家庭礼拝 2015年5月6日マタイ13章24‐58毒麦のたとえ
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起
先週の、種を蒔く人のたとえに続いて、今週も譬え話が続きます。譬え話で話す理由は、ユダヤ人たちがイエス様に反発し、見ても見ず、聞いても聞かず理解できないので、譬え話で話されました。そうすれば少しでも、心に残るだろうと考えていたのだと思います。今週も続いて種に関する話が多く続きます。譬え話は、毒麦のたとえ、からし種とパン種のたとえ、畑で宝を見つけた人のたとえ、高価な真珠を見つけた人のたとえ、網で魚を取る漁師のたとえ、と続きます。これらの譬えは、すべて、天国の事を語っている譬えです。そしてごく身近な事で例えているのです。
ここで語られている大切なことが三つあります。共通していることは、種に例えられるように、とても小さなものがどんどん大きくなって、成長していく様子を現していることです。それは、たった一粒の小さな種、すなわち天国の種は、世界全体をも変えるほどの成長力と変革力を備えていると言うことです。良い地に落ちた種の譬えや辛子種やパン種の譬えはそのような譬えです。イエス様はまさにその一粒になって、世界中に広まっていったのです。二つ目は、毒麦の譬えや網で魚を取る漁師の譬えのように、天国や教会の中にあっても悪い者たちは、良い者たちと一緒にいてしばらくの間は区別されないで一緒にいるけれども、終わりの時には悪い者たちは選り分けられて、燃え盛る炉の中に投げ込まれると言うことです。それはその時に神様が裁いてくださるので、人間が先走って裁いてはいけないと言うことです。三つ目は、畑で宝を見つけた人や高価な真珠を見つけた人のたとえにあるように、天の国を見つけた人は、どんな犠牲を払ってでも、持ち物をすっかり売り払ってでも、その天の国を得るために、代価を支払うだろう、ということです。天国を得ることは宝を得ることや高価な真珠を得ることよりも喜びに満ちたものであり、そのためにはどんな犠牲もいとわないと言うことなのです。
なぜイエス様は、天国を説明するのに、成長、裁き、高価な代価をキーワードにして話されたのでしょうか。天国とは一体どんな国なのでしょうか。それは、神様の御心を受け入れて行う人の入る国です。すなわち、神様の治められる国です。その天国がこの世に現れた時、留まる事を知らない強い力で成長しこの世を変革していくのでそれに抵抗する人は裁かれ、御心を受け入れて行う人は、どんな犠牲を払ってでもその国に入ろうとするようになるだろうと言うことなのです。天国の成長はもう始まっているのです。もうだれにも止められないのです。私たちが気がつこうが気が付くまいが、それはパン種の入ったパンが膨れていくように、どんどん大きくなっていくのです。それはまるで、私たちが気が付かなくても宇宙は膨張しているようなものです。そして最後の時がやって来ると言うのです。このような天国の譬えを、イエス様の御言葉からもう一度聞いてみましょう。
承
それでは最初に毒麦の譬えを学んでみましょう。24節から26節です。
マタ 13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
マタ 13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
マタ 13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
譬え話は良く心に残るのですが、これが天の国の事を譬えていることを忘れてはいけません。ですから、そこから、譬え話の中にある、イエス様の本当のメッセージを聞き取らなければならないのです。ある人が、良い種を畑にまいて、芽が出てきたら、毒麦も一緒に現れたと言うのです。人々が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦を撒いていったと言うのです。このような事は実際に有ったらしくて、恨みを持っている人が相手に対して、今だと家に火をつけるぞと脅かすように、畑に毒麦の種を蒔くぞと言うのが脅し文句にもなったそうです。この毒麦は、食べたらすぐ死ぬというものではなく、めまいや吐き気やしびれを起こすそうです。そして味は苦くて嫌な味がするのだそうです。ですから、農民はこのような麦がよい麦に交じる事をとても恐れました。混じっているときには一つ一つ取り除きました。
それで聖書の箇所では、毒麦を見つけた僕たちが、主人のところに来て毒麦の事を尋ねると、それは敵の仕業だと主人が言ったので、では行って、抜き集めておきましょうかと言いました。するとその主人はこう言ったのです。29節30節です。
マタ 13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
マタ 13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
この毒麦と言うのは苗の間は、ほとんど良い麦と見分けがつかないのだそうです。しかも根が互いに絡みついているので、抜き取る時に良い麦を一緒に抜き取ってしまう危険が多かったのだそうです。でも穂が出るとそれははっきりと子供にでも良い麦と毒麦を見分けることが出来るので、刈り入れの時に、えり分けて、取り除くのだそうです。
この事は一体何を言い表そうとしているのでしょうか。これは天国の事を言い表したものなのです。すなわち天国には、良い麦と毒麦とが一緒に成長していると言うことです。全く意外な事ですが、天国には天使だけがいるのではなく、毒麦のような人もいると言うことです。しかもその人たちは、良い人たちと見分けがつかないと言うのです。ここで言われている天国とは、教会のように信仰者が集まるところも含まれていると思います。ですから、教会は良い人だけが集まるところではなく、サタンの種を宿した人も集まっているのです。ですが、その中で、それを取り除こうとして裁いてはいけないと言います。人間のすることは、サタンの業なのか神様の業なのか見分けがつかないことが多いからです。ですから、神様はそのままにしておきなさいと言うのです。最後の時にその裁きは下されるから、先走って裁いてはならない、そして神様の裁きに委ねなさいと言っているのです。
次にイエス様は、からし種とパン種の譬えを話しました。これは天国の種は、目に見えないほどの小さな種でも、成長して、全体を変えていくほどの力と潜在力を持っているものであると言うことです。日本では小さなものの譬えでは芥子粒ほど小さいと言います。辛子種はそれよりもさらに何分の一かの小ささです。そのように小さいものの譬えで語られる言葉ですが、パン種になるとさらに目に見ることもできない小ささです。その様に小さなものでも大きく成長し、変革していくものの譬えとして語っているのです。31節から33節です。
マタ 13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
マタ 13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
マタ 13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
