家庭礼拝 2015年9月30日マタイ23章1‐22律法学者とファリサイ派の人々を非難する(前半)
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起
イエス様がエルサレムに入ってからの行動をもう一度振り返ってみると、まず3つの譬え話で、祭司長たちやファリサイ人たちを暗に非難しました。それに気が付いたファリサイ人たちは今度は反撃に出て、3つの質問をしましたが、イエス様に圧倒的な答えを与えられて、もうそれ以上問いかけることはしませんでした。そのあとイエス様は今度はご自分からファリサイ人たちに問いかけました。それは「キリストとは誰か」と言う質問でした。ですが、ファリサイ人たちは、言い伝えられた答えしかできませんでした。それは「ダビデの子です」と言う答えでした。ですがイエス様はこれも打ち破られました。キリストがダビデの子ならば、どうしてダビデはキリストを主と言うのかというのです。これにもファリサイ人たちは答えることが出来ず。何も言えなくなってしまったのです。
そして、今日の場面に入るのです。ファリサイ人や律法学者たちは、イエス様の圧倒的な権威の前にもう何も出来なくなっていたのですが、今度はイエス様の方から激しい攻撃をするのです。これほど激しい攻撃、怒りを含んだ攻撃は他の場面ではありません。イエス様が十字架の死を前にして、この人々にその罪がいかなるものであるかを激しく迫って行ったのです。
なぜそのようにイエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者を激しく非難したのかと言えば、それは大切な信仰を、表面的な、形式的な、儀礼的な宗教にしてしまったからです。彼らは神様がまるでいないもののようにふるまい、返って神様ではなくて、人から良く思われることに力を注いでいたのです。ある面では信仰に非常に熱心な人たちでした。そしていろいろな規則を沢山作りだして、これを守らなければイスラエルに救いはないと人々を指導したのです。ですが、その事も、この口伝律法を多く守ったものが信仰的に偉いもので、守れないものは罪人であると言うような、信仰的格差社会を作り出して、その中で優越感をもって生きようとしている人々であるともいえるのです。ですから、ファリサイ派の信仰は、人から見ていかに優れた信仰であるかということを競う信仰なのです。それに対してイエス様は、今も生きておられる神様のみを見て歩みなさい、と言っているのです。神様だけがあなたたちを本当に正しい道に導きだし救いへと導いてくださる方なのだから、ただ神様のみを見上げて信仰を歩みなさいと言っているのです。
信仰がマンネリ化してくると、その宗教は儀礼的になり、戒律を守る競争に走ります。これはどの宗教でも同じです。今のキリスト教でも同じです。如何に礼拝出席を守るか、いかに献金を多くするか、いかに奉仕をするかによって、そこで信仰の優劣を競おうとするのです。こうなった時にはその信仰は死にかけています。イエス様はまさに信仰がそのような状態にあって、その信仰に抑圧された社会の人々を救うためにこの世にやってきたのです。この時に大切なのは、ただ神様のみに信頼することです。神様のみに御心を尋ねることです。生きた神様を感じることです。その様な信仰を与えるためにイエス様は命を懸けられたことを、今一度心に思い起こしたいと思うのです。この律法学者とファリサイ派の人々を非難する箇所は、本来は一度に行うのがいいのですが、長くなるので、二つに分けて前半と後半とでお話しいたします。では、今日はその前半です。
承
さて、今日の箇所でイエス様は、律法学者とファリサイ派の人々を非難するのですが、誰に対してその話おしたのでしょうか。もうそこには彼らはイエス様にはかなわないと思って姿を消したので、そこに残っているのは弟子達と群衆たちなのです。そこにはわずかなファリサイ派の人々と律法学者もいたかもしれません。その人々に対してイエス様は語ったのです。1節から3節です。
マタ 23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
マタ 23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
マタ 23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
律法学者やファリサイ派の人々は言うことと行うことがバラバラな人々でした。このような人々と出会った時私たちはどのように思うでしょうか。大抵はそんないい加減な人々の事を、頭から拒否して、一切相手にしないことでしょう。ですがイエス様はそうではなかったのです。イエス様はこう言ったのです。「律法学者やファリサイ派の人々はモーセの教えを受け継ぎ教える立場におかれている。だから、彼らの言うことはすべて行い、また守りなさい。」と言ったのです。たとえ言う事と行うことが違っていても、言うことが正しければそれを聞いて守りなさい、と言ったのです。その正しい教えまでも否定してはいけないと言ったのです。そのうえで、「しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。」と言って、その行いは見習ってはならないことをしっかりと忠告したのです。私たちはこのようにできるでしょうか。私たちはその人がどうであれ、その言葉が正しいものであれば、心を開いて従うことが正しいのです。
ここの3節から10節までは、その見習ってはいけない行いを一つ一つあげて、このような事はしてはいけないと言っているのです。
その一つ目は、言うだけで実行しないことです。
その二つ目は、彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない、と言う事です。これは人々に律法の重荷を押し付けて、それを軽くしてやるようなことを全くしないと言う事なのです。信仰を苦しいものにしているのです。信仰を救いへと導かないのです。
