家庭礼拝 2015年5月27日マタイ15章1‐20昔の人の言い伝え

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起 

 今日の聖書の話は、イエス様が五千人の食事の奇跡を行った後の話です。イエス様が目覚ましい奇跡を行い、多くの人々に感銘を与え、この人こそメシアではないか、新しい指導者ではないかと人々が期待し、イエス様に従ってくるようになったことを、エルサレムにいた律法学者やファリサイ派の人たちが、無視するはずはなかったのです。律法学者やファリサイ派と言うと、最初からイエス様に敵対している、単なるセクト主義者のような感じにも思えますが、彼等も彼等なりに一体イエスさまとは何者かを確認しようとしているのです。それでわざわざエルサレムから、イエス様のところに来て、一体何をしているのか、どんなことを言っているのか。信仰に対してどんな理解をしているのかを調べようとしていたのです。ですからイエス様の周りにいつもいて、律法の教えと違うことをしていないかどうかと言うことを特に注意深く観察しており、違ったことをすると、それに対して質問して、その見解を聞こうとしているのです。

律法学者やファリサイ派の人たちは決して悪い人たちではないのです。最終的にイエス様を十字架につけたから悪い人たちだと思うのは、文脈をよく理解しようとしない単純な理解なのです。確かに、律法学者やファリサイ派の人々はイエス様にその信仰を否定されて、感情的になり、イエス様を律法に背く罪人だとして、殺そうとさえしたことは事実です。ですがそれも、これも、その信仰の熱心さがそうさせたのです。熱心すぎる人は、今まで懐いていた考えや、伝統的な教えから抜け出ることが出来ず、それのみを一生懸命信奉し、それに合わない人を裁いて、自分たちこそ熱心な信仰者だと思いたがるのです。この様の人々は今の教会にもたくさんいるのですが、このような人々は自分が律法主義者であることには気づかず、熱心なクリスチャンであるとしか思っていないのです。ですから熱心すぎるクリスチャンには気を付けなければなりません。熱心すぎるクリスチャンとは、こうしなければならないと、その形式に捉われるクリスチャンです。それは私たちもすぐに陥りやすい欠点なのです。

当時の律法には2種類ありました。一つは成文律法で、聖書に文字として書かれた律法です。聖書の中でこうしなければならないと規定されたもので、モーセの十戒や、レビ記などの祭儀的な取り決めなどがそうですし、旧約聖書全体がそうであると言ってもいいのかもしれません。もう一つは口伝律法と言われるもので、多くの律法学者や、ラビたちが、成分律法を解釈して、このようにしなければならないと口伝えに教えられて来た律法です。今日の聖書の小見出しにある、昔の人の言い伝えとはこの口伝律法の事なのです。この口伝律法は、儀式のための儀式的な取り決めと言ってよいことがたくさんありました。安息日の取り決めや、今日の聖書に出てくる、食事の前に手を洗うことなどです。これらの律法は時代を追うごとにどんどん複雑になり、普通の人々にはもう覚えきれず、何のためにするのかもわからず、律法学者と言う専門家が、こうしなければならないと人々に教えていたのでそのようにしていたのす。

どうしてここまで、その律法を守ることがエスカレートするかというと、律法を守ることは汚れることを防ぐためなのです。この汚れと言うのは私たちが考える汚れや不潔とは違います。ユダヤ教で言う汚れとは、神様の前に出るにふさわしくない状態の事なのです。きわめて儀式的な状態なのです。ですから食べ物や、異邦人や、汚れた人や、もろもろの事によって汚れてしまうと礼拝が出来なくなってしまうので、その汚れを避け、また浄めを行わなければならないのです。さらに難しくするのは、この汚れと言うのは伝染するのです。汚れた人が触ったものは汚れてしまい、それに気づかずに触った人も汚れてしまうのです。またその人と触れた人も汚れてしまうので、どんな人でもいつの間にか汚れている状態になっていると言えるのです。ですから、ユダヤ人たちは何時も清めの儀式を行っているのです。実はこの汚れから守ることなどは不可能なのです。

