家庭礼拝 2015年9月2日マタイ21章1‐22エルサレムに迎えられる

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起 

 いよいよイエス様は、最終段階へと進まれます。エルサレムへと入られるのです。このイエス様の生涯の話は大きく4つに分けられるかもしれません。第一段階は、誕生からガリラヤ伝道の時代。この時代にはイエス様は多くの奇跡と癒しと宣教を広く行い、大勢の人々がイエス様を支持した時代です。第二段階はベルゼブル論争からヘルモン山での変貌までの時代。この時代は、パリサイ人や律法学者から、危険人物として付け狙われ非難され、彼らと論争をし、またそれを避けながら、弟子訓練に集中するようになった時代です。第三段階はヘルモン山でイエス様のお姿が変わり、イエス様の使命をモーセとエリヤに確認してからの時代です。イエス様はここではっきりと、自分の使命を自覚し、死んで復活することを弟子達にも語り、エルサレムに向かうのです。そして最終段階、すなわちエルサレム入城から十字架刑と復活が行われる段階です。この最終段階のためにすべては準備されてきました。

イエス様の生涯はほとんど誤解だらけです。それは民衆にも、パリサイ人や律法学者たちにも、そして弟子達にもほとんど誤解されていたと考えてもいいのです。私達はすでに新約聖書を読んでおり、聖書研究も充分しているので理解しているだろうと思ってしまうのですが、私達もまた、誤解している人々の仲間なのです。多分イエス様を少しでも理解した人たちの仲間と言うのは、罪人として虐げられていた人々であり、病や苦しみの中で、社会から抹殺されそうになっていた人々なのです。イエス様は常にそのような人々の側に立っていたので、そのような人々の側に本当に立つことの出来ない私たちは、イエス様の事をなかなか理解できないのです。教会の中にあって、きれいな信仰を持とうとしている限り、イエス様は理解できないのです。実はイエス様自身が、生まれた時から罪人とされ虐げられ、社会から抹殺された人だからなのです。

ですがイエス様は、自分と同じようなその様な人々を救うために、そして神様の本当の愛を示すために、そのような誤解だらけの中をあえてエルサレムへと向かうのです。それは命を捧げてでも、そのような状況の中で苦しんでいる人々を救いたい、神様の愛を伝えたいと思ったからなのです。

そしていよいよエルサレムに入ります。この時期は過ぎ越しの祭りの行われる時で、世界中から大勢の人々がエルサレムに集まり、ごった返しており、多くの生贄の羊がささげられていました。イエス様はその時にエルサレムに入ることを計画されていたのです。1節から3節です。

マタ 21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

マタ 21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。

マタ 21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」

イエス様たちは、エルサレムのすぐ近くの町ベトファゲに来ました。近くにはオリーブ山がありました。このベトファゲはマルコによる福音書ではベタニアとなっているので、イエス様の友人がたくさんいたベタニアの近くではなかったのかと言われています。するとイエス様は、二人の弟子を使いに出して、こう言われました。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と言ったのです。イエス様は向うの村に行きなさい、と言いましたが、この村がベタニアかもしれません。そして今いる、その手前がベトファゲかもしれません。イエス様は村に入るとすぐ、親子のロバがつないであるのでそれを私のところまで引いてきなさい、と言ったのです。驢馬は一匹ではなく親子の2匹なのです。エルサレム入城の絵などを見てみると、ほとんど驢馬は一匹しか書かれていないので、一匹かと思ってしまいますが、実は子ロバもいるのです。よく見ると2割くらいの絵に子ロバがほんのちょっと目立たないように書かれているので、気が付かない方が多いのです。イエス様は、ロバを引いてくるときに、誰かに何かを言われたら、「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と言いなさい、とその段取りが出来ていることを教えたのです。

どうしてロバを引いてくるように言ったのでしょうか。馬ではいけなかったのでしょうか。実はロバと言うのは平和の象徴であり、馬は戦争の象徴なのです。ですから、預言書にもこう書かれてあったのです。4節から7節です。

マタ 21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

マタ 21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

マタ 21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、

マタ 21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

ロバに乗って王様がエルサレムに入ることは、預言書に預言されていることなのだと言うのです。この王様と言うのは、イエス様の事です。そしてシオンの娘と言うのはエルサレムの人々の事です。そこには『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』と書かれていると言うのです。この予言では、子ロバに乗ってくるように書かれています。ロバでは戦争はできません。ましてや子ロバでは、戦いに何の役にも立たないので、平和の時にしか使えないのです。その子ロバに乗って、お前の王様がやって来ると、預言されているので、イエス様は、その予言に従って驢馬に乗って行くのです。

