家庭礼拝 2015年5月20日マタイ14章22‐36湖の上を歩く

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今日のテキストは短い所なので、少しここまでの話の流れを振り返ったうえで学んでみたいと思います。イエス様が「色々な種」の話をして、天国のたとえ話をした後、故郷のナザレに帰ってきました。そこで宣教をして、人々はその知恵と奇跡を行う力に驚きましたが、この人は大工の息子ではないか、その母親も兄弟達も皆知っているではないか、と言って、イエス様を敬うことはしませんでした。そのため、イエス様はナザレではあまり奇跡をなさりませんでした。

 そのころにイエス様は、洗礼者ヨハネが、ヘロデによって殺されたことを知りました。イエス様はそれを聞くと舟に乗って人里離れたところに退かれました。するとその事を聞いた群衆はほうぼうの町から歩いてイエス様の後を追ったのです。ナザレでは、イエス様を信じるものが少なくつまづくものが多かったのに対照的な話です。弟子たちはその集まった群衆を解散させようとしましたが、イエス様は、その群衆をそこに座らせて、五つのパンと二匹の魚を用いて、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそのパンを男だけで5千人もの人々に食べさせました。

 ここまでの話を聞くと、イエス様にはイエス様を信じる大勢の人々が集まって、食事を共にし、群衆は満腹し、宣教は大成功的な雰囲気の中にあるかのように思われます。ですがどうもその後の雰囲気がおかしいのです。何やら問題がありそうなのです。その点を注意しながら、今日の聖書の話を聞いていきたいと思います。

どうしてそう思うかと言うと、すべての人が食べて満腹した後の話がこうなっているからです、22節23節です。

マタ 14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

マタ 14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

 イエス様はこの5千人の食事の後、結局全員を解散させたのです。弟子たちの考えと違っていたのは、食事を与えるか与えないかと言う違いです。イエス様は全員に食事を与えました。群衆は満足して、そのままイエス様と共に、恵みの一夜を共にしたのかなと思うとそうではなくて、その後すぐに群衆を解散させたのです。しかもこの時、イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせた後に解散したのです。何か、弟子たちがいては問題がありそうな不都合がありそうな書き方です。きっと弟子たちはイエス様の事が心配なので、イエス様に一緒に舟に乗ってここを去りましょうと言ったと思うのだけれども、イエス様が、私がみんなを解散させるから、あなたたちは先に行って私を待っていなさい、と言っているような気がします。特に急ぐ旅ではないので、何か不都合があるため、群衆に見つからないようにそっと先に舟で脱出させたような感じです。ある解釈では、食事を与えられた群衆は、このような奇跡を行い、いつも自分たちに食事を与えてくれるならば、イエス様を自分たちの政治的な指導者に祭り上げたいと、考えていたと言うのです。それはイエス様を信じたのではなく、自分たちが信じたようにイエス様になってほしいと願ったのです。ですから、イエス様はそのような群衆からはすぐに離れるべきだと考えたのです。誤解している群衆に祭り上げられることは危険だと感じたのです。

イエス様は、とにかくひとり残って、群衆を解散させたのです。そして祈るために一人山にお上りになった、と書かれています。もともとイエス様がこの地に来たのは、洗礼者ヨハネが殺されたことを聞いて、人里離れたところに退いて、静かに祈ろうとしたのだと思います。それが群衆によって妨げられてしまいましたが、今度はその群衆を解散させたので、また一人で山にお上りになって、そこで祈っていたのです。夕方になっても、ただ一人そこにおられたと書かれています。やっとイエス様は一人になって祈る時が与えられたのです。きっとヨハネが死んだ後のイエス様の為すべきことを神様に尋ねていたのだと思います。イエス様は夕方になっても、ただ一人そこにおられたと書かれているので、五千人の食事をした時間は夕方ではなく、もっと早い時間のようです。その様な明るいうちに弟子を船で出発させ、群衆を解散させ、一人で山に登って祈っていたのです。そして夕方になったのです。その山からは弟子たちの船や、群衆が帰って行く様子が見えたのかもしれません。その時、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた、と書かれています。船はなかなか前に進めなかったのです。何スタディオンかというのは岸からそんなに遠くはないが近くもない、数百メートル離れたところと言う感じだと思います。

