家庭礼拝 2015年8月19日マタイ20章1‐16ぶどう園の労働者のたとえ

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起 

イエス様は、天の国について沢山の譬え話やそれに関する話をしました。イエス様の教えとは、天の国についての教えであると言ってもいいかもしれません。天の国と言うと、私たちのイメージにある天国と地獄の、天国すなわち極楽と言ったイメージとは全く異なります。ですからそのようなイメージ、天国を極楽のイメージで見ようとすると、イエス様の教える天の国の話は何とも分かりずらい話になります。イエス様が、何度も繰り返して教えようとした天の国とはいったいどのようなものであったのでしょうか。この事を知ることがイエス様の教えを知ることであり、信仰の核心ともいえます。

イエス様の天の国についての話が増えるのは、ベルゼブル論争以後です。イエス様の教えを受け入れようとせず、それどころか、イエス様をベルゼブルの頭だと言うようなことまで言って、イエス様を拒否しようとする姿勢に、イエス様が、見切りをつけ始めた時からです。イエス様は譬え話を用いて、天の国とはこのようなものである、と言って、天の国について話されました。

そして、最近学んでいる聖書の箇所では特に天の国の事についての話が多くなっています。それは、ヘルモン山でのイエス様のお姿が変わってから、特に多くなっているのです。イエス様が弟子たちに、天の国について正しく理解できるように多くを語り、また聞いている聴衆たちにもそのことが分かるように話をされたのです。イエス様は、もう3度も死と復活の話をしています。イエス様はご自分の命がもうすぐなくなることを意識して、このような天の国の事を、まるで遺言の様に信じる者たちに教えているのです。私たちはその事を心して受け止めなければなりません。

今日の話もまた、ブドウ園の労働者の譬えを話していますが、これもまた天の国の譬え話です。この話は前の章の話を受けています。すなわち、イエス様が金持ちの青年の話をした後、金持ちが天の国に入るのは難しい、と言った時に、ペトロが「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では私たちは何をいただけるのでしょうか。」と言われたことに対する答えでもあるのです。その時イエス様はペトロを、何を考えているのだと叱ることもせず、イスラエルの12部族を治めることになり、百倍もの報いを受けて、永遠の命を受け継ぐ、と答えました。そして最後に語ったのは、「しかし、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になる。」と言ったのです。この言葉は何を意味するのかは分かりずらいのです。イエス様はこの言葉を分かりやすく説明するために、今日の聖書の箇所のぶどう園の労働者の譬えを語ったと言っても良いのかもしれません。

さて、イエス様はその天の国の譬えを語りました。長い譬え話ですが、文脈を切らさないように前半部分を、一気に読んでみます。1節から7節です。

マタ 20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

マタ 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

マタ 20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

マタ 20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

マタ 20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

マタ 20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

マタ 20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

イエス様は天の国の事を譬えて話されました。イエス様の語る天の国とは、天国極楽の国の事ではありません。神様の居られる国の事です。その国を譬えて、ブドウ園の主人の事を話しているのです。この主人こそは、神様の事を言っているのです。ブドウ園が神の国です。そしてぶどう園で働く労働者こそ、私たち信仰者の事なのです。ですがそこにはいろいろな労働者がいるように、いろいろな信仰者がいるのです。その信仰者に対する神様の態度はどのようなものであるかと言うことが今日のテーマになるのです。

このぶどう園の主人は、葡萄の収獲のために働く労働者を求めていました。この事は、天の国では神様が、人々の魂の救いの収穫のために働く、働き人を求めていると言うことです。神様は、天の国で、のんびりと楽しく過ごす人を招いているのではなく、神の国の収穫のために、神様と共に働く人を招いており、そこで働くことが私たちの救いにも喜びにもなると言うことです。

ぶどう園の主人は夜明けに出かけて行って、最初の内は労働者達と働くための契約をして、一日一デナリオンと言う約束で、ブドウ園で働いてもらったのです。この1デナリオンと言うのは当時のユダヤの社会での一日分の日当として、リーズナブルなものなのです。この箇所もタダ読み過ごしてしまいそうですが、ここにもいろいろと隠された意味があります。すなわち、この最初に招かれて契約しぶどう園で働いた人々と言うのは、ユダヤ人たちが、神様に招かれ神の民とされ、律法を与えられて、神様に従ったと言うことを言っているのです。このユダヤ人たちは、このように、神様と取り決めをして契約をした人々だったのです。そして、ユダヤ人たちは神様の律法を守って、せっせとまじめに働いてきたのです。

