家庭礼拝 2015年10月7日マタイ23章23‐39律法学者とファリサイ派の人々を非難する(後半)

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 先週は、「あなたたちは不幸だ。」で始まる7つの不幸の内の3つを取り上げましたが、今日は残りの4つの不幸について、学んでいきます。これはユダヤ人の宗教的指導者が、偽善的な信仰の中で、行っている罪を一つ一つ数え上げ、あなたたちは不幸だと嘆いているのです。そしてその最後の不幸は、神様から遣わされた正しい預言者を迫害し、殺してしまった罪を不幸だと嘆いています。そしてこれらの不幸を嘆いた後で、今度は「エルサレムのために嘆く」と小見出しの出ているところから、その総括に入るのです。この嘆きは、イエス様を拒み、殺してしまうと言う大きな罪を犯してしまう、エルサレムのために嘆いているのです。

この箇所を読むときに大切なのは、自分の立つ位置がどこにあるのかと言う事です。ふつうは、自分はこのようなパリサイ人の様ではなく、イエス様に裁かれるような罪人ではないと思い、周りにいる群衆と同じだろう、と思って読んでいます。善人ではないかもしれないが悪人でもない、あまり人々を助けることが出来ないかもしれないが、正しい人たちを迫害しているわけでもない、と思っているのです。ですが、それが、イエス様から偽善者と、言われる根拠なのです。イエス様が裁いているのは、このパリサイ人たちだけではなく、私達もまた同類であると言う事を認識してこの箇所を読まなければ、ほとんど何も理解できないかもしれません。なぜならば、イエス様が非難した、この律法学者やファリサイ人たちでさえ、預言者を迫害したのは昔の先祖たちの話で、信仰深い自分たちは違う、と思っているからです。自分たちは色々な事を学んでずっと正しい行いをしているから、その非難には当たらないと思っているのです。その態度は、今の私たちの態度と同じなのです。ですから私たちはこの律法学者やファリサイ人たちを蔑んだり、軽く見たりする権利はないのです。私達も同様なのです。ですから、謙虚に、イエス様の言われたことを自分の事として、受け止めていかなければ、イエス様の言葉は上の空になってしまうのです。自分には関係ないと思ってしまうのです。そのことに注意しながら、今日の聖書の箇所を読んでいきたいと思うのです。

さて、イエス様はファリサイ人たちに4つ目の不幸を語りました。23節と24節です。

マタ 23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(ハッカ )、いのんど、茴香(ウイキョウ)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

マタ 23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

 ここでイエス様は捧げものの話をしています。ユダヤ教では当然、十分の一の捧げものが律法で定められており、厳格にそれを行っています。今でもユダヤ人たちは、自分たちの収入を事細かに記録し、計算して、きっかり10分の一を捧げることをしているのです。その様なお金に対する姿勢が誤解されて、ユダヤ人はお金に汚いとか執着しているとか言われているのです。もともとは正確に10分の一を捧げたいと言う宗教的考えから行っているのです。今日イエス様が言っているのは単に捧げものの話をしているのではなくて、何が本当の捧げものか、何が大切な捧げものかと言う事を言っているのです。ここで捧げものに「薄荷、いのんど、茴香(ウイキョウ)の十分の一は献げるが」と書かれています。これらは料理に使う香辛料であり、医薬品でもあるのです。今でいうとハーブのようなものです。ですから大量に栽培されるものではなくて、家の片隅にわずかだけ栽培されているようなものです。ですが、ユダヤ人たちはそのような僅かなものでも正確に十分の一を捧げる人を信仰の深い人だと言って、尊敬するのです。ユダヤ人たちはそのような小さな事には一生懸命になるが、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と言われたのです。目に見えることなら、小さな事にさえも捉われて、それを守ることには汲々としているが、目に見えないけれども、本当に大切なものには無関心であると言っているのです。その目に見えない本当に大切な律法とは、正義、慈悲、誠実を行うことであると言いました。外見的なものではなくて、むしろ心の中から出てくるものが大切なのであると言っているのです。