イエス様は何時までその山の上で祈っていたのでしょうか。多分船が出発したのは午後4時頃だと思います。イエス様が夕方になっても祈っておられたと言う時間は午後6時頃だと思います。ですが、次にイエス様が弟子たちと出会うのは夜明けのころなのです。多分午前4時位ではないかと思います。25節と26節にこう書いてあります。

マタ 14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

マタ 14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

 イエス様が一晩中祈りを捧げていたかもしれないことはありうることです。ですが、弟子たちが、出発してから12時間もたつのにまだ湖の上にいて、イエス様が歩いて行って追いついてしまったと言うのはどういうことでしょうか。船は逆風のためによほど前に進まなかったのかもしれません。弟子たちは漁師なので、船を操るのは上手なはずなのですが、こんなに長い間舟をこいでいたら、もう疲労困憊して疲れ果て、このまま遭難してしまうのではないかという恐れにあったのだと思います。弟子たちは一晩中眠らずに逆風と戦いながら、舟をこいでいたのだと思います。そこにイエス様が湖上を歩いておられるのを見たのです。弟子たちはその姿を見て、「幽霊だ」と言って怯えたのです。恐怖のあまり叫び声をあげたのです。私たちは恐れに捉われていると、神様と出会ってもイエス様と出会っても、それをそのまま受け取ることが出来ないで、幽霊に出会ったかのように恐れてしまうのです。そして逃げ出してしまいます。私たちが、神様やイエス様と出会うにはそれなりの余裕がなければなりません。信頼がなければなりません。イエス様がきっとそば近くにいて下さるに違いないと言う、確信がなければなりません。そうすれば突然出てきてもそれが、イエス様であることを認めることが出来るでしょう。ですが、自分の近くに神様もイエス様もいないのではないかと思っているときにはその出てきたものは幽霊にしか見えないのです。私たちの誰よりも近くにいて下さるのは神様です。そして私たちをいつも見守って下さっているのです。信仰者はそれを忘れてはならないのです。

この弟子たちの乗った船は、教会を表すともいわれます。この聖書が書かれた時代に教会が世の迫害に会いながら、荒波の中を、暗い夜の海の中をこいでいる姿を表しているとも言われています。それをイエス様はいつも見守っていると言うことです。イエス様はすぐそばに来ているのです。その事を信じなさいと教えているような箇所なのです。

さて、弟子たちがイエス様の姿を見て幽霊だと叫んだ時、イエス様はこう言いました。27節から30節です。

マタ 14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

マタ 14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

マタ 14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

マタ 14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

 弟子たちが、幽霊を見たと思って、恐れおののいているとき、イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言いました。イエス様がいるときには不安ではなく、安心があるのです。反対にイエス様を見失うと私たちの心には不安と恐れが起こるのです。この時、ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。ペトロはイエス様のように水の上を歩いてみたいと思ったのでしょうか。そうではないと思います。ペトロは一刻も早くイエス様のもとに一緒にいたいと思ったのです。イエス様から離れるのは嫌だったのです。その様な不安と恐れの中にいるのではなく、イエス様と共に居る安心の内にいたかったのです。ですから水の上を歩いてでもイエス様のもとに行きたかったのです。イエス様が「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩いてイエス様の方へ進んだのです。ところが強い風が吹いてきたのでそれに気が付いて怖くなってしまうと、ペトロは沈みかけたのです。ペトロは「主よ、助けてください」と叫びました。私たちは、イエス様の方だけを見ているときには恐れはないのです。水の上でも歩くことが出来ると信じることが出来るのです。ですが、イエス様の方ではなく、現実の恐れに目を注ぐとき、恐れに捉われてしまい、おぼれ死んでしまいそうになるのです。私たちの周りにどんな恐れや不安や困難があったとしても、私たちが見るのはそのような現実ではなくて、私たちを救ってくださるイエス様を見つめればよいのです。その時に私たちの心には不思議な平安が訪れるのです。その恐れや不安は見えなくなってしまうのです。

