家庭礼拝 2015年8月26日マタイ20章17‐34ヤコブとヨハネの母の願い
賛美歌361 この世はみな 聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌377神は我が砦
起
先週は、イエス様は天国とはこのようなものであると言って、ぶどう園とその主人の話をしました。天の国では、先の者もあとの者も等しく神様の憐れみを受けることが出来ると言うことです。それは、自分が何か良いことをしたから、良いものをもらえる権利があると考える、人間の世界とは違うと言うことを言いました。このような話のきっかけになったのは富める青年の話からでした。この青年は金持ちだったのでイエス様に言われたように、それを貧しい人に分け与えてイエス様に従って行くことが出来なかったのです。イエス様が金持ちが天国に入ることはなんと難しい事かと言った時、ペトロが私たちは何もかも捨てて従ってきました。では、私たちは何がいただけるのでしょうかと、聞いたのが発端でした。
このように、ここの一連の話は天の国のつながりで話は続いています。今日の話もそれに関係してくるのです。イエス様がご自分の死と復活の話をしても、一部の弟子達は、イエス様が死んでしまうと言うことが実感できず、自分たちの地位の事を考えて、そのお願いに来たのです。自分たちが天の国にあっても偉いものでいることが出来るように、お願いしたのです。ですが、イエス様の、その偉いものとは私たちの理解する偉い人とは違っていました。どのように違っていたのかを聖書の中から聞いてみたいと思います。
承
イエス様がぶどう園の譬えを用いて、天の国の事を話した後の事です、イエス様はエルサレムに向かって歩いているときに本題に入りました。それはイエス様が死んで復活すると言うことでした。17節から19節です。
マタ 20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
マタ 20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
マタ 20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
イエス様は、これまでも2度、死んで復活する話をしていますが、まだその事を理解できる弟子はいませんでした。イエス様の死は、死んで終りではなくその後に復活が続くことが大切な事です。そしてそのイエス様を信じる私たちも死んだのち復活するのです。たとえ死んでも復活するとはっきりわかっていたら、死ぬことはどのような意味を持つでしょうか。復活するとき、また皆に出会うことが出来るのでしょうか。死んだ人は天国に行くのでしょうか。ですがイエス様の天の国の話を聞いていると、そこは死んだ人が行く国とは思えません。たとえ生きていようと死んでいようと、神様を信じて生きる人の国が、天の国のようです。だから永遠の命なのです。
イエス様はこの大切なことを、12人の弟子だけに話されました。そしてどのように死ぬのかまで具体的に話されたのです。それは、「イエス様がエルサレムに行くと、祭司長たちや律法学者たちに捕えられ、引き渡されて、死刑を宣告する。そしてその後、異邦人すなわちローマ兵に引き渡されて侮辱され、鞭うたれ、十字架につけられて殺される。そして三日後に復活する。」と言うことでした。これはまさしくその通りに実現したのです。イエス様はすべてを見通されていました。死んで復活するところまで具体的に見通されていたのです。
転
そのような、厳粛な話をされているときに、何を勘違いしたのかヤコブとヨハネの母は、イエス様にとんでもないお願いをしたのです。これはペトロがイエス様の天国の話を聞いて、私たちはすべてを捨ててきたので、天国では何をいただけますか、と言った以上のとんでもない話です。イエス様の事は何も考えていないのです。何を言ったのかと言うと20節と21節です。
マタ 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
マタ 20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
ゼベダイの息子たちと言うのはヤコブとヨハネの事です。その母親が、二人の息子と一緒にイエス様のところに来てひれ伏してお願いしたと言うのです。イエス様が「何が望みか」と言われると、その母親は、王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と言ったと言うのです。すなわちイエス様が王様になった時二人の息子を右大臣と左大臣にしてくださいと言ったのです。イエス様の次に偉いものにしてくださいと頼んだのです。
この話は、最初に書かれたマルコによる福音書では、母親ではなく、ヤコブとヨハネが直接イエス様にお願いしているのです。ですがマタイによる福音書が書かれたころは、ヤコブは殉教しており、ヨハネは聖人と称えられるほどの人になっていたと思われるので、その人たちがこのようなヒンシュクを買うことをしたと言うのでは、信徒につまづきを与えてしまうのではないかと言う配慮からか、イエス様にお願いしたのはその母親であると言うことにしているようです。
この二人はイエス様の王座というものをどのように理解していたのでしょうか。この世の国の王座ではなく、天の国の王座であると理解してその左右に座らせてくださいと言ったとすれば、それはそれですごい信仰心であると思います。この世の国の大臣になりたいと思っていたとすれば、イエス様の教えとはだいぶかけ離れたことになってしまいます。そこのところは良く分かりませんが、この二人は安易な気持ちではなく、相当の覚悟のうえで言っていることだけは分かります。それは22節と23節に書かれています。イエス様はこう言われたのです。
マタ 20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