弟子達はイエス様に言われた通りにして、ロバと子ロバを引いてきました。そしてエルサレムに向かったのです。6節から9節です。

マタ 21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、

マタ 21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

マタ 21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

マタ 21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 イエス様が親ロバに乗ったのか、子ロバに乗ったのかはハッキリとは書かれていません。多くの絵では親驢馬に乗っており、子ロバは一緒についてくるだけです。その驢馬に乗って、エルサレムに行く途中、イエス様の周りにいた人たちは前にいるものも後ろに従うものも皆、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んだのです。ホサナと言うのは「今救いたまえ」と言う意味です。ですがこのような呼びかけに使う場合は、日本語での万歳と言う意味と同じです。ダビデの子万歳、いと高き方に万歳と叫んだのです。大勢の人々は道に自分の服を敷き、またある人々は木の枝を切って道に敷いて、ホサナと叫びつつ、王である方を歓迎して迎え入れたのです。

イエス様がエルサレムに入られると人々は驚きました。10節と11節です。こう言ったのです。

マタ 21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。

マタ 21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

このように、エルサレムの人々はその騒ぎに驚いて、ある者は、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒ぎ、知っている人々は「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」といって、教え合ったのです。パリサイ人や律法学者から命さえ狙われていたイエス様は、何とこのように、正面から堂々と入ってきたし、人々の関心を強く集めたので、イエス様の命を狙っていた人々も手を出す事は出来なかったのです。

 イエス様はエルサレムに入って、何をしたのでしょうか。まず境内に入って宮清めをしたのです。そこには祭りのために大勢の人々が商いをしていました。12節と13節です。

マタ 21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

マタ 21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

 イエス様は、エルサレムに入って、まず神殿の境内に入りました。一番外側には異邦人の庭と言われる場所がありました。ここには異邦人も含めて誰でも入れる場所です。ですが異邦人はこれより先に入ることはできません。入ったら殺されてしまいます。次の場所は婦人の庭です。ここにはイスラエル人なら、男でも女でも誰でも入れるのです。その次はイスラエルの庭です。ここは女性は入れず、男性たちが礼拝をする場なのです。犠牲はここで捧げられます。そして一番奥は祭司の庭となっており、祭司だけが入ることが出来ました。そしてさらにその奥が神様が居られる至聖所となります。

 イエス様が宮清めをした場所は、異邦人の庭になります。神殿境内の半分以上はこの異邦人の庭であり、日本の神社の境内の様に広い場所となっています。そこで両替人や鳩を売る者達が立ち並び、旅をしてエルサレムにやってきた人々に両替をしたり鳩を売ったり生贄の羊を売ったりしていたのです。ですから、神殿と言っても商売の声と雑踏とで、静かに祈ることなどできないような状態なのです。それでも異邦人たちはここでしか祈れないので祈っていました。イエス様はここに入って来て、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたのです。そして言ったのです。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言って追い出したのです。

 神殿は祭司達や祭司長が管理しています。その利益も彼らが自分たちのものとしていたのです。商売人たちは、自分たちの利益を得るために法外な値段で商売をしていました。神殿で売られる鳩の値段は外で売られているものの10倍以上もしました。でも神殿で買ったものしか、神殿にささげる生贄として認めてもらえませんでした。そのように、旅人や貧しい人々を困らせ、神殿本来の働きを汚している、このような商売人たちをイエス様は憤って追い出されたのです。そして「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言ったのです。イエス様は強盗のように自分の利益を得ようとする人々を強盗の巣と言い、神殿は祈りの家と呼ばれるべきであると、聖書を引用していわれたのです。

このような宮清めをすることが出来るのは預言者であると言われていました。ですから祭司長たちや律法学者たちが黙って見ているはずはなかったのです。

 イエス様がこのようにして宮清めを行うと、イエス様のもとに集まって来る人々がいました。それは癒しを求める人々でした。14節から27節です。

マタ 21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

マタ 21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、

マタ 21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

マタ 21:17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

 イエス様はそれらの目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので、癒されました。これらの人々は、本当に癒しを求めて、いつも神殿に来ている人々だったのです。イエス様のこの様な不思議な業を見て、多くの人々は驚き神様を賛美しイエス様を賛美したのです。その事は聖書の中でははっきりと語られていないのですが、境内で子供たちまでが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたのです。それはイエス様がエルサレムに来られるときに群集が叫んでいた言葉であり、その言葉が神殿の中でも叫ばれていたのだと思います。だから子供までも真似をして、ダビデの子にホサナと叫んでいたのです。

