家庭礼拝 2015年7月15日マタイ18章1‐14天の国で一番偉いもの
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起
今日の聖書の箇所の小見出しは3つで、◆天の国でいちばん偉い者◆罪への誘惑◆「迷い出た羊」のたとえとなっています。この三つの話は、何と驚くことにすべて、子供すなわち小さなものを扱った話なのです。そしてここで言われていることは、子供のようになりなさいと言うことなのです。そして、子供の様に小さなものを大切にしなさいと言うことです。
子供のようになれとはどうなることでしょうか。良く言われるように、子供のように純真で、無欲なものとなれ、ということでしょうか。子供はそんなに純真で無欲でしょうか。子供がかわいらしいと言う気持ちから理想化してそのように思いたがるところがあるのですが、子供をよく観察すれば、いかに自己中心的でわがままな存在なのかが良く分かります。ではどういう風になれと言っているのでしょうか。まず子供は自分が小さいものであり不十分で、親に依存しないと生きていけないと言うことを知っていると言うことです。その子供が良い子であろうと悪い子であろうと皆そう思っているのです。即ち、子供は、自分が小さいものであると言うことを知っていると言う点で、謙遜であると言うことなのです。大人になって来るとその特質が失われて、不遜になり、傲慢になってきます。なんでも自分でできると思い込んでしまうのです。もう一つは、自分は親がいなければ生きていけないことを知っているのです。それは頭で知っていると言うよりも生存本能で知っているのです。ですからどんなひどい親に対しても、依頼し依存して生きて行こうとします。それは私たちが神様に依頼し依存して生きて行こうと言う姿勢につながるのです。それはある意味生存本能的に知らなければならないのです。ですが、人間は大人になると親から離れるように、多くの人が神様から離れてしまいます。神様がいなくても生きていけると思ってしまうからです。三つめは、子供は親に依頼し依存しているだけではなく、親を信頼していると言うことです。親が自分を助けてくれること、養ってくれること、愛情を注いでくれることを疑うことなく信じ、信頼しているのです。大人になって来ると子供はそれに対して懐疑的になってくることもあるのです。すなわち子供のようになりなさいとは、子供のように小さいものであることを知って、神様のみ前で謙遜に、そして神様に信頼し依存して歩みなさいと言うことなのです。
今日は、最初に結論を語ってしまいました。それはなぜかと言うと、私たちはこの三つの話をそれぞれ別々に独立したものとして理解しているからです。イエス様が私たちに子供のようになりなさいと言った関連の中でこの三つの話を理解していないので、まず、そのイエス様が言おうとしたことを理解したうえで、この三つの話を聞いてみたいと思うのです。
それにしてもなぜイエス様は、こんなにも熱心に子供のようになりなさいと説かれたのかを理解できるでしょうか。ここの場面は、ヘルモン山での変容を経て、いよいよイエス様が十字架を目指してエルサレムに行こうとされているときに当たります。これからの一言一言はイエス様の遺言のような話なのです。弟子達はイエス様の弟子訓練によって、その信仰を深め強めてきました。ですが、なかなか治らない一つの問題があったのです。その問題とは私たちも同じように抱えている問題です。それは本当に謙遜なものとなることが出来ないと言うことなのです。信仰生活が長くなると、知識も、経験も豊富にあって、自分は他の人より良く理解していると言うような、思い高ぶりが出てしまうものです。即ちそのような高慢な思いをイエス様はここで強くたしなめられているのです。クリスチャンにとって、一番ふさわしくないのは高慢なクリスチャンです。反対に一番ふさわしいのは謙遜なクリスチャンです。イエス様は、神の国に入る時に一番大切なものをしっかりと身に着けて天の国に入るようにと私たちを諭しているのです。
承
では聖書に入ります。最初は◆天の国でいちばん偉い者というテーマです。1節から3節です。
マタ 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
マタ 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
マタ 18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
弟子達は一体何を思ってこんな質問をしたのでしょうか。弟子達は不安になっていたのだと思います。イエス様が、死んで復活なさることを3度も言ったので、これはほんとうに何かが起こるのだろうと思ったのです。ですが何が起こるのかはまだよくわからなかったのです。イエス様が本当に死んで天国に行ったとき、自分たちイエス様についてきた者たちはどうなるのだろうかという不安を持っていたのです。そして普通の大人がすぐ考えるように、どちらが良いのだろうかとかどちらが偉いのだろうかと比較し始めるのです。そしてイエス様に、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。こう言う質問をすること自体、自分は少しはましではないのか、正しいのではないのか、偉いのではないのかという思いがあるのです。すなわち高慢な思いがあるのです。ですがこのような思いはイエス様の教えからはずっと遠い考え方です。ですからイエス様は一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせてこう言ったのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
ここで教えている子供のようになると言うのは、先ほど説明したように、純真無垢になると言うことではありません。子供のように、自分の小ささを知っている、謙遜なものになりなさいと言うことなのです。実はこのユダヤの世界では、女子供と言うのは物と同じ扱いで、一人前の人間ではないのです。財産と同じなのです。ですから、子供に対しては、親は絶対的な権威があったのです。ですがイエス様はそのような大人になるよりも、このような小さな子供のようになりなさいと教えたのです。心を入れ替えなさいと言ったのです。それは心の向いている方向を反対にしなさいと言っているのです。能力のある大人が天国でも偉いのではなく、その反対に、子供のように小さな思いを懐いている人にならなければ天国には、入れないと言ったのです。