そしてユーモアと皮肉を交えた言葉でこういうのです。「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」ぶよもラクダも汚れたものとされていました。ですから、ユダヤ人たちはぶどう酒などに目に見えないほど小さいぶよが入ってしまっているのではないかと恐れて、それを誤って飲み込まないように、漉して取り除いてからそれを呑むほどに気を遣うのです。ですが、ですが一方ではラクダほど大きい汚れたものでも、まるで目が見えないかのように、平気でそれを呑みこむような、無神経さで律法を侵しているのだ、とイエス様は指摘するのです。私達もまた、眼に見える小さなことにこだわって、眼に見えない大きな大切な事を忘れてしまう、目の見えないものなのです。

次は5つ目の不幸です。これも、ものの見えない人に関することです。25節から26節です。

マタ 23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

マタ 23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

 ここでもイエス様は律法学者たちとファリサイ派の人々の裏表のある偽善的な信仰を非難しています。ここでは杯や皿などの入れ物を譬えに出して語っています。彼らは、そのような器の外側をきれいにするけれども内側は罪と欲とに満ちていると言います。外から見えるところだけきれいにして、見えないところは醜いもので一杯なのです。私たちも同じなのです。見えるところだけ良くして見せても、その心の中は利己的な思いで一杯なのです。イエス様は、だからまず、心の中をきれいにしなさい、そうすれば外見も綺麗になるからと言っているのです。この事が良く分かっていながら、私たちはなんと安易に外見だけをきれいにして、人の目をごまかそうとするのでしょうか。でもごまかせないのです。見えないものを見る目が必要なのです。そうすれば内側も綺麗にできるのです。

次は六つ目の不幸です。これもまた内側と外側の話です。27節と28節です。

マタ 23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

マタ 23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

 今度はイエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々を、白く塗った墓に例えます。この話も外見と内面の違いを際立たせるために例えている言葉です。イスラエルの人々は、過ぎ越しの祭りが近づいて、多くの人々がエルサレムにやって来る時期になると、墓を白く塗るのです。どうしてかと言うと、ここに墓があるから注意しなさいと、知らせるためなのです。たとえ知らずに墓に触れても、墓に触れた人は汚れてしまって、神殿に入ることが出来なくなるからです。多分この時期は墓がきれいに白く塗られて、美しくなるのでしょう。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている、と言いました。そして、律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちていると言いました。私たちも全く同じ仲間なのです。自分たちは違うとは考えてもいけないのです。見えるところだけ良くしようとしてもダメなのです。

そして最後の7つ目の不幸です。預言者に対する偽善です。ここでも表向きと本音と言う裏表の関係が話されています。イエス様はこの事を一番言いたかったのでしょう。ここの箇所が一番長く、そして次の総括的な「◆エルサレムのために嘆く」、に続けて話をされるからです。29節から31節です。

マタ 23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

マタ 23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。

マタ 23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

ここで語られる偽善が、私たちにとっても一番危険な偽善かもしれません。律法学者たちとファリサイ派の人々は、預言者のために墓を建てたり、記念碑を飾ったりして、自分たちはこれらの預言者や正しい人を敬っていると言う姿勢を見せます。そしてその予言者を殺したり迫害した先祖たちに対して、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言って善人ぶっているのです。自分達が予言者を殺した者たちの子孫であることは認めても、自分たちはそんな愚かな事はしないと思っているのです。私たちもそうなのです。聖書の話を聞き、イエス様が迫害を受け、十字架につけられた話を聞いて、なんと悪いユダヤ人たちだ、と思って非難し、自分たちはイエス様の側に立つイエスの弟子だと思っているのです。自分たちをこのユダヤ人の先祖と同じく、預言者を殺すものと考える事は出来ないのです。ですがこのユダヤ人たちも私たちもそのユダヤ人の先祖と同じ仲間なのです。もしここにイエス様のような預言者が現れたら、きっと抹殺しようとするものなのです。だからイエス様はこう言いました。32節から34節です。