 ですがそれを見ていた祭司長たちや律法学者たちは、そのことが神様を冒涜するものと考えて、腹を立てました。そしてイエス様に、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」と言って文句を言ったのです。するとイエス様は聖書の言葉を引用して、「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」とたしなめられました。聖書では、幼子や乳飲み子でさえ、メシアを賛美する歌を歌うと言うのに、あなた方はそれすら知らないでいるのかと非難したのです。それからイエス様は都を出て、すぐ近くの友人のいるベタニアに行ってそこに泊まったのです。

 次の日朝早く、イエス様はまたエルサレムに戻られました。その途中でイエス様は空腹を覚えられたのです。すると道端にイチジクの木があって葉が繁っていたのですが、実がなっていなかったのです。するとイエス様は「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった、というのです。

 この話はイエス様にしては変だなと思わされる話です。一つは、その季節でもないのに実がならないからと言って呪って枯らしてしまうと言うのは理不尽です。もう一つはイエス様はご自分のために奇跡を用いることはしなかったのに、ここでは自分の思い通りにならなかったイチジクに呪いをかけて枯らしてしまっていると言うことです。この事をどのように理解したらよいのでしょうか。いろいろな注解書を見てもあまり納得感のあるものはありません。このイチジクをブドウなどと同じようにイスラエル全体とみる見方もあります。すなわち、イエス様は実りの無いイスラエルを見限ったとみることもできるのです。それでもイエスさまらしくないのです。

この話を呪ったと言っている限り難しいのではないかと思うのです。むしろ過越しの祭りの4月にイチジクに葉が茂っているのがおかしいのです。イチジクは夏に葉が茂り、果実は9月になると熟するのです。それが4月になって葉が茂っているのは何か病気の兆候のようにも思われます。イエス様が「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたと言うのですが、私には「今から後いつまでも、お前には実がならないだろう」と診断されただけだったのではないかと思います。その診断の通り、木は枯れてしまったのです。その事を弟子達は、イエス様が呪って枯らしてしまったと受け取り、別の話の山を移すほどの信仰の話と結びついたのではないかと考えています。むしろ大切なのは22節で語られているように、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と言うことではないでしょうか。イエス様がイチジクの木を呪って枯らしたと言うのはそれを強調するあまりに誤解してしまったのではないでしょうか。私たちはイエス様の教えて下さった。信じることの大切さをしっかりと覚えていきたいと思います。

 イエス様はついにエルサレムに入りました。そして神殿にも入りました。ファリサイ派の人々や律法学者たちは騒ぎが起こるのを恐れて手を出せませんでした。イエス様は神殿では宮清めを行って、両替人や鳩を売る商売人たちを追い出されました。そして、神殿は祈りの家と呼ばれるべきであると言ったのです。イエス様の活動の目的は、信仰を本来のものにしようとしたことです。本当の神様の愛を示すために、口伝律法でがんじがらめにされている人々を解放しようとしました。神様の愛は貧しい人苦しむ人罪人に向けられており、金持ちや権力のあるものに注がれているのではないことを言ったのです。そして神殿もまた、祭司長たちが利益を得る場所ではなく、祈りの場所となって、神様との交わりを得る場所であると、本来のものに戻そうとしたのです。イエス様はキリスト教を作ろうとしたのではなく、ユダヤ教を本来の神様を中心とした信仰に戻そうとしたのです。神様の愛を示そうとしたのです。これもまた、私たちが誤解してはいけないことです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちも長い間信仰生活をしていると、日々の信仰生活が正しいものであり、常識的な信仰生活に埋没してしまいます。ですが、イエス様は私たちに本来の信仰に戻るようにと示されました。神様の愛が小さいものに注がれていることを示そうとしました。イエス様の活動は宮清めであり、信仰の清めです。神様が誰を祝福しているかを示そうとしたのです。宮清めをした後で、集まってきたのは目の見えない人、脚の悪い人々でした。イエス様はそのような人々の友となって癒し続けたのです。私たちは、イエス様が本当になさろうとしたことを謙遜に受け止めることが出来ますように。私たちの願いをかなえるために、イエス様は教えを下さったのではなく、私たちが互いに愛し、隣人を大切にし、神様を大切にするようにと教えて下さった事を心に止めることが出来ますように。自分の持っている信仰を良しとする事ではなく、イエス様に御心を訪ねていくことが出来ますように。

この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆エルサレムに迎えられる

マタ 21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

マタ 21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。

マタ 21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」

マタ 21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

マタ 21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

マタ 21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、

マタ 21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

マタ 21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

マタ 21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

マタ 21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。

マタ 21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

◆神殿から商人を追い出す

マタ 21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

マタ 21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

マタ 21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

マタ 21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、

マタ 21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

マタ 21:17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

◆いちじくの木を呪う

マタ 21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。

マタ 21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

マタ 21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。

マタ 21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。

マタ 21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」