そしてさらにこう言ったのです。4節と5節です。
マタ 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
マタ 18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
イエス様は子供の様になると言うことがどういうことなのかを教えました。それは自分を低くすると言うことです。すなわち謙遜であると言うことなのです。謙遜なものが天の国では一番偉いのだと言うのです。ですから、人と比較して良いとか悪いとかいう次元を捨てて、自分は神様の前にただ許されたものである、という低い思いを持つことが大切なのです。それに対して、弟子たちが、天国で誰が一番偉いのかというようなまさに正反対の事を目指しているので、イエス様はこの事をしっかりと教えたのです。
この様な小さなもの、謙遜なものは現実にはこの世では無視されるのです。何もいいことがないのです。ですから大人たちは競って、自分を偉いものに見せようとしているのです。そうすれば何か良い待遇で迎えられると思っているからです。ところがイエス様は、このような子供を受け入れなさいと言いました。その意味は、このような小さな者たちに奉仕しなさいと言うことです。それはあなたたちの為でもなく、この小さなものの為でもなく、私の名のためにこのような子供を受け入れなさい、それは私を受け入れることになるからであると言ったのです。何か良いことをするためではないのです。子供たちの為でもないのです。イエス様が小さな者たちを受け入れなさいと言ったから、受け入れるのです。このような小さき者の後ろに、イエス様が見守っておられることを信じて、イエス様の言われたように、このような子供を受け入れなさいと言っているのです。ここで使われている子供という言葉は、普通の意味での子供という意味と、信仰のまだ未熟な求道者と言う意味でも使われていますから、その両方で理解しなければなりません。小さいものとはそういうものなのです。
転
次の小見出しは◆罪への誘惑となって、次の新しい話のように見えますが、ここは一連の話です。先ほどの小さき者を侮って、つまづかせたり、間違った方向へ連れて行こうとする者の報いがどんなものであるかを語っているのです。6節から9節です
マタ 18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
マタ 18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
マタ 18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
マタ 18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
ここの聖書の箇所は、これを単独の話として聞くと、もし人が罪を犯すならばその罪を犯させる原因となるものをどんな犠牲を払ってでも取り除きなさいと言う、教えに聞こえます。ですが、ここは一般的な罪の話をしているのではなく、小さなものを躓かせる罪の事を言っているのです。小さなものを躓かせると言うのは、イエス様の教えをまだ十分に理解していない未熟な弱い求道者を、間違った方向に導くようなことを言っています。これを個人的な問題としてとらえるならば、手や足がつまづかせるならば、それを切って捨て、眼が躓かせるならば、えぐりだして捨ててしまいなさい、と言っています。人を躓かせる原因となるようなものをいかなる犠牲を払ってでも取り除きなさいと言うのです。それは、両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよいからなのです。これは単に個人的な事だけを言っているのではないかもしれません。教会の事を言っているのかもしれません。教会の中でも誰が一番偉いのかというような、この世的な比較がいつも行われています。誰が本当の信仰を持っているのか、などと言うようなことです。本人は、とても真面目にその事を考えているようでも、その事が、新来会者や求道者を躓かせるかもしれません。イエス様は、このような小さいものを受け入れて、奉仕しなさいと言っています。そして、このような小さいものを躓かせるものには大きな報いが与えられるから、そのようなものは取り除きなさいと言っているのです。つまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである、とさえ言っています。この時代の石臼には二種類ありました。女の人が台所で粉を引くための小さな石臼と、驢馬に引かせて回す、大きな石臼とがありました。イエス様が言ったこの石臼とは驢馬に引かせる大きな石臼の事なのです。それほど、小さいものを躓かせる罪の報いは大きいと言うことを言っているのです。
さらに、新しい小見出しの◆「迷い出た羊」のたとえ、に続きます。この話も単独の話ではなく、この小さいものをイエス様がいかに大切になさっているかという関連の中で話されているのです。その出だしはこのような言い方から始まりました。10節です。
マタ 18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
イエス様の有名な迷い出た羊のたとえは、これらの小さなものを軽んじてはいけないと言う文脈の中で語られているのです。先ほども言いましたように、ユダヤの社会では小さなものは、軽んじられるのが当たり前の社会でした。ましてや子供たちは、全く相手にされない世界だったのです。その様な中で、これらの小さなものを一人でも軽んじないように気をつけなさいと言うのは、人々が考えることもできないような予想外の話なのです。どうして軽んじてはいけないのかというと、これらの小さな者たちと共に居る天使たちは、天でいつも神様のもとにいて御顔を仰いでいるからだと言うことなのです。何か軽んじるようなことがあったら、神様がその報いを与えるかもしれないと言うことなのです。
