家庭礼拝 2015年7月1日マタイ16章13‐28イエス、死と復活を予告する
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起
今日の聖書の箇所は、フィリポ・カイサリア地方です。ここの土地はガリラヤを治めている、ヘロデアンティパスの領土ではありませんが、その兄弟が治めている、領土です。カイサリアと言う町は地中海側にもあったので、その領主の名前を付けて区別し、フィリポ・カイサリアとしました。
ここの場面で、意識しておかなければならないのは、ここの領土にはユダヤ人はほとんどいないと言うことです。ここもまた、異邦人の土地なのです。すなわちイエス様たちは4千人の食事をした後は、ずっと異邦人の地を回っており、一度舟でガリラヤ地方に戻ったのですが、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に論争を挑まれ、それを避けるようにしてまた、異邦人の土地の方へと舟を向けて、このフィリポ・カイサリアに来たのです。
どうしてイエス様はユダヤ人の地を旅して宣教するのではなく、異邦人の地を旅していたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちのいないところで、落ち着いて、弟子たちを訓練するためだったのです。弟子たちが本当にイエス様の御心を理解できるようになるように、訓練していたのです。その訓練は多くの人々が誤解していたようなイエス様をローマから解放する政治的なメシアだと言う理解ではなく、神の国を支配するメシアであると言う理解にいたるようにすることだったのです。ですから、イエス様はユダヤ人たちの熱狂的なイエス様を政治的なメシアに祭り上げようとする状況から、弟子たちを引き離しておきたいと考えていたのです。
そしていよいよその理解にいたる時が近づいてきました。イエス様が、このフィリポ・カイサリアでその仕上げをしようとしているのです。そしてここから先は、イエス様がご自分の死と復活を言い表して、エルサレムへ向かうと言うことが起こって来るのです。その様な重大な転換点にあるのが、このフィリポ・カイサリア地方で起こったことなのです。
承
イエス様は、この地についた時に、いつものように弟子たちに問いかけをして、弟子訓練をし、このようにお尋ねになりました。13節と14節です。
マタ 16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
マタ 16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエス様は、イエス様の時が近づいてきたのかどうかを確かめるように、弟子たちにに尋ねてこう言いました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。イエス様はイエス様の本質を理解するものがいるかどうかを確認しようとしたのです。人々は、いろいろな想像をめぐらせて、いろいろな事を言っていました。ある人たちは洗礼者ヨハネを殺したヘロデのように、『洗礼者ヨハネだ』彼がよみがえったのだと思っていました。また、他の人々は『エリヤだ』と言いました。エリヤこそは預言者の中の預言者で、メシアが現れるときに現れる方だと思っていたからです。人々は、まだエリヤは現れていないと思っていたので、このイエスはメシアの先駆けのエリヤだ、と言っていたのです。ところが後でイエス様は、エリヤは既に来ていたと言いました。それは洗礼者ヨハネがそうなのだと言ったのです。又ある人々はエレミヤだと言いました。エレミヤもまた、最大の預言者の一人と考えられていました。最大の預言者とされている人で、一人だけ名前の上がっていない人がいます。それはモーセです。旧約の律法を作り上げた人ですが、イエス様はその律法創設者のイメージとは合わなかったようです。いずれにしても、人々の意見は、イエス様は偉大な預言者の一人だと言うことなのです。
イエス様は遠まわしにまず、人々がイエス様の事を何と言っているかを聞きましたが、本当に聞きたかったことは次の言葉です。それこそ、イエス様の本質を弟子たちがつかんでいるかどうかを確認するためだったのです。15節から17節です。
マタ 16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
マタ 16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
マタ 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
イエス様は大切な事を尋ねました。それは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いかけです。人がどう思おうと関係ないのです。大切なのはあなたがどう思うのか、自分がどう思うのかなのです。いくら知識を積み重ねても、自分がどう思うのかの見方が間違っていたならば、それは根本から違っていると言うことなのです。これは弟子たちみんなに問いかけられ、私たちも問いかけられている言葉です。「あなたはどう思うのか」に答える答えが、そのまま信仰告白となるのです。