辛子種やパン種のような小さなものにそのような大きな力が備えられているのは驚きです。ですが神の国は、もっと小さなものでもその成長をおしとどめられることなく、大きく成長し、世界を変えていくものになるだろうとイエス様は言っているのです。そしてその成長はすでに起こっており、今も私たちの気がつかないところでどんどん起こっているのです。パン種によって膨らんでくるパンは、見ている間は変化が無いようでも、ちょっと時間を措いてみると、大きくなっているようなそんな成長が天国の世界にも起こっているのです。それは人間が天国に気にも留めない時にも、どんどん大きくなっているのです。
イエス様は再び、譬えで話す理由を語られました。譬えを用いないで話されることはなかったからです。それは、預言者を通して言われていたこと、すなわち「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」と言うことが実現するためであったと言うのです。すなわちイエス様が譬えで話されたことは預言の実現であり、メシアであることの証明であると言うことなのです。
転
さて、イエス様が群衆を後に残して家にお入りになった時に、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言いました。イエス様はこう答えました。38節から40節です。
マタ 13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
マタ 13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
マタ 13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
よくある質問に、どうしてこの世は悪い者たちが、裁かれもせずに、自由に生きているのかと言うのがあります。教会の中にあっても、どうしてあのような人が裁かれずにいるのだろうか、と言う声があります。ですが、神様は、最後の時には必ず裁きの時がある事を言っています。私達は、その時を待ちきれなくて、早く裁いて欲しいと考えます。さらには自分で裁いてしまいます。そうであってはいけないのです。神様は最後の時に必ず御心に適って裁かれる方であり、私たちの思いによって裁かれる方ではないのです。私たちに必要なのは、自ら裁くことではなく、忍耐強く、信頼して待ち続けることなのです。自分を正しいものとしてはいけないのです。
イエス様はさらに天の国の譬えとして、3つの譬え話をしました。一つ目は畑に宝を見つけた人のたとえです。44節です。
マタ 13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
この譬えで、畑に宝が隠されているのを見つけた人は誰でしょうか。それはその畑を耕している人なのです。通りすがりの人ではありません。毎日畑を耕している間に、土の中に宝が隠されているのを見つけたのです。当時は宝や財産を土の中に隠すことが、一番安全な事として、一般的だったのです。ですが何かの拍子にその持ち主がいなくなったりすると、その宝物は見つけた人のものとすることが出来るのです。ですがこの宝を見つけた人は小作人だったのです。自分の畑ではなかったのです。ですからその人は、また宝を土の中に埋めて隠し、喜びながら帰って、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買ったのです。そうすればその宝は自分のものになるからです。
ここでイエス様が言おうとしているのは、天国はこの宝物以上のものであると言うことです。ですから天国のすばらしさを見つけた人は、どんな犠牲を払ってでも、天国に入ることを願うものであると言うことです。それほどすばらしく喜びに満ちたものであるので、どんなことをしてでも、それを手に入れるであろうと言うことを言っているのです。
二つ目の譬え話は良い真珠を探している商人の話です。45節と46節です。
マタ 13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
マタ 13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
この譬え話もまた、天国のためにはどんな犠牲を払ってでもそれを喜んで買い取るものであると言うことを言おうとしているのですが、先ほどの畑で宝を見つけた人の話と何が違うのでしょうか。それは、畑で宝を見つけた人は、宝を見つけようとして、畑を掘っていたのではないのです。毎日の日常の仕事をコツコツとやっている中で、宝を見つけたのです。特別な事をしなくてもその宝を見つけることがあるのです。むしろ毎日の働きを誠実に行う中で見出す宝と言うべきものかもしれません。
一方で、この商人は、良い真珠を探していたのです。探し求めてついに見つけ出したのです。いわば求道者です。このように、意図的に見つけ出した人も偶然見出した人もその宝を見出した時にはすべてをなげうってそれを得ようとするのです。もしかすると宝を与えて下さったのは神様なのかもしれません。私たちはどちらにしても見出したその宝のためにすべてをなげうって買い取ることが大切なのです。
三つ目の譬えは網で魚を取る漁師の譬えです。47節から50節です。
マタ 13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
マタ 13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
マタ 13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
マタ 13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
この譬えは毒麦の譬えとよく似ています。天の国では良いものと一緒に悪いものも網でとらえるが世の終わりには、天使たちが正しい人々の中にいる悪い者どもを選り分け、燃え盛る炉の中に投げ込むと言う話です。ここでも注意すべきは、たとえ天国でもそこには悪いものも一緒にいると言うことです。裁きの時は世の終わりまで待たなければなりません。
そしてイエス様はこれらのことを皆お話しすると、弟子たちに向かって、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」と言いました。弟子たちは、「分かりました」と言いました。すると、イエス様は「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と言いました。ここでの新しいものと古いものとは新しい教えと古い教えと言うことです。すなわち新約と旧約と言うことになります。天の国の事を学んだ学者は、新しい教えを用いるだけでなく、古い教えをも用いて働かす人と言うことなのです。新しいことを学んだから古いものはいらないと言うことではないのです。