ユダヤ人の一日は、朝の6時に始まり、夕方の6時に終わります。それから先の夜は次の日となります。9時、12時、3時、の3回が祈りの時間と言われています。まじめな信仰者はこの3回の祈りの時間を守っているようです。それを示唆するかのように、このぶどう園の主人は夜明けと、9時と12時と3時と夕方にブドウ園で働く労働者を探しに行っているのです。それはこの時間に仕事を求めて、一日の糧が与えられるようにと祈っている人々の祈りに合わせているかのようです。それで、このぶどう園の主人は9時と12時と3時に広場に仕事を求めて立っていた人々に『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言ったのです。この人々には最初の人々の様に契約したのではなく、口約束で、ふさわしい賃金を払ってやろうと言ったのです。そこに呼び集められた労働者は、いくらもらえるのかはわからなかったのですが、少しだけでも貰えれば助かると言う思いで、そのぶどう園で働いたのです。

そしてその一日が終わろうとしている5時ごろ再び行ってみると、まだそこには仕事を求めて待っている人々がいたのです。そのぶどう園の主人は『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言ったのです。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言ったのです。

この夕方になっても広場に立っていた人たちは、何もしないで一日中そこに立っていたのではないのです。何時雇ってもらえるかと思いながら辛抱強く待っていたのです。もう夕方ですから働いても、ほんのわずかの報酬しかもらえないに決まっていても、それでもあきらめることなく、少しでも働けるチャンスを待っていたのです。ぶどう園の主人が声をかけてくれたとき、その事を話して、「だれも雇ってくれないのです。」と答えました。すると、そのぶどう園の主人は「あなた方もぶどう園に行きなさい」と言いました。さてそれからどうなるのでしょうか。誰もが常識的に思うのは、長く働いた人は、短く働いた人よりも多くの報酬をもらえるだろうと思うことです。それが公平である、ということだと考えるのです。ですが、このぶどう園の主人、すなわち天の国の神様は違ったのです。ここでもう一度この色々な労働者の事を振り返って確認してみると、最初に呼び集められた人々と言うのは、ユダヤ人たちの事です。そして9時、12時、3時、5時と違う時間に呼び集められたのは異邦人たちや罪人たちで、それぞれが、違う時代、違う状況で神様を知ることになったことを表しています。そして、5時に集められた人々と言うのは、終末に近いときに神の国へと招かれた人々です。これらの人々にどんな違いが出てくるでしょうか。

 さていよいよ、ブドウ園の主人が一日の仕事が終わった報酬として、賃金を払うときがやってきました。この主人はどうしたでしょうか。8節から16節です。

マタ 20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

マタ 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

マタ 20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

マタ 20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

マタ 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

マタ 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

マタ 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

マタ 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

マタ 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 このぶどう園の主人は、最後に来たものから賃金を支払っていきました。5時から6時まで1時間しか働かなかったものにも、途中から来たものにも、皆1デナリオンずつ支払いました。この人たちは、いくらもらえるとの約束がなかったのですが、途中から来ても一日分の賃金に相当する1デナリオンをもらって、喜んだと思うのです。ところが最初から来ていた人たちは、途中から来た人たちが1デナリオンもらっているのだから、もっと働いた自分たちはもっと余計にもらえるだろうと期待していました。ところが彼等も同じ、1デナリオンだったのです。それで、それでは不公平ではないか、自分たちは一日中暑いところで働いたのに、涼しくなって1時間しか働かなかったものと同じであることは不公平であると文句を言い始めたのです。これは当然常識的で、人間が考える公平と言われるものを基準とするとそうなるのです。

 ところがぶどう園の主人はこう言いました。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』と言ったのです。さて皆さんは、このぶどう園の主人のしたことは公平ではないと考えるでしょうか。確かにこのぶどう園の主人は、最初に来た人たちとはきちんと契約して、1日働いたら1デナリオンと約束しているのだから、何も悪いことはしていないのです。ぶどう園の主人は不公平だと考えるのはその、最初に来た労働者たちが、自分たちはもっと多くもらえるだろうと期待したからなのです。それが常識だと自分勝手に判断したからなのです。