主よ助けてくださいと叫ぶペトロにイエス様は手を差し伸べました。31節から33節です。

マタ 14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

マタ 14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

マタ 14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

ペトロを助け出したイエス様が、ペトロに言った言葉は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉です。ペトロは風を見て恐れたのですが、イエス様はなぜ疑ったのかと言いました。これはどうしてでしょうか。それは、イエス様と共に居れば大丈夫だと言う信仰を見失って風を恐れたからです。恐れることは信じないことなのです。信じる者には恐れはないのです。私たち信仰者は、その周りにどのような不安や恐れや困難があったとしても、主と共にあれば、全ては良きものとなるとの信頼に立って、決して恐れる必要はないのです。それが信仰なのです。だからイエス様は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロを叱ったのです。

二人は船に乗り込みました。すると風は静まりました。本当に風が静まったのかどうかは分かりませんが、イエス様が船に乗り込むと、そこに大きな安心が与えられて、同じように吹いていた風が静まったように感じられただけなのかもしれません。いずれにしても、船の中にいた人々はイエス様と共に居ることによって大きな安心と平安とを与えられたのです。そして、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだのです。

こうして一行は湖を横切って、向こう岸に渡り、ゲネサレトと言う土地に行きました。すると土地の人々は、それがイエス様だと知って、付近にくまなく教えて、病人を皆イエス様のもとに連れてきました。そして、その服の裾にでも触れさせてほしいと願いました。イエス様に触れたものは皆癒されました。ここでも人々はイエス様の御言葉を聞くためよりも、癒しの奇跡に触れるために集まってきたのです。ですがイエス様は厭うことなく癒されたのです。

 今日の聖書の箇所は、イエス様が共に居られる時に何が起こり、居られない時に何が起こるのかを生き生きと表現しています。イエス様が居られない弟子たちの乗った船は、暗闇の中で逆風に会い、なかなか前に進めず、イエス様と出会ってさえも、幽霊だと言って怯える状態だったのです。この私たちの生きている世界でも、信じる信仰を持たず、この世を暗闇のように怯えて過ごしている人がどれだけいるでしょうか。もし信仰が与えられれば、もっと平安に喜びをもって生きることが出来るのにと思うことがたびたびあります。でも信仰は押し付けることはできません。神様から与えられるものです。それを私たちは祈って待ち望みます。もし、イエス様と出会うならば、その喜びのためにペトロのように、「水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願うほどになるでしょう。イエスさまと共に居る生活は、周りにどんな嵐が吹いていてもその心は平安に満たされているのです。そしてその不思議さに、「本当にあなたは神の子です」と礼拝するようになるのです。ですがこの世の困難や恐怖に目を奪われると、ペトロのように、波に飲み込まれて溺れそうになります。イエス様から目を離してはいけないのです。ほかの事に目を奪われてはいけないのです。ほかの事に目を奪われると波に飲み込まれてしまいます。もしそうなったらどうしたらよいでしょうか。ペトロが叫んだように、「主よ、助けてください」と助け求めればよいのです。真剣に求めればよいのです。イエス様はいつもすぐそばにおられるのです。そしてその助けを求める声を聞くと、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われて手を差し伸べ助けて下さる方なのです。私たちはその事を信じて生きていくことが出来るのです。主が共に居られることが救いなのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様と共に居る生活がどんなに祝福に満ちた平安なものであるかを思います。もしかするとそれは困難の中にある生活かもしれませんが、そこにはイエス様と共に居ると言う平安がある事を思います。もしイエス様から離れてしまえばそこは、暗闇と逆風の吹く世界です。恐れと不安の世界です。どうか神様、私たちが信仰をもって、疑わず、イエス様が共に居られることを信じて歩んでいくことが出来ますように。そして、あなたこそ神の子です、と賛美していくことが出来ますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆湖の上を歩く

マタ 14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

マタ 14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

マタ 14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

マタ 14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

マタ 14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

マタ 14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

マタ 14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

マタ 14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

マタ 14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

マタ 14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

マタ 14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

マタ 14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

◆ゲネサレトで病人をいやす

マタ 14:34 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。

マタ 14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、

マタ 14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。