そして、あの有名な迷い出た羊の話をしました。12節から14節です。
マタ 18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
マタ 18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
マタ 18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
この物語にはいろいろな反応があると思います。迷い出た一匹を探しに行くのはいいとしても、残された99匹に危険はないのか、とか、どうして迷わずにいた99匹より、その一匹の事を喜ぶのだ、99匹の方が正しくて、一匹は間違いを犯してしまったのではないのか、とか思うのです。ですからこの物語を理解するにはその文脈の理解が必要なのです。この物語が言おうとしているのは「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」ということなのです。すなわち、天の父は、これらの小さなもの一人一人を大切にし、いつも見守っていてくださる。たとえ迷いだしても、その人の責任だと言って突き放すのではなく、神様自らが探しに出て、見つけると喜んでくださる方なのだ、ということなのです。当時のユダヤ人たちの考えはそうではありませんでした。イエス様の事に対しても、多くのユダヤ人を守るためには、一人の人がみんなのために死ぬのはいいことだ、と言って、イエス様を十字架につけることを勧めたのです。99匹のために、1匹の羊が死ぬことはやむを得ないとしたのです。ですが神様の思いはそうではありませんでした。この一匹のために神様は忍耐強く、探し求めて下さるのです。
この物語のある解釈では、99匹とは自分たちは正しいと思っているユダヤ人で、一匹の子羊とは自分は罪を犯していると認めている小さな罪人であると言うことです。ですがこの小さなものは、神様を見上げているのです。このような小さなものだけが天国に入ることができ、自分が正しいと思っているような人々は天国には入ることが出来ないのだとイエス様は言っているのです。
結
小さな人と言うのは、自分は罪を犯している者であり、神様の許しがなければ、天国には入ることが出来ないと思っている謙遜な人々の事なのです。そして、神様を信じ、神様を頼ってしか生きることが出来ないと信じている人々の事なのです。このような小さな人々をこそ神様は受け入れるものであり、天国では一番偉いものだと言うのです。ですからそのような小さいものをイエス様の名によって受け入れる人は、イエス様を受け入れるものとなり、天国に入るものとなると言うことを教えています。その様な小さいものをもし躓かせるものがあるとしたら、神様は決してその人を赦さず、海の底に沈めてしまうと言い、もしそのような小さなものが迷い出てしまったならば、神様はそのものを探し回って見つけ出してくださるだろうと言うことです。神様の愛は、人間を愛すると言う抽象的なものではなく、具体的な私一人を愛してくださる、探して見つけ出してくださる愛であると言うことなのです。この事を覚えて、神様の愛に感謝を捧げましょう。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、私たちは少し知識や経験を積むとすぐに思い高ぶり、人よりも偉いものになろうとしてしまいます。ですが、あなたはそのようなものを愛するのではなく、子供の様に小さなものであることを受け入れているものを愛してくださり大切にしてくださいます。子供の様になる人が天の国で一番偉いのだと言いました。私たちの思い上がりを、すっかり冷やしてくださる御言葉です。そして私たちには、イエス様の名のために、このような小さなものを受け入れなさい、その者たちに奉仕しなさいと教えてくださいました。私達はなかなか子供の様には、なれません、ですが、小さなもののために、自分を小さくして奉仕することはできるかもしれません。そこにあなたが居られることを信じて奉仕できるかもしれません。神様どうか私たちが、小さき者の中にあなたを見ることが出来ますように。小さき者を決してつまづかせることなく、奉仕していくことが出来ますように導いてください。この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆天の国でいちばん偉い者
マタ 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
マタ 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
マタ 18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
マタ 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
マタ 18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
◆罪への誘惑
マタ 18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
マタ 18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
マタ 18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
マタ 18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
◆「迷い出た羊」のたとえ
マタ 18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
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マタ 18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
マタ 18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
マタ 18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」