今日の聖書の話は、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないことをファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様を非難したのです。それに対して答えたのが今日の聖書の箇所です。これは、イエス様の教えが今までのファリサイ派や律法学者の教えと決定的に違う教えであることを述べているのです。ある意味では、口伝律法だけでなく、聖書である成文律法の一部をさえも否定するような話になってしまうのです。これは大変な事です。今までいろいろな預言者やラビたちが出てきましたが、ここまで言う人はいなかったのです。ですから、イエス様とこれらの律法学者達との対立は決定的になったのです。

さて、聖書の話を聞いてみましょう。ファリサイ派の人々がイエス様のところにやってきました。1節と2節です。

マタ 15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。

マタ 15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」

 多分この人々はエルサレムのサンヒドリンからイエス様の調査を依頼されてきた律法学者とファリサイ派の人々で、噂のイエスが、本当にメシアなのかどうかを調べに来ていたのです。ところがイエス様の弟子たちが、食事の前に手を洗わなかったので、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。」と言ったのです。この手を洗う儀式と言うのも、実はとても複雑なのです。洗うための水の量から、その洗い方、浄め方が事細かく決められていたのです。これをきちんと守る人々が熱心な信仰者とみなされていたのです。ですから、人によっては食事の前だけではなく、食事中にも食事が出されるごとに手を洗う人もいたのだそうです。

この質問に対して、イエス様はそのまま答えることをせず、質問をもって返したのです。これはイエス様が時々取られる方法で、質問に対して質問で答える方法です。3節から6節です。

マタ 15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。

マタ 15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。

マタ 15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、

マタ 15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

 イエス様は、律法学者たちが言う、なぜ弟子たちは律法を破っているのかという非難に対して、なぜあなた達も律法を破っているのかと言ってその具体的な内容を説明したのです。人の粗探しをするだけで、自分自身の問題に気付かない人々にこう尋ねたのです。「あなたたちは口伝律法である言い伝えによって、聖書に書かれてある律法をどうして破っているのか。」と言ったのです。口伝律法は聖書の内容を解釈して後から定めれたものですから、聖書に書かれている律法のほうがずっと大切なのです。それなのに、口伝律法を守って聖書の律法を守らないのはどうしてなのかと言ったのです。イエス様はその反対なのです。神様の御心が反映されている聖書の御言葉は大切に守るが、人が作った口伝律法は守る必要がないと言う考えなのです。イエス様が具体的に示したのはこのような例です。聖書の中で神様は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』と言っているのに、口伝律法の教えを利用して、父を敬わなくてもいいようにしている。それは、父や母が、何かを欲しいと言った時に、それは神様への供え物にするから、あなたには差し上げられないと言って、断っていいと教えており、神様の言葉に反することを教えているではないか、と言っているのです。神様の律法を守る振りをして、神様が言っている父と母を敬えと言うことを無視しているのです。そして、その様な事を律法学者たちは教えているのです。これをイエス様は非難したのです。

イエス様はさらに、イザヤの言葉を引用して、ファリサイ派の人々や律法学者のしていることをこう言ったのです。7節から11節です。

マタ 15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。

マタ 15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。

マタ 15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」

マタ 15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

マタ 15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

イエス様は彼らの事を偽善者と呼びました。神の言葉を守る振りをして、本当は自分たちの事しか考えていないからです。そしてイザヤがあなたたちの事をこう言って予言していると言って、『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』と言いました。まさに、神様の御心から離れて、人間の戒めを教えとして教えていたのです。そして周りでこの議論を聞いていた群衆に対してイエス様はこう言いました。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」すなわち、律法学者たちは、手を洗わないから汚れると言っているが、口に入るものが人を汚すのではない、口から出てくる悪い思いが人を汚すのである、と言ったのです。

さてこの時、イエス様はもうファリサイ派の人々や律法学者の人々の方を相手にはしていなかったのです。もう勝負はついていると考えていたのです。するとわざわざ弟子たちがファリサイ派の人々の様子をイエス様に伝えに来ました。12節から14節です。