その三つめは、全て人によく見られるためにしていると言う事です。その具体的な例がさらに示されています。聖句の入った小箱や、衣服の房の話、これは如何に立派な信仰者かと敬われることを望んでいるのです。そしてまた、上座や上席を好み先生と呼ばれたり父と呼ばれたりすることを好むことです。イエス様はこれらの事に対して、先生と呼ばれたり父と呼ばれたりしてはいけないと言います。なぜならば父とは天の父のみであり、教師とはキリストのみであるからだとイエス様は言っているのです。このように自分は偉いものであるとか偉い人になりたいと思うことは間違っていることだと言って、こう言ったのです。11節と12節です。
マタ 23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
マタ 23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
イエス様が良しとされるのは、偉くなることではなく、仕える人になることであり、へりくだるものとなることなのです。その様なものをイエス様は高く評価されると言っているのです。
転
さて、13節からは、ちょっと雰囲気が変わって、イエス様はファリサイ人たちの不幸を嘆いている箇所に入ります。この23章には、「あなたたちは不幸だ」と言う言葉で始まる箇所が7つあります。その7つの内の6つは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」と言っています。一つだけ違った箇所では、「物の見えない案内人、あなたたちは不幸だ。」と言っています。
この言い方は何かに似ているとは思わないでしょうか。これはイエス様の山上の垂訓で話された、9つの祝福、「あなたたちは幸いである」と言う言葉で始まる祝福の言い方の反対の言い方にそっくりなのです。今日の箇所ではその最初の3つだけを取り上げていきます。まず最初の二つはこれです。13節と15節です。
マタ 23:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
†
マタ 23:15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
これはイエス様がファリサイ派の人々を非難しているにしても、呪っているのでしょうか。もし本当に呪っているならば、不幸だ、などと言わずに、地獄に落ちよ、とか呪われよ、とか裁かれよ、というのではないでしょうか。それを不幸だと言って嘆いているのは、本当に憐れんで嘆いているからではないでしょうか。その不幸の嘆きを7回も繰り返すと言うのは、イエス様にとって本当に悔やまれることだったのではないでしょうか。その不幸の原因は偽善者であると言う事です。クリスチャンも良く偽善者と呼ばれることがあります。表向きは善人として演技していても、本当は違った心を持っていると言う事です。この事が最大の不幸だと言うのです。
まず最初の不幸は「人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」と言います。熱心な信仰者であるのだが、本当に天の国に入ろうとはしないで、人のつくった律法によって自分も天の国に入れなくし、人々をも天の国から締め出していると言うのです。信仰をもつものはこの天国を目指しているのに、彼らは、そのカギを天国から締め出すことに使っていると言うのです。だから不幸なのです。
2つ目の不幸は、彼らは、熱心に伝道し改宗者を求めて世界中を探し回るが、その改宗者を見つけると、自分たち以上に悪い地獄の子にしてしまう、というのです。この当時のユダヤ教は、世界の中にあって、一神教を唱える、新興宗教的なところがあったのです。いろいろ非難される面を持つとともにとても魅力的に見える宗教だったのです。このような宗教に改宗して入ると、とても過激な信仰者になりやすいのです。そしてその新たな改宗者は、本当の神様を知ることなく、ファリサイ派や律法学者から教えられた教えをさらに過激に守って、人々に重荷を負わせる、地獄の子としてしまうと言うのです。
そして3つめの不幸は、必ずしも律法学者やファリサイ人だけではなくて一般の人々も含まれるのです。そこで言われるのは「ものの見えない案内人」と言われる人々です。16節です。
マタ 23:16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
この16節から22節までは誓について語られています。誓について誤った考え方を持っていることが不幸であると言う事なのです。その具体的な間違いとは、神様に誓うことにいつも抜け道を与えていると言う事なのです。神様に誓ったことは、必ず成し遂げねばなりません。ですが、この人たちは自信がないので、うまくいかなかったときの抜け道を考えて誓っているのです。その一つは、神殿にかけて誓うならば、もし誓が失敗しても大丈夫だが、神殿の黄金にかけて誓うならば、それは必ず果たさなければならない、と言ったような抜け道なのです。誓うことに表と裏とを用意して、いつでも逃げられるようにしてあるのです。これに対してイエス様は言いました。「愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」と言って、神殿の方が尊いのに、黄金の方が大切であるような言い方をしている人々を非難したのです。そして神殿に対して誓ってもそれを守らない姿勢を非難したのです。
また別の例を出して非難しました。18節から20節です。
マタ 23:18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
マタ 23:19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。
マタ 23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
