲しいと言う感情になってイエス様を襲ったのだと思います。このイエス様の悲しみを知ることは、イエス様に近づくことではないでしょうか。私たちにイエス様の悲しみを理解する事は出来なくとも、この悲しみと一つになりたいと言う思いは持つことが出来るのではないでしょうか。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様がゲッセマネで、死ぬばかりに悲しい思いをし、何度も父なる神様に祈ったことを思い、イエス様が私たちのために苦しまれたことを思って、私達もまた、その苦しみを思います。イエス様が、どのような思いで祈られたのか、イエス様がどのように祈ったのかを私達もまた、イエス様と共にその場にあって祈りたいと思います。弟子たちに目を覚まして祈っていなさいと言っても眠ってしまった弟子達です。私達もまたきっと眠ってしまうのかもしれません。でも少しでもイエス様の御心を知って、共に祈ることが出来ますように導いてください。イエス様のその悲しみを知るものとなることが出来ますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆ペトロの離反を予告する
マタ 26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
マタ 26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
マタ 26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
マタ 26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
マタ 26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
◆ゲツセマネで祈る
マタ 26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
マタ 26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
マタ 26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
マタ 26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
マタ 26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
マタ 26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
マタ 26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
マタ 26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
マタ 26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
マタ 26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
マタ 26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
◆裏切られ、逮捕される
マタ 26:47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
マタ 26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
マタ 26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
マタ 26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
マタ 26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
マタ 26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
マタ 26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
マタ 26:54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
マタ 26:55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
マタ 26:56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。