マタ 15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。

マタ 15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。

マタ 15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」

 弟子たちは、イエス様にやり込められて、意気消沈しているファリサイ派の人々を見て小気味よく思ったのです。それで、わざわざイエス様に、ファリサイ派の人々がお言葉を聞いてつまづいていますよと知らせに来たのです。するとイエス様は、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」と言いました。これは神様の畑の中に、神様の木のふりをして生えている木、神様の御心によって植えられていない木、すなわちファリサイ派の信仰の無い人々はすべて抜き取られて捨てられてしまうだろう、と言ったのです。だからそのままにしておきなさい、と言いました。彼らは盲人の道案内をする盲人だと言いました。自分たちは知っていると思って人々に指導しているその人が、実は何も知ってはいないのです。だから指導する人も、指導される人も危険な穴に落ちてしまうだろうと言いました。これはファリサイ派の人々に対する、痛烈な批判です。ファリサイ派の人々や律法学者の人々は、知っているふりをしているだけで何も知らないと言っているのです。そして、神様からいずれ抜き取られ、または歩いていけば目が見えないために穴に落ちてしまう運命なのだと言っているのです。これほどイエス様は当時語られている信仰に対して、厳しい判断をしていたのです。

そこでペトロが、イエス様が言った言葉の意味が分からなくて、口をはさみました。15節から20節です。

マタ 15:15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。

マタ 15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。

マタ 15:17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。

マタ 15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。

マタ 15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。

マタ 15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 ここでイエス様は汚れについて説明しています。イエス様の語る汚れとファリサイ派の人々が語る汚れとは根本的に違ったことを語っているのです。ファリサイ派の人々の語る汚れとは、儀式的な汚れなのです。このようにしなければ、神様の前に出るには汚れている、と勝手に決めたような汚れなのです。本当に汚れているかどうかは別なのです。他方、イエス様の語る汚れとは霊的な汚れなのです。霊的なものは口から入ってきたもので汚されるようなものではないのです。むしろ口から出てくるもの、すなわち心に思ったことから出てくるものが人を汚すと言っているのです。その汚すものとは、悪意であったり殺意であったり、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など心から出てくる悪いものが人を汚すのであると言っているのです。だから、手を洗わずに食事をしても、そのことが人を汚すようなものではないと言って、ファリサイ人たちの教えを非難したのです。ファリサイ派や律法学者の教えは儀式的であり、形式的なのです。私達も信仰をしていると思っているが、いつの間にかこのような儀式的形式的なものに陥ってしまうことがあるのです。毎週教会に行っていればよい。毎月献金をしていればよい。毎日聖書を読んでいるから大丈夫だ。などと考えて、本当に大切な、神様の御心に尋ね、神様の御心を行うと言うことをおろそかにしてしまうのです。

 今日の聖書の話は、信仰とは何かを改めて考えさせられる話です。定期的に信仰的な事をすることによって安心し満足している魂に、それでよいのかと問いかけてくる話です。大切なのは神様の御心を知ってそれを行うことです。本当に神様のみ心に適うことは何なのかを尋ねつつ、祈りつつ、それを行っていくことなのです。それは神様を愛することによって、人々を愛していく道なのです。ファリサイ派の人々は信仰はありましたが、神様をも人々をも愛する心を持ちませんでした。イエス様はそのような信仰を超えて、愛する心で神様の御心を行ったのです。私たちもこれに倣うものとなりたいものです。

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、今日の御言葉に感謝いたします。信仰生活を長くしていると、型にはまった信仰をもって、これでいいのだと自己満足してしまいます。そして大切な生き生きとした信仰を失ってしまいます。生きた信仰はあなたのもとにあります。毎日あなたに御心を訪ねて生きる信仰こそ生きた信仰であります。私たちの信仰生活にはもしかすると不要なものがたくさんあるのかもしれません。本当に大切なものだけを求めて信仰生活をすることが出来ますように。イエスさまから偽善者よとお叱りを受けないように、御心をいつも聞き取り、イエス様を見上げて信仰生活を歩むことが出来ますように導いてください。この祈りを主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◆昔の人の言い伝え

マタ 15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。

マタ 15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」

マタ 15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。

マタ 15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。

マタ 15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、

マタ 15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

マタ 15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。

マタ 15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。

マタ 15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」

マタ 15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

マタ 15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

マタ 15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。

マタ 15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。

マタ 15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」

マタ 15:15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。

マタ 15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。

マタ 15:17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。

マタ 15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。

マタ 15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。

マタ 15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」