家庭礼拝 2015年4月29日マタイ13章1‐23種を蒔く人のたとえ
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起
今日の13章は、ずっと譬え話が続きます。しかも種に関する話です。どうしてこのような例え話が続くのでしょうか。この譬え話が、いつ起こったかということを思い起こすと、それは、イエス様の弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を摘んで食べ、イエス様が安息日に手の萎えた人を癒し、ファリサイ人たちから、ベルゼブル論争を仕掛けられた後の話なのです。このときから、ファリサイ人たちはイエス様を殺そうと相談し始め、イエス様は、この人々に普通の言葉で話すのではなく、譬えでしか語られなくなったのです。それほど、この安息日の出来事は両者にとって、決定的な決裂となったのです。
譬え話と言うのは、抽象的な事や、理解しにくいことを、日常生活の出来事を例に出して、理解しやすいようにする話です。ですから譬え話を聞く人はその話から、相手が何を言おうとしているのかを見つけださなければなりません。この譬え話で終わってしまうなら、それは面白いかもしれないが、本当に大切な事は何も聞いていないと言うことになります。譬え話はその真理を直接教えてもらうのではなく、その話を類推して、真実を自分で発見して理解することなのです。
この13章の話は、すべて、天国の事を話しているのです。ですから、誰もその経験を持っていません。天国を知っているのはイエス様だけなのです。イエス様が天国や神の国について語っても、ユダヤ人たちはそれに心を開いて聞こうとしませんでした。イエス様の言うことはサタンの言っていることだから、みんな嘘だと決めつけて聞こうとしなかったのです。ですからイエス様は、その天国や神の国の話を直接するのではなく、譬え話でして、自分たちでその真理を見つけられるようにしたのです。自分で発見した真理ならば、信じることが出来るからです。人から教えられた真理は受け入れようとしないからです。
このようにイエス様は、すっかりかたくなになって、受け入れる気持ちを失ったユダヤ人たちに対して、譬え話で語ったのです。一方、イエス様の御言葉を受け入れ信じようとしている人々にはイエス様の言葉は理解できました。これは信じる者たちの方が理解力があると言うことではありません。信じる者たちは、聖霊の導きの力を与えられて、心が開かれて、理解することが出来るようになるのです。私たちは、信じると言うことを警戒して、もしきちんと理解出来たら信じようと思って、何とか理解することを先にしようとします。パリサイ人たちもそうだったのです。ですがこのような方法では本当の理解に入ることはできないのです。理解することが先なのではなく、信じることが先なのです。信じて初めて理解できる世界というものがあるのです。まさに信仰の世界はそのような世界なのです。信じることなくては、決して理解することが出来ないのです。私たちももしかして同じような間違いをしてはいないでしょうか。もっともっと勉強して、理解が進めば信仰も進むと思ってはいないでしょうか。それでは決して目的地に達することはできません。私たちが行うべき事は、イエス様を信じて委ねることなのです。そこから先は聖霊が導いてくださるのです。それを信じて歩むのです。
イエス様は天国の事を話すのに、種を用いて話をしました。どうしてでしょうか。その時イエス様の目に種を蒔く人が見えたのかもしれません。イエス様はここだけでなく、好んで種を用いて譬え話をされます。それは種は命だからです。種はその小さな粒の中に命を宿しているからです。その小さな粒の中に天国を宿しているからなのです。それは死と再生を現しているからなのです。
承
イエス様はどのような時に、この譬え話をしたのでしょうか。聖書を読んでみましょう。1節から2節です。
マタ 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
マタ 13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
イエス様は誰の家にいたのでしょうか。ここはカファルナウムの近くなので、ペトロの実家の家にいたのかもしれません。ここにはよく訪れていました。イエス様が家を出て、湖のほとりに座っておられると、大勢の群集がそばに集まってきたと書かれています。あまり人が押し寄せてくるのでイエス様は船に乗って腰を下ろし、少し岸から離れていました。すると群衆は皆岸辺に立って、イエス様が何かをするのを待っていたのです。この時です。イエス様は譬え話をなさったのです。
3節から9節までは、イエス様が語った種蒔きの譬え話が載っています。この譬え話は有名なのでほとんどの人が知っています。とても覚えやすいので良く心に留まっているのです。これが譬え話の大切なところです。心の中に残っていることが大切なのです。例え、イエス様の話を聞くまいと思っているファリサイ人でさえもその話は心の中に残っているのです。ですが大切なのはその譬え話から真理を見つけだすことです。イエス様が本当に言おうとしたことを見つけだすことです。
この譬え話の解説は、私がするよりもイエス様が、18節から23節の中で、自ら説明をしていますので、その時に詳しく聞いてみましょう。この譬え話は、群衆に対してなされました。その中にはファリサイ派の人々もいました。弟子たちはイエス様と一緒に舟に乗っていたのだと思います。ですから、いつもと違う話し方に、弟子たちは、「なぜ、あの人たちには譬えを用いてお話しになるのですか」と尋ねました。するとイエス様はこう答えたのです。11節から13節です。
マタ 13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
マタ 13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
マタ 13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