マタ 20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
イエス様は、二人に「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と言ったのです。ヤコブとヨハネは、この世であろうと、天の国であろうとイエス様の次に偉いものとなりたかったのです。たとえ死ぬことがあったとしてもそうなりたいと思ったのです。ですがそのことが何を意味するのかは自分達でも良く分かっていなかったのです。それでイエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と言ったのです。イエス様が言った私が飲もうとしている杯とは何でしょうか。それを呑むとは何を意味するのでしょうか。これはイエス様が受けようとしている、苦難や死を意味します。それを呑むとは同じ苦難や死を自分も受け入れることを意味します。イエス様にこのように、その杯を呑むことが出来るかと問われて、二人は即座に「できます」と答えたのです。この二人は相当の覚悟でこの事を言っているのです。二人は既にこの事を話し合っていたのです。決して軽い気持ちでこの願いをイエス様に言っているのではないのです。するとイエス様はこう言われました。23節と24節です。
マタ 20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
マタ 20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた
イエス様は、二人の覚悟を知って、二人がどうなるかを告げました。それは「確かに、あなた方は私の盃を呑むことになる。」と言う言葉です。二人はイエス様の苦難と死とを受け取ることになるのです。ヤコブは、最初の殉教者として殺されました。ヨハネは、信仰者として長い年月を生き、多くの苦難を経験し最後までイエス様の苦難の道を歩みました。これが二人が飲むべき杯だったのです。ですがだからと言って、二人を右と左に座らせようとは言いませんでした。「そこに誰が座るかは、私の決めることではない。それは私の父によって定められた人々に許されるのだ。」と言ったのです。イエス様はこの世でのことは罪を赦すことまですべて神様に委ねられましたが、天の国の事は神様が決めることなのです。それは私の父のよって定められた人々に許されると言ったのです。天の国の事を人間が、こうでありたい、こうなりたいなどと言うことは許されないのです。天国で幸せになりますようにとも祈ることはできないのです。天の国の事はすべて神様が定めておられることなので、私たちはただそれを受け入れるだけなのです。
聖書では、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と書かれています。なぜ他の十人は腹を立てたのでしょうか。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、腹を立てたのはその人たちも同じ考えをもっていて、出し抜かれたと思うからです。私たちも当たり前だと思うのは同じ考えを持っているからです。出し抜いた人も出し抜かれた人もイエス様から見れば的外れな話でした。そこでイエス様は12弟子全員を集めてこう言ったのです。25節から28節です。
マタ 20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
マタ 20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
マタ 20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
マタ 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
ここに私たち自身も、分かっているようでわかっていない、「偉くなる」と言うことの意味をイエス様はこう語っています。いったい何が偉い事なのかどうすれば偉くなれるのかを教えているのです。それは、イエス様はこう言ったのです。「異邦人の間では偉い人と言うのは権力をふるい人々を支配する人たちが偉いものと言われている。だがあなたたちはそのような偉い人になってはいけない。あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕えるものになり、一番上になりたいものは、皆の僕になりなさい。」と言ったのです。
イエス様の教えを信じない人々にとって、偉い人と言うのは人を従わせる人の事を言いますが、イエス様の教えを信じる人々にとって、偉い人と言うのは、人々に奉仕する人の事を言うのです。イエス様の言う偉い人と言うのは善人と同じです。善人とは人々に奉仕する人々なのです。その様な人が偉いのです。奉仕する人々は、奉仕される人々の中にイエス・キリストを見出すのです。
もし私たちが、人々を支配する人を偉い人だと思っているならば、支配される人々の中にイエス様が居られることに気が付かなければなりません。権力によって虐げられている人々の中にこそ、イエス様はいるのです。ですから、私たちは、偉いものになるために人々に奉仕し、その中にいるイエス様に奉仕するものとならなければならないのです。イエス様もまた、この世に来たのは人々に奉仕するためであり、その命をも捧げて奉仕するために来たのだと言っているのです。だから、偉くなりたいものは、人々に奉仕するものとならなければならないのです。権力を持つものにあこがれてはならないのです。
さて、このような事があった後、一向はエリコの町を出ました。すると大勢の群集がイエス様に従ってきました。その時ある出来事が起こりました。30節と31節です。
マタ 20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
マタ 20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