 このことが意味しているのは、最初に雇われた労働者たち、すなわちユダヤ人たちは、自分達こそ神様と契約した民であり、ずっと長い間、神様の教えを守っているのだから、神様は自分たちにほかの民たちよりも多くの祝福を与えて下さるに違いないと思っているのです。ところがイエス様が教えているのは、神様の憐れみと恵みとは、早く来たものにも遅く来たものにも等しく与えられる、ということなのです。神様の教えを長く守ったから、多く守ったから多くの報酬が与えられると言うのとは違うのである。ただ神様の恵みとして与えられるものであると言うことを教えているのです。

この事は単にユダヤ人たちの民族意識だけではなく、イエス様の弟子たちでさえもその様に思っているのでイエス様はこの話をしたのです。先週の金持の青年の話のところで、イエス様が、金持ちが天の国に入るのは難しい、と言った時に、ペトロが、「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」とその見返りや報酬を期待したことも同じなのです。自分たちは最初から、イエス様に何もかも捨てて従って来たのだから、当然多くの報酬が与えられるだろうと考えていたのです。また、放蕩息子の話での兄がそうなのです。この兄はこう主張するのです。「自分は父の言いつけをずっと守って来たではないですか、なのになぜ、自分よりも弟の方にこのように恵みを与えるのですか、自分の方にその権利があるではないですか。」と言うのです。ですがイエス様が最後に言ったのは、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になる、という言葉です。自分たちが当然先であり、当然多くのものが与えられるであろうと思っているとそれが反対になるであろうと言うことです。すなわちその様な事は期待してはいけないと言うことなのです。与えて下さるのはただ神様の恵みであって、私たちはそれを喜んで受け取るだけなのです。

 このぶどう園の主人は、不平を言った人々に対してこう言いました。『自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』神様の憐れみは、この最後のものにも最初のものと同じように支払ってやりたいのだ、と言うことなのです。イエス様は、神様がこのように、すべての人を等しく憐れまれる方であって、それに不平を言うものには帰りなさい、と言われる方であると言うのです。すなわち、神様の恵みは異邦人たちにも与えられものであり、ユダヤ人たちはそれに対して不平を言う権利はないと言うことなのです。そして、罪人にさえも与えられるのです。すべての人が救われるのが神様の御心だと言っているのです。後にいるものとは、異邦人や罪人たちなのです。

そして、イエス様は、ここでも「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と言いました。神様に対して、自分たちの方が権利があると思っている人たちは、後から来たものにその権利を譲らなくてはいけなくなると言うことなのです。ユダヤ人たちは自分達こそが一番最初に救われる民族であると自負していたのですが、実は異邦人から救われて行ってユダヤ人たちの救いは後になると言うことを言っているのです。

 神様の恵みは、自分たちの働きで、与えられるものではないのです。ですから自分たちの働きを示して、当然自分たちに恵みが与えらえるべきであるとその権利を主張することはできないのです。神様は、最初のものにも最後のものにも等しくその救いの恵みを与えたいと願っているのです。私たちはその神様の憐れみと恵みとを信じることが出来るのです。信仰生活が長くなると、自分たちになにがしかの権利があるはずだと思いがちです。教会生活でもそうなのです。イエス様はそれを警告して、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と言われたのです。思い上がることなく、謙遜に神様の恵みに感謝をささげることが大切です。そして神様の憐れみを信じることに信仰の大切さがあるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、私たちが自分たちの信仰の働きをもって、自分たちの権利を主張したり、要求したりすることは、神様の憐れみに反することである事を教えられます。あなたは先の者もあとのものも等しく愛され救われる方です。先に信じるものとなった者も、後から信じるようになったものも、あなたによって等しく愛されています。善いものであったものも罪人であったものも、大きな人も小さな人も皆等しく神様の恵みを受けるのです。どうかあなたの恵みがすべての人の上に豊かにありますように。自分が先のものであると思い違いをすることがありませんように。あなたの御心がなりますように。この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆「ぶどう園の労働者」のたとえ

マタ 20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

マタ 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

マタ 20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

マタ 20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

マタ 20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

マタ 20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

マタ 20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

マタ 20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

マタ 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

マタ 20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

マタ 20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

マタ 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

マタ 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

マタ 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

マタ 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

マタ 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」