この時、シモン・ペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。ユダヤの人々の答えは、偉大な預言者であり人間である、という答えだったのですが、ペトロの答えは違っていました。ペトロは、イエス様の事を人間だとは言わなかったのです。生ける神の子ですと言ったのです。メシアだと言ったのです。イエス様はこの事を弟子たちが理解しているかどうか確認するためにこの問いを問い、そして、期待していた答えを、ペトロから聞くことが出来たのです。たった一人でも、その本質に気が付いたならば、後はひとりでにその種は、大きくなっていくだろうと考えていたのです。それが天の国の性質だからです。
ですからイエス様は、ペトロを大いに称えました。ついにこの答えを得ることが出来たと喜んだのです。そして、こう言いました。17節から20節です。
マタ 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
マタ 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
マタ 16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
マタ 16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
イエス様はペトロに言いました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」ペトロはまさしく信仰告白をしたのです。イエス様はその事を喜び、あなたは幸いだと言いました。そして、あなたにこの事を現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ、といいました。私達も信仰告白をしますが、それは、人間に教えられたからでも、自分で考えて分かったからでもなく、聖霊の導きによって、そして神様によって、その事を現されたからなのです。そうでなければこのような信仰告白はできないのです。ペトロのこの信仰告白によって、ペトロは、最初の教会員となったのです。そしてそのあと多くの人々が彼に続くものとなったと言う意味において、このペトロの信仰告白は重要なのです。そしてペトロがその第一人者なのです。
イエス様はペトロに、「私はあなたに天の国の鍵を授ける」と言いました。この事の解釈は教派によって大きく異なっています。ローマ・カトリック教会では、この事を、「人が天国に入るのを許可したり、拒否したりする鍵がペトロに与えられており、罪を赦すことも許さないことも全てペトロの権限内に置かれている」と理解したのです。ですから、ペトロは教会の教皇であり、この権威は、ローマの教皇によって継承されているのだと理解したのです。ですが、これは特定の宗派のための言葉ではありません。ペトロには天国の管理者としての権威を与えられたのです。この後続く信仰者に対しても、その管理者としての権威が与えられていくのです。教会の隅の頭石となられたのはイエス様であり、その土台の上に最初に積み上げられた土台がペトロであり、そのあと多くの人々がその土台となって行ったのです。ペトロは最初にその教会員になったと言うことで、尊敬されるべきですが、カトリックの教えの様に教会の事は全てペトロを通してなされると言うのは行き過ぎた考え方です。
イエス様は弟子たちに最後に、口止めをされました。それは、御自分がメシアであることをだれにも話さないようにということでした。それは、イエス様をメシアだとして祭り上げ、政治的に利用して、ローマに対抗しようとしている人々が多かったからです。それに、ファリサイ人やサドカイ人たちは、そんなことを言うものなら神様を冒涜した罪で殺そうと狙っていたからでした。イエス様にとって、その信仰告白は、各々が自分の心で告白するものであって、それで十分だったのです。なぜならそこには神様の導きがあるからなのです。それがなければそのような信仰告白はできないからです。
転
イエス様は、いよいよ時が来たことを知って、弟子たちに大切な事を話されました。21節です。
マタ 16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
イエス様は、自分が必ずエルサレムに行って、殺されるであろうことを語り始めました。この事はイエス様の中に隠されていた秘密の事であり、さらに、死んで三日目には復活すると言うことをも打ち明けられました。弟子達は、イエス様が殺されるだろうと言ったことは、恐怖をもってすぐに理解できました。ですが、そのあと三日目に復活することになっている、といったことは全く信じていなかったのです。理解もしていなかったのです。もしかすると、言った事すら気が付かなかったかもしれません。ですから、死ぬであろうと言うことだけに反応しました。それが、次のペトロの言葉になるのです。ペトロはイエス様をメシアだと告白しても、死んで復活するメシアだと言うことは全く理解できていなかったのです。22節と23節です。
マタ 16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