そして、このような話をなさった後で、イエス様は故郷のナザレに行きました。イエス様は会堂で教えられ、人々はその教えに驚きましたが、イエス様を信じることはありませんでした。そして、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と疑問に思うだけでした。これはナザレの人々はイエス様の事を知っていると思っているからです。生まれも素性も自分たちは知っている、イエスは預言者ではない、では何だろう、と思うところに留まって信じることがなかったのです。ナザレの人々が知っているのは、肉的なこの世的な事だけなのです。イエス様を知るには霊的に知らなければならないのです。知っていると思っている人はこの事が分からないのです。ナザレの人々が不信仰だったので、イエス様はそこではあまり奇跡をなさいませんでした。
結
今日の聖書の箇所では、イエス様は譬えを用いて、天の国の事をいろいろな方法で教えてくださいました。私達が忘れてはいけないのは、天の国は成長し続けていると言うことです。今もなお、見てもわからないが気が付いた時には大きく成長しているのです。その成長は誰も押しとどめることはできません。その天の国のすばらしさに気が付いた人はどんな代価を払ってでも、どんな犠牲を払ってでもその天の国に入ろうとします。それほどすばらしい価値あるところなのです。でもその様に素晴らしいところにでも、悪いものはいつの間にか一緒にいるのです。すなわち悪いものはどこにでもいるのです。ですが、その事に捉われてはいけないのです。悪いものは最後の時に神様の手によって裁かれると言うことに委ねればよいのです。自分で先走って裁いてはならないのです。私たちは、何を措いても神の国にあることを第一にして、その成長を共にすることが、一番の喜びとなるのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちに神の国の事を教えて下さり感謝いたします。あなたによって撒かれた信仰の種が、私たちの心の中にあって、大きく育ち、自分自身をも世界をも変える大きな力となっていきますように。どんな代価を支払ってでも、あなたの御国に生きるものでありますように。この世に悪いものがあったとしても、それを裁くのではなく、あなたの御手に委ねることが出来ますように。あなたの御国が、この世にあっても大きく成長していることを感じることが出来ますように。そして私たちが、肉体を離れても霊的に成長していくものでありますように。あなたの御国に栄光がありますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆「毒麦」のたとえ
マタ 13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
マタ 13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
マタ 13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
マタ 13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
マタ 13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
マタ 13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
マタ 13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
◆「からし種」と「パン種」のたとえ
マタ 13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
マタ 13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
マタ 13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
◆たとえを用いて語る
マタ 13:34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
マタ 13:35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
◆「毒麦」のたとえの説明
マタ 13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
マタ 13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
マタ 13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
マタ 13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
マタ 13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
マタ 13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
マタ 13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
マタ 13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
◆「天の国」のたとえ
マタ 13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
マタ 13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
マタ 13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタ 13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
マタ 13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
マタ 13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
マタ 13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
◆天の国のことを学んだ学者
マタ 13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
マタ 13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
◆ナザレで受け入れられない
マタ 13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、
マタ 13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。
マタ 13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
マタ 13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」
マタ 13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、
マタ 13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。