マタ 23:32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

マタ 23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。

マタ 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

イエス様は、その目の前の律法学者たちとファリサイ派の人々に対し、あなた方の先祖と同じことを今やってその仕事を仕上げたらどうだと言います。その仕上げとは、イエス様を殺すことなのです。先祖のように、私をも殺したらどうだと挑発しているのです。そしてそのようなあなたたちは地獄の罰を免れないだろうと言います。イエス様が、預言者たちをあなたたちに遣わしても殺したり迫害したりするだろうと言いました。この様に私たちの偽善の恐ろしいことは、自分たちはイエス様の仲間だ、イエス様に従うものだと言いながら、イエス様に敵対するものとなることが多いのです。ですから謙遜に自分の行うことを見つめないと、自分は正しいと言う思い高ぶりの中でそのような全く反対の事をしてしまうのです。

そして最後にこう言いました。35節と36節です。

マタ 23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。

マタ 23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

 アベルとはアダムとエバの子カインとアベルの兄弟のアベルです。アベルはカインに殺されて、殉教者の位置におかれているのです。そしてゼカルヤと書かれていますが、ゼカリヤ書のゼカリアが最後の預言者としてあげられて、その人たちの流した正しい人の血はあなたたちに降りかかってくると言ったのです。それはイエス様を殺すことはそれほど罪深いことだと言う事なのです。でもユダヤ人たちはそれでも、自分たちは正しく神様に仕えていると思っているところがこの偽善の恐ろしい所なのです。

 このように、イエス様は目の前の律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、自分は正しいと思って行っていることが、いかに不幸な事であるかを告げ、預言者を殺し続けるその子孫たちに対して、嘆いた後、今度はエルサレムのために嘆くのです。27節から39節です。

マタ 23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

マタ 23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。

マタ 23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

 イエス様の嘆きは、愛をもって何度集めようとしても応じようとしないエルサレムの人たちに対してでした。それどころか、預言者たちを殺し、遣わされた人々を打ち殺して、神様に仕えていると思っている人たちが、目を覚ますことなく悔い改めることなく滅んでいくことを嘆くのです。イエス様は、「実よ、お前たちの家は見捨てられ、荒れ果てる」と言いました。そしてそれから40年後に神殿は崩壊し、ユダヤの国はローマによって滅亡してしまうのです。救いのためにやってきたイエス様を拒絶し、殺してしまった結果として、自分たちの国も神殿も滅んでしまったのです。

 私たちも、このようなイエス様の嘆きを聞くことはないでしょうか。イエス様はこう言っているかもしれません。「キリスト教の教会の者達よ、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」このようなイエス様の声を、心から遜って、悔い改めて聞かなければ、本当にこの教会は荒れ果てるのかもしれません。自分の事として聞きたいものです。

 イエス様はイスラエルを愛しました、ですがイスラエルはイエス様を拒みました。イスラエルは、本当の信仰よりも、見かけの信仰を、神様よりも人に良く思われることを大切にしたのです。その信仰は偽善であり、見せかけの信仰となってしまったのです。このような事はただイスラエルに起こったのではなく、今の私たちの心にも起こることです。このような偽善は私たちも知らずに行っていることです。裏表なく、本当に主に信頼し委ねることは、自分の罪を認め神様以外に頼る者の無いことを知る事から生まれてくるのかもしれません。日々祈りつつ、神様の声を静かに聞き取る生活が大切なのだと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。どうか私たちの信仰を裏表のない清いものとさせてください。内側を清めて、外側も清いものになるものとさせてください。見せかけの信仰に陥ることがありませんように。人の評価を求めるよりもただ神様の愛を信じて従うものとなることが出来ますように。いつも謙って御言葉を聞くことが出来ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆律法学者とファリサイ派の人々を非難する(後半)

マタ 23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

マタ 23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

マタ 23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

マタ 23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

マタ 23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

マタ 23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

マタ 23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

マタ 23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。

マタ 23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

マタ 23:32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

マタ 23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。

マタ 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

マタ 23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。

マタ 23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

◆エルサレムのために嘆く

マタ 23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

マタ 23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。

マタ 23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」