マタ 16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペトロは、イエス様が死ぬだろうと言ったことだけに反応して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言ったのです。それもイエス様に対してまるで保護者がするように、わきへお連れして諌めたのです。イエスさまよりも、ペトロの方が前に出て、良く理解していると言う姿勢を示してしまったのです。これに対して、イエス様はペトロにこう言ったのです。「サタン、引き下がれ」。このように神様の計画を邪魔するものはサタンなのです。ペトロは、自分の思いで良いことをしているつもりで、神様の計画を邪魔しようとしたのです。自分の方が良く分かっていると思ってイエス様を導こうとしたのです。この言葉はイエス様が荒野で断食してサタンの誘惑を受けた時にも、イエス様が言った言葉です。サタンに対しては、戦うのではなくて、引き下がれと命じるものなのです。
イエス様はペトロに対して、「あなたは私の邪魔をするもの。神の事を思わず、人間の事を思っている。」と叱責しました。ペトロは折角イエス様に信仰を告白して褒めていただいたのですが、今度はすぐに、最大級のお叱りを受けてしまいました。イエス様は神の国の事を話していましたが、ペトロはまだ、この世の事しか考えられなかったのです。ですから、三日目に復活する話も全く耳には入っていなかったのです。イエス様はペトロを叱った後で弟子たちに向ってこう言ったのです。24節から28節です。
マタ 16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
マタ 16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
マタ 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタ 16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタ 16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
それは、イエス様に従うものの心得でした。それは、イエス様が死を決心し、神様の御心に従うためにエルサレムに向かおうとしている、そのイエス様に従うものの覚悟ともいえるものでした。私達もまた、イエス様に従うものならば、その覚悟をしっかりと受け止めていかなければなりません。ペトロは、イエス様の命を救い自分たちの命も救おうと思って、イエス様を諌めたのですが、そうではないと言うことなのです。
ですから、まず最初にこう言いました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」イエス様は、エルサレムで十字架につけられて死ぬ覚悟をしているのです。ですから、そのイエス様に従うものもまた、同じように十字架の覚悟をもって従わなければならないのです。そのためには、自分がこうしたい、ああしたいと言う希望や欲望を全て捨て去って、死を覚悟してイエス様に従うものでなければならないと言うことです。イエス様に従うと言うのは、イエス様のために命を預ける覚悟をすると言うことです。その事をまず初めに言ったのです。
そして、そのような覚悟をしてまで、従う理由をイエス様は述べました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」この言葉は、命とは何かを教えています。私たちの守るべき命とは何かということです。ここでは二つの命の事を言っています。一つは生物としての命です。肉体的な命です。もう一つは、永遠の命です。神様と共にある命です。イエス様は「自分の命を救いたいと思うものは、それを失う」、と言いました。ペトロと同じように、誰でも死にたくないと思い、なんとか自分達を安全にして、自分達を救いたいと思います。ですがそのようにして、体の命に捉われるものは、神様の御心に従うと言う、本当に大切な命、本当に自分が生きたいと思っている命を失ってでも、体の命を救おうとしてしまうので、結局体の命を守ったとしても、本当の命は死んでしまって、抜け殻のような命になってしまうと言うことです。もうなんの希望もない命となってしまうのです。ですから反対にイエス様のために命を失うものは、それを得るのです。例え、体の命が殺されてしまっても、神様と共にあると言う命をもって、神の国で生き続けることが出来るのです。永遠の命を生きるのです。イエス様は、その本当の命を失ってしまったら、たとえ体の命を守ったとしても何の得があるだろうかと言います。そんな人生はもうなんの意味もなくなってしまうのです。それに気が付いて、本当の命を取り戻したいと思っても、もうどんなに代価を支払っても買い戻すことはできないのだと言いました。それをしてしまったのが裏切ったユダなのです。それほど、本当の命、永遠の命は大切な命なのです。私たちを生かし続ける命なのです。
そして、最後にこう言いました。それは復活の出来事の事です。この事を弟子達はまだ理解できませんでしたが、イエス様は、この事をここで強調しているのです。27節と28節です。
マタ 16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタ 16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
イエス様は、復活なさることをはっきりと言いました。そしてどのように復活なさるのかを言いました。それは、「人の子は、父の栄光に輝いて、天使達と共に来る。」と言ったのです。イエス様が来られるときには、今と同じ姿ではなく、神様の栄光に輝いて、天使たちを従えて来られる、というのです。これがイエス様の復活の姿です。イエス様がそのように復活すると自ら語ったのです。そして、イエス様が復活してこられた時には、この世の裁きがあると言うのです。それぞれの行いに応じて報いられると言うのです。イエス様がどのような裁きをされるのかはわかりません。イエス様の御心に適ったものが、報いを得、イエス様の御心にかなわなかった者は、裁きを得るのです。ですから、イエス様は自分を捨てて、私に従ってきなさい、というのです。そうすれば永遠の命が与えられることを言っているのです。
