家庭礼拝 2015年9月23日マタイ22章23‐46最も重要な掟
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起
前回と前々回では、イエス様は3つの譬えを話して、祭司長たち宗教的指導者の不信仰を暗に非難しました。ですが、それに気が付いて、最初に反撃してきたのはファリサイ派の人々でした。それは皇帝への税金を納めるべきかどうかという質問をして、イエス様を窮地に陥れようとしたのです。それはイエス様の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という答えで圧倒されてしまいました。それを聞いている者達はその答えに驚き、またある者達はファリサイ派が言い込められたことを喜んだのです。
イエス様が三つの譬えを話したことの、反動のように、今度は宗教的指導者たちの三つの問いかけによる反撃があるのです。一つは前回のファリサイ派の質問でしたが、今日の箇所では、次にサドカイ派、さらに律法学者がイエス様を試そうとして問いかけをしてくるのです。これらの者達は、実は互いに、考え方は違うのです。それがイエス様に対しては一緒になって敵対してくるのです。ですから、ファリサイ派がイエス様にやり込められたと聞くとサドカイ派の人々は喜ぶのです。そして次は自分たちの番だとばかりイエス様をやり込めようとするのですが、これもまた失敗するのです。それを聞くと今度はファリサイ派の人々が喜んでまたイエス様に挑戦してくるのです。
実はファリサイ派とサドカイ派ではその信仰はとても違うのです。ファリサイ派の特徴は、信仰に熱心であり、聖書に書かれているモーセの律法以外に、それを解釈して伝えている口伝律法というものを信じていました。それによって、安息日の規定とかが細かく定められており、イエス様としばしばぶつかり合う元となっています。その数は600以上もあるとも言われています。ファリサイ派の人々はそれを研究し人々に教えて、それで、宗教的な権威を振り回すことになっているのです。また、ファリサイ派の人々は復活を信じていました。ですがイエス様の復活とは違って、死んだ人がそのまま同じ姿、同じ状態で生き返ると言うことなのです。一方、サドカイ派の人々はとても現実的で、ローマとの良好な関係を保ち、政治的経済的な力を持っていました。議会の運営などにもその政治力を揮い、祭司長もまたサドカイ派の人々でした。サドカイ派の人々は、ファリサイ派の人々の大切にしている口伝律法は信じませんでした。モーセ5書の律法しか信じなかったのです。その意味ではイエス様に近いのです。また、サドカイ派の人々は復活をも信じませんでした。この点に関しては、イエス様はファリサイ派の人々に近いのです。
ですから、本当は仲の悪いもの同士なので一方がイエス様にやり込められると、他方はそれを喜ぶと言うようなことが起こりながらも、イエス様の事は何とか退けようと言う思いが共通しているのです。このような状況の中で、ファリサイ派の人々がイエス様に反撃し、次はサドカイ派の人々が反撃に出ると言うことが起こったのです。
承
では、今日の聖書の箇所を見てみましょう。まず、23節から28節です。
マタ 22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
マタ 22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
マタ 22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
マタ 22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
マタ 22:27 最後にその女も死にました。
マタ 22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
この質問は、イエス様をやり込めると言うよりも、ファリサイ派の復活を信じる考え方がおかしいのではないのか、というような質問です。ですが、これにうまく答えられなかったら、イエス様もまた、大したことはないではないかと貶めようとしているのです。その質問と言うのは、結婚に関することと復活に関することでした。この質問の前提にはモーセの教えがありました。そこには、『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』という規定があるのです。その兄の家にも子孫を残すために、弟がその兄の嫁と結婚して、その子孫を兄の子孫として残すと言うことが実際にやられていたようです。サドカイ派の人々はこの事を逆手にとって、復活が本当に起こるなら、こんな場合にはどうするのだと言っているのです。こんな不合理なことが起こるなら、復活はあり得ないではないかとその不合理性を指摘しているのです。
その不合理とは、モーセの教えに従って、兄の嫁をもらった弟が、また子を作らず死んでしまい、その次の弟がそれを嫁にもらい、また同じように死んでしまうと言うことを繰り返し、7人も次々に一人の嫁と結婚したならば、復活した時、その女の人は誰の妻になるのか、という問題なのです。
これに対して、イエス様はこう答えました。29節から33節です。
マタ 22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
マタ 22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタ 22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
マタ 22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
マタ 22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
イエス様は、あなたたちは思い違いをしていると言いました。この世の事と天上の事を同じように考えていると言っているのです。復活の世界は、この世の世界とは違うと言うことです。復活して、また結婚したり夫婦になったりすることはなく、天使の様にすなわち霊的になるのだ、ということになるのです。サドカイ派の人々は、復活など聖書にはどこにも書かれていないではないか、そんなことは信じられない、と考えているのですが、イエス様は復活はあるのだと答えています。それは、聖書に「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と書かれていることの中に根拠があるのだと言っているのです。イエス様は、神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ、と言いました。それならば、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と言っていることは、アブラハムも、イサクも、ヤコブも復活して生きていると言うことではないか、と言っているのです。それに対して、サドカイ派の人々は反論できず、群衆はこれを聞いて、イエス様の教えに驚いたのです。この群衆の中にはファリサイ派の人々もいて、驚くとともにサドカイ派がやり込められたことを喜んでいるのです。
転
すると今度は、ファリサイ派の人々がまた出てくるのです。34節には、「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」、と書いています。又作戦を練って、イエス様を試そうとしているのです。ですがここの箇所は、マルコによる福音書では、ちょっと違った書き方をしてます。それは、「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。」と書かれているのです。イエス様と敵対しようと言うよりも、イエス様の答えに感服して、尋ねているのです。その質問とは36節の、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という質問です。この質問によって、私たちはイエス様の教えの核心を分かりやすく聞くことが出来ます。イエス様は、色々な人をイエス様の働きのために用いているのです。その答えはこうです。37節から39節です。
マタ 22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
マタ 22:38 これが最も重要な第一の掟である。
マタ 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
