家庭礼拝 2015年11月11日マタイ25章31‐46目すべての民族を裁く
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起
今日の説教の箇所は、今までお話しした中で一番短い箇所で、ただ一つだけのテーマの話です。ですがこの話にはとても大切なことが語られています。この譬え話は、イエス様が十字架の前に弟子たちに教訓を話された最後のものです。そしてそれは終末の時のさばきの話です。終末の時に、いったい人は何によって裁かれるのかを語っているのです。
私達は立派なクリスチャンになろうとして、いろいろな奉仕をしたり、献金をしたり、勉強をしたり、知識を増やしたり、祈りをしたりするかもしれません。それは何のためにそうしているのでしょうか。本当に神様のためでしょうか、自分の救いのためでしょうか。その様な努力は本当に、最後の時に役に立つものでしょうか。本当にしなければならないのは何なのでしょうか。その様な大切な事を教えて下さるのが、今日のイエス様の話なのです。
前回は、終末と再臨に関する三つの譬え話に関して話をしました。最初の話は、忠実な僕と悪い僕の譬え話、次は10人の乙女の譬え、そして三つ目がお金を土の中に隠していた「タラントン」の譬えの話でした。どの話も終末の時にメシアが現れた時に、誰がどのように裁かれるかと言う事を語っています。主人の言葉に忠実であった者、主人の再臨に準備を怠らなかった者、主人の恵みを精一杯活用したものなのど話であって、それらのものは祝福され、そうでなかった者は祝福から締め出されたのです。
そして今日の話はそれらの終末のさばきの総まとめのような話です。そしてその対象はすべての国の民です。それは神様を知らない人々をも対象にしているのです。いったいどのように裁かれるのでしょうか。心静かにイエス様の御言葉を聞いてみましょう。
承
ここにはイエス様の再臨の時にどのような事が起こるのかが書かれています。31節から33節です。
マタ 25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
マタ 25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
マタ 25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
イエス様は、栄光に輝いて、天使たちを皆従えてやって来ると言います。そして、すべての国民がその前に集められるのです。それはなぜかと言うと、善いものと悪いものを選り分けるためなのです。それをイエス様は、羊飼いが羊と山羊を分けると言う表現を使っていますが、日本では山羊は白いのが普通ですが、ユダヤの地方では山羊は黒いのです。ですから、白い羊と黒い山羊を分けるのは簡単なのです。羊を右に、山羊を左に分けるのです。右側とは祝福の象徴です。ですから、イエス様が再臨された時には、すべての国民が祝福されるものとされないものとに分けられるのですが、それは白と黒を見分けるよりも明らかにわかることなのだと言う事なのです。
そして、右側の祝福された人々に対して言いました34節です。
マタ 25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
その人々には、天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさいと言って祝福されたのです。それはイエス様によって祝福されていると言うよりも、神様によって祝福されている人々なのです。そしてその祝福された理由を述べました。35節と36節です。
マタ 25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
マタ 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
その理由と言うのが、その人々は、イエス様が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に尋ねてくれたからだと言うのです。すなわち、イエス様が苦しんでおり、助けを求めている時に助けてくれたからだと言うのです。祝福された側に選ばれた人々はイエス様を助けた人々なのです。ですが、その人々はキョトンとして、一体それは何の事だろうと思ってこう言いました。37節から39節です。
マタ 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。
マタ 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
マタ 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
この正しい人たちは、自分たちがそのような事をした覚えがないので正直にそういったのです。王様のような方にそのような良いことをしたならば絶対に覚えているはずなのですが、そんな心当たりはないので不思議に思ったのです。それで王様にそのように問いかけたのです。するとその王様はこう言いました。40節です。
マタ 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
イエス様が一番言おうとしていたのはこの事です。それは、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである、と言う事です。イエス様にとって、最も小さい人々、すなわち、最も虐げられて、苦難の中にあって、助けを求めている人々こそ、イエス様の兄弟だと言っているのです。そして、このもっとも小さいものにしてくれたのは、私にしてくれたことと同じであると言っているのです。この話はとても大切な事を教えています。だからイエス様が最後に語った教えとして語っているのです。それは、イエス様が今現在どこにおられるのかと言う事を教えているです。それは最も小さいものと共に居ると言う事です。その人々と共に苦しみ助けを求めていると言うことです。私たちはイエス様は、天にいて、その絶大な力を背景に、ゆったりと私たちを見張っていると思っています。そして何か必要な事があればそのイエス様に願って、恵みをいただこうと天に向かって祈りを捧げます。ですがイエス様はそのような高いところにいるのではないのです。最も低いところで、最も小さな人々と共に居て苦しみ助けを求めているのです。その人々と共に悲しんでいるのです。私たちが手を差し伸べるのを待っているのです。
転
私達はもしかすると、献金をするにしても奉仕をするにしても、神様から与えられた恵みを貧しい人々に分けてあげようと言う思いだったり、信仰の力で、困っている人々を助けてあげようと思ったりするのではないでしょうか。そういうことをすると神様は、私たちを微笑んでくださって、私たちのそば近くにいて下さると思っているのではないでしょうか。もしかすると私たちは、上から目線で最も小さな人々を見ているのではないでしょうか。私たちは主と共にあって、あなた方を助けているのですと思っているのではないでしょうか。
ですがそうではないのです。イエス様が居るのは私たちの側ではなくて、最も小さな人々の側にいるのです。この祝福された側に選ばれた人々は、そこにイエス様が居られることを知らずに、最も小さな人々を助けていたのです。そして、その人々を助けることによって、実はそこにいるイエス様に励まされて、その善き業をしていたのです。ですから、善いことをしなければと思ってしているのではなく、その人々のためにすることが喜びとなって、奉仕しているのです。その事をイエス様は喜んでくださり、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と言ったのです。