そして、最後に不思議な事を言われました。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」と言ったのです。弟子たちの間では、この人は一体誰なのか、イエス様に愛されたヨハネではないのかという議論がなされたようです。そしてヨハネは、永遠に死なないのではないのかとさえ言われたのです。ですがイエス様が言おうとしたのは、誰が死なないものなのかというよりも、イエス様の復活は、もうすぐやって来ると言うことを言っていたのだと思います。みんなが死んでしまった後の遠い世界の事ではない、あなた方が生きている間に来る、ということを言ったのだと思います。ではヨハネはイエス様が御国とともにやって来るのを見たのでしょうか。ヨハネは肉体的にも、長生きをしました。弟子たちの中で一番長く生きることが出来ました。ただそれだけではなく、ヨハネは復活のイエス様にも出会ったのだと思います。そして、あのすばらしいヨハネによる福音書を残したのではないかと思います。
結
イエス様とはいったい誰なのか、あなたは私を誰だと言うのか。この問いをイエス様は私たち信仰者に問いかけているのです。そして、ペトロのように、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるならば、イエス様の大きな祝福を与えられるのです。ですがイエス様に従うと言うことは、自分を捨て去ることです。自分の命さえも捨てて、十字架の覚悟をして、イエス様に従うことなのです。そうすることによって、私たちは、何よりも大切な永遠の命を得て、神様の御国に入ることが出来ます。私達の願い事をかなえてもらうために、イエス様に従うのではなく、イエス様の御心を行うために、自分の願い事を捨てて、イエス様に従うのです。この事を忘れてはいけないのです。そのことが分かった時、私たちの命は永遠の命となって、この世に捉われない、自由で喜びに満ちた命を得ることが出来るのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、ペトロはイエス様への信仰を告白して、最初の教会員となりました。私たちもその後に続くものとして、信仰を告白して、イエス様に従うものとさせていただきました。ですが私たちの信仰はまだまだ弱く、自分の願いをかなえてもらうことに捉われているものです。あなたが言われたように、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様に従うことが出来ますように、導いてください。そこに私たちの本当の命があり、本当の喜びがあることを教えてください。本当の命を得させてください。この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆ペトロ、信仰を言い表す
マタ 16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
マタ 16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
マタ 16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
マタ 16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
マタ 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
マタ 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
マタ 16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
マタ 16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
◆イエス、死と復活を予告する
マタ 16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
マタ 16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
マタ 16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
マタ 16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
マタ 16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
マタ 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタ 16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタ 16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」