キリスト教は、これが出来ればその信仰を全うできるのです。教会に行っていても、信仰的な知識があってもこの二つの掟を実行できないのならば、クリスチャンと言ってもまだまだ恥ずかしい段階なのです。大切なのはまず、神様を心をつくして愛し、そして、隣人を自分のように愛すること、なのです。神様を愛すること無しに、隣人を心から愛する事は出来ないのです。ここで勘違いしてはいけないのは愛するとは、好きになると言うこととは違うのです。大嫌いな隣人を好きになれと言っているのではないのです。イエス様の言っている、愛すると言う言葉の意味は、好きになると言うよりも、大切にすると言った意味に近いのです。例え、隣人が嫌いであっても、そのままで大切にすると言うことです。神様の事が良く分からなくても、そのままで、神様を大切にすることが、神様を愛すると言うことなのです。これがイエス様が教えて下さった、最も重要な掟なのです。マタイによる福音書では、ここで終わっているのですが、マルコによる福音書では、質問した律法学者とイエス様の会話が続き、そこには心からの信仰の交わりがあるのです。マルコ12章32節から34節を読んでみるとこう書かれています。
12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。
12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
12:34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
このように、宗教的指導者たちの三つの質問が終わると、今度はイエス様が質問をしました。それは、「キリストとは誰か」と言う、信仰者にとっては、根源的な質問でした。41節と42節です。
マタ 22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
マタ 22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
イエス様の質問は、ファリサイ派の人々が集まっている中で行われました。イエス様は、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」と言う質問でした。メシアとはキリストの事です。この質問は、すでに何度も問われており、誰でもが知っている常識的な答えがあったのです。その答えを、ファリサイ派の人々は答えました。それは「メシアはダビデの子です。」と言う答えなのです。イエス様を、ダビデの子よ、と呼びかける病にある人々が多くいました。それは、イエス様を救い主、キリスト・イエスと認めた呼びかけなのです。ですがファリサイ派の人々はイエス様をダビデの子とは思っていません。イエス様はさらに質問をしました、43節から46節です。
マタ 22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
マタ 22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
マタ 22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
マタ 22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
イエス様の質問は、ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか、メシアはダビデの子ではなくてダビデの主なのではないかと言う質問なのです。すなわち、メシアはダビデの子ではなくて、神の子ではないのか、ということなのです。人々がメシアをダビデの子と呼ぶときに、そのメシアとは、政治的、軍事的な力を意味していたのです。新しいユダヤ人の国家をつくる救世主と言う意味なのです。ですが、メシアがダビデの子ではなくて、神の子となると、それは、神の愛を現す救い主となるのです。イエス様のこの問いかけに誰も答えることが出来なかったのです。そしてその日から、もはやあえてイエス様に質問するものはなくなりました。イエス様を陥れるために質問しても、かえって自分たちの愚かさを現してしまうことになってしまったからです。
結
これで、イエス様とユダヤの宗教的指導者たちとの論争は終わりを告げました。ですがユダヤ人たちはその敵意を、いつかイエス様を殺そうと言う思いに変えていったのです。この論争を見ていて思うのは、パリサイ人たちにしろ、サドカイ人たちにしろ、天の国の出来事とこの世の事とを同じ次元でとらえていて、そこに矛盾を感じていると言うことです。パリサイ人たちの税金の話は、そのお金を皇帝に納めるべきか神様に納めるべきかと綱引きをします。ですがイエス様は皇帝のものは皇帝に神のものは神に返しなさいと言います。次元が違う話だと言うのです。サドカイ人たちの復活の論争にしても、復活してもこの世と同じように結婚したり夫婦になったりすると思っているので、矛盾が生じますが、イエス様は復活の世界はこの世の世界とは違うものであるとはっきりと言いました。私達もまた、神の国や天国をこの世の延長のように考えているところがあります。ですが、そこは全く次元の違う世界であることを理解すべきです。
そしてそんなことよりも大切なのは、神を愛し隣人を愛することです。私たちは、神様を本当に愛し大切にすること無しに、隣人を本当に愛し大切にすることはできないのです。この事を教えて下さったのはダビデの子キリストではなく、神の子キリストなのです。そこには神の愛があふれているのです。神の愛によって、治められている世界そこが天国であり、神の国なのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。今日もこの学びを続けることが出来ましたことを感謝いたします。今回は、いろいろな事情でちょっと無理かなと思ってしまいましたが、あなたが導いてくださって、今日の学びを続けることが出来ました。感謝いたします。私たちが、この世の事と、神の国の事を混同することなく、神様を第一とし、神様の御心に委ねて生きることが出来ますように。イエス様の教えて下さる御言葉を信じて生きるものでありますように。何よりも、神様を愛し大切にしていくことが出来ますように。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆復活についての問答
マタ 22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
マタ 22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
マタ 22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
マタ 22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
マタ 22:27 最後にその女も死にました。
マタ 22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
マタ 22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
マタ 22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタ 22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
マタ 22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
マタ 22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
◆最も重要な掟
マタ 22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
マタ 22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
マタ 22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
マタ 22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
マタ 22:38 これが最も重要な第一の掟である。
マタ 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
マタ 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
◆ダビデの子についての問答
マタ 22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
マタ 22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
マタ 22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
マタ 22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
マタ 22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
マタ 22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。