私達が、終末の時に祝福される側に選ばれるのは、私たちの知識でも献金でも、奉仕でもなく、いかに信仰的であったかでもなく、報いを求めることなく行った、小さな善い行いのためなのです。小さき人々の求めに応じて行う援助の行為なのです。このように言うと、私たちはルターが言っている信仰義認の事を思い出します。人は行いではなく信仰によって義とされると言う事です。ですからそのような行いよりも信仰の方が大切だと言う人もいるに違いありません。
ですが誤解してはいけません。ルターが信仰義認の時に言っている行いとは、善い行いを積めば救われると思っている人の行いのことであって、それはパリサイ人の信仰なのです。そして、それは信仰にまさるものではないと言う事なのです。ですが、イエス様の語った、最も小さいものに援助する行為は、その事によって救われようとしているのではなく、愛の心から、信仰の心からその事を行わざるを得なくて行っているのです。ですから、良きことをしたと言う自覚もないのです。ですからその人々はこう言ったのです。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。』そのような無自覚的な愛による行為をこそイエス様は求めており、そのような行いはたとえ異邦人であっても祝福されると言う事なのです。そしてイエス様の右側へと導かれると言う事なのです。
また、もう一方の人々にはこう言いました。41節から46節です。
マタ 25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
マタ 25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
マタ 25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
マタ 25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
マタ 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
マタ 25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
イエス様は、右側の祝福された人々に言った事と、全く反対の事を左側の人々に言われました。それは呪われた者どもと言い、地獄の火の中に入れと言っているのです。永遠の罰を受けると言っているのです。王様がこの人々に、『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』と言った時に、彼らは一生懸命に自己弁護しました。王様そんなことはありません。もし王様がそのように求めていたならば私たちは必ずお助けしたでしょう、ですから、私たちがあなたを助けなかったと言うのは何かの間違いです、と言っているのです。すなわち、この人々は、相手が王様であり、その見返りがあるならば助け、小さな貧しいもののためにはその見返りがないために助けることをしないのです。ですが王様はこう言いました。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』この王様は、最も小さいものの側に立っていたのです。この人々はそのことが分からずに、助けることをしなかったのです。
私達は、今このイエス様の御言葉を聞いて、理解しなければならないのは、イエス様は上におられるのではなく、最も低いところにおられる方であり、強く力ある人々の中にいるのではなく、最も小さいものの中におられると言う事なのです。もし私たちがその事を理解しているならば、最も小さいものの必要に答えて援助するときに、きっと、そこから教えられることがあり、励まされることがあり、深い喜びが与えられるのだと思うのです。なぜならばそこにはイエス様が共に居られるからなのです。
結
今日の話は、イエス様が十字架にかかる前に私たちに教えて下さった最後の教訓です。それは、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と言う事です。そしてそのようにした人々が永遠の命にあずかるようになると言う事です。イエス様はいつもこのような、最も小さいものの側に立って、苦しみを受け虐げを受けその中で助けを求めるものの側にいるのです。決して、自分には神様が付いているから、助けてやろうと思っている人々の中にいるのではなかったのです。私達は、無償の愛をもって最も小さいものに手を差し伸べるときに、イエス様の祝福を得るのです。ただそれだけなのです。それを間違えて、祝福を得るために手を差し伸べるとすると、それは黒い山羊になってしまうのです。このイエス様の御言葉をしっかりと受け止めていきたいと思います。そして、イエス様の十字架こそ、イエス様が、「私は最も小さいものと共に居る」と語っているあかしなのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。今日の御言葉に感謝いたします。私たちに必要なものは、最も小さいものの中にイエス様は共に居られると言う理解です。イエス様に手を差し伸べるように、その小さいものにも手を差し伸べていくことです。見返りを求めない無償の愛です。あなたは今日その事を教えてくださいました。私達が救われることばかり考えて、隣人の必要に手を差し伸べることをしないならば、それは本末転倒となります。どうか神様、私たちが、小さき者と共に苦しみ援助を求めているイエス様を認めることが出来ますように。そして喜びをもって、その良き行いをすることが出来ますように。そして、そこにおられるあなたが、私たちに必要な事を教え与えてくださいますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆すべての民族を裁く
マタ 25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
マタ 25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
マタ 25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
マタ 25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
マタ 25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
マタ 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
マタ 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
マタ 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
マタ 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
マタ 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタ 25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
マタ 25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
マタ 25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
マタ 25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
マタ 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
マタ 25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」