二人の盲人が必死になってイエス様に叫んだのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。二人は目が見えないのでとにかく、大きな声で叫んでイエス様が気が付いてくださるのを願ったのです。周りの人たちはあまりうるさいので、二人をしかりつけて黙らせようとしましたが、黙りませんでした。必死になって憐れんでくださいと叫んだのです。この憐れみを求める声にイエス様はとどまりました。イエス様は憐れまれる方なのです。私たちが真剣に憐れみを求めるとき、イエス様は立ち止まって下さるのです。その様に必死になってイエス様に憐れみを願い求めるならばイエス様は聞いてくださるのです。32節から34節です。
マタ 20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
マタ 20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
マタ 20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
イエス様は立ち止まって、「何をしてほしいのか」と言われたのです。すると二人は、「主よ、眼を開けていただきたいのです」と言いました。イエス様は深く憐れんでその目に触れ、癒されたのです。癒された人はそれで新しい仕事を始めたと言うのではなく、イエス様に従う人となったのです。この二人は、もしかするとイエス様に従いたいために、イエス様のお役に立ちたいがために必死になって叫び、眼を開けていただきたいのですと言ったのかもしれません。ただ自分の生活をよくするためにではなく、この人々もまた、仕えるために、その願いを求めたのかもしれません。
結
私達は向上心を持って努力し、偉いものになりたいと思っていますが、その偉いものとは何なのでしょうか。ひとかど優れたものになって尊敬を集めたいとか、裕福な生活をしたいとか、有名になりたいとか、そんな気持ちを持ってはいないでしょうか。ですがイエス様の教える偉いものとは、人に仕えるものなのです。どんなことがあっても人に仕え相手に善いことをしていくものが天の国では偉いものであり、イエス様の喜ばれる偉い人なのです。ですから、イエス様の右と左に座る人は私たちにはとても想像もできないような人々なのかもしれません。私達もまた、弟子たちと同じように偉いものになりたい、と願っているものですから、イエス様が教えて下さったように、仕えることによって偉いものとなることが出来るようにと願うものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちは何もわからずに偉いものになりたいと思い、いろいろな努力を重ねていますが、あなたの求められる偉い人は人に仕える僕となる人です。イエス様自身もそのような方として、この世にあらわれてくださいました。しかもその命さえも捧げて仕えてくださいました。神様どうか、私たちも、心を入れ替えて、少しでも人に仕え貢献できるものとなることが出来ますように導いてください。自分の出来る小さなことから今すぐにでも行うことが出来ますように。イエス様に似たものとして、奉仕するものとなることが出来ますように。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆イエス、三度死と復活を予告する
マタ 20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
マタ 20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
マタ 20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
◆ヤコブとヨハネの母の願い
マタ 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
マタ 20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
マタ 20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
マタ 20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
マタ 20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
マタ 20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
マタ 20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
マタ 20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
マタ 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
◆二人の盲人をいやす
マタ 20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
マタ 20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
マタ 20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
マタ 20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
マタ 20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
マタ 20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。