ここでは祭壇とその上の供え物のに誓う違いを言っています。ユダヤ人たちは本来の神殿や、祭壇を大切にせず、その中の黄金や供え物を大切にして、こちらに誓ったことは果たさなければならないが、神殿や祭壇に誓った誓は必ず成し遂げなければならないものではないと言って、本末転倒した、いい加減な誓をするようになったのです。イエス様はそれを怒っておられるのです。
イエス様は、何が大切なのかを改めて、こう言いました。20節から22節です。
マタ 23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
マタ 23:21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
マタ 23:22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
祭壇にかけて誓うこと、神殿にかけて誓うこと、天にかけて誓う事それらは皆神様にかけて誓うことだから、その誓いは無効であると言う事は神様を無視する大きな罪であると言っているのです。イエス様は、基本的に誓ってはならないと教えています。天を指して誓うな、地を指して誓うな、神殿を指して誓うな、と言っているのです。人間に神様に誓って必ず成し遂げられるような力はないからなのです。だから、誓うのではなく、神様の御心に対して、然り、然り、否、否と言いなさい。と教えられているのです。
結
律法学者たちとファリサイ人たちはイエス様から、あなたたちは不幸だと言われました。これは、もしあなたたちが教える立場になくて、従う立場にあったならば、そのような不幸に見舞われなくて済んだのにと言う憐みでもあります。教えるものがいかに罪と過ちを犯しやすいか、いかに虚栄に満ちた行いをしてしまうのかを思わされます。だからイエス様が教えているのは、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言う教えなのです。ただイエス様に聞き従い、仕えるものとなりへりくだる者となることがイエス様の教えなのです。教えてやろうとするものは罪に陥ります。教えられる側に立つことこそ、イエス様に喜ばれることなのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、あなたの御言葉に感謝いたします。人に教えようとすることの中にいろいろな罪の誘惑が隠されていることを思います。その中にあって、あなたの御言葉に、謙虚に聞き従うことの大切さを思わされます。どうか教えるものの誘惑、偉くなることの誘惑、虚栄に満ちた誘惑に陥ることなく、謙遜に仕えていくものでありますように。あなたが、この十字架を目の前にして、信仰熱心な律法学者やファリサイ人たちに与えた御言葉は、今の熱心なクリスチャンに与えた御言葉でもあります。どうか心を開いて受け止めることが出来ますように。
この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆律法学者とファリサイ派の人々を非難する
マタ 23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
マタ 23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
マタ 23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
マタ 23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
マタ 23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
マタ 23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
マタ 23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
マタ 23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
マタ 23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
マタ 23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
マタ 23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
マタ 23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
マタ 23:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
†
マタ 23:15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
マタ 23:16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
マタ 23:17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。
マタ 23:18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
マタ 23:19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。
マタ 23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
マタ 23:21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
マタ 23:22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。