イエス様は弟子たちに、あなた方には天の国の秘密を悟ることが許されていると言いました。これは何か特別の事を知らされていると言うわけではありません。イエス様を信じるものは天の国を知るようになると言うことです。一方、信じようとしないパリサイ人たちに対しては、あの人たちには許されていない、と言っているのです。そして、持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる、と言いました。イエス様を信じる信仰を持っている人はさらに天の国の秘密を知らされるのです。そして、信じることと知ることが強めあって、ますます豊かになっていくのです。ですがイエス様を信じる信仰を持っていない人は、今まで持っていたわずかな信仰さえも失っていくことになると言っているのです。だからイエス様は彼等には譬えを用いて話すのだと言いました。それは見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからであると言うのです。すべての人を一人も失うことなく救うためにこの世にやってきたイエス様ですから、このようなパリサイ人たちに対しても、さらに何とか救おうとされているに違いないのです。普通の方法で話ても聞こうとしないのですから、譬え話で話して、その譬え話が心に残るようにしたのです。そして自分で真理を発見するようにしたのです。
ですがここの解釈を全く反対にする人もいます。それは譬え話をするのは、パリサイ人たちが、理解できないようにするためだと言うのです。それは次のイエス様が引用したイザヤの言葉にも関係があります。14節から17節です。
マタ 13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
マタ 13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
マタ 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
マタ 13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
イエス様はイザヤの予言を引用して、この予言はイエス様を信じないユダヤ人たちの上に実現した、と言いました。もともとのイザヤの予言は、理解できないようにしたと言うことですから、反対の解釈をする人たちは、だから、イエス様は彼らの耳をふさぐために譬え話で話されたのだと言います。理解できないようにするために譬え話で話したと言うのです。ですが譬え話とは相手に理解してもらうためにするものですから、このイザヤの予言がユダヤ人たちの上に実現したとしても、イエス様は譬え話をもって、ユダヤ人たちを救いへと導こうとしたのではないかと思っています。譬え話が心に残って自分から気づくようにしてくれたのだと思います。
そしてイエス様はこう言いました。「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」これは何を意味しているのでしょうか。それはメシアの到来です。多くの預言者や正しい人たちはメシアの到来を待ち続けました。ですがそれはユダヤ人たちが求めていた政治的なメシアではありません。それはヨブ記の中で、ヨブが必死になって探し求めた、仲保者としてのメシアです。義によってだけではなく愛によって救いに導くメシアです。そのメシアが今ここにいることをイエス様は宣言したのです。
転
さて、このように、イエス様は譬え話で話をした理由を述べてからもう一度譬え話に戻って、その意味を詳しく解説してくれました。イエス様の説明を聞く前にもう一度その種まく人のたとえ話を読んでみましょう。3節から9節です。
マタ 13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
マタ 13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
マタ 13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
マタ 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
マタ 13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
マタ 13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
マタ 13:9 耳のある者は聞きなさい。」
この様な種まく風景は、当時のユダヤ地方ではどこにでも見られる風景だったと思います。でもこの譬え話から、イエス様の伝えようとした真実を読み取らなくてはいけません。それぞれが何を意味しているのかを考えなければなりません。それが譬え話の役割なのです。それではイエス様の解説を見てみましょう。まず道端にまかれた種の18節19節です。
マタ 13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
マタ 13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
これは道端に落ちた種を鳥が来て食べてしまうと言う譬えの事です。ここで、種とは何でしょうか。先ほどは種とは命であり、復活の命だと言いましたが、ここでは御言葉と言うことになります。この御言葉に命があるのです。復活の命があるのです。この種がまかれるとはその御言葉、すなわち福音が述べ伝えられると言うことです。それでは種を蒔く人は誰でしょうか。それはイエス様自身です。その種が道端に落ちたと言うことはどういうことでしょうか。それはその御言葉を聞いた人が御言葉を大切に思っていないと言うことです。ほこりをかぶって放って置かれるような状態になっていると言うことです。その様な種を、鳥は見つけて食べてしまうのです。この鳥とはサタンの使いです。サタンはイエス様の御言葉を取り去ろうとするのです。ですからイエス様はこう言ったのです。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」
次の譬えは、石だらけの土地にまかれた種の5節と6節です。
マタ 13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
マタ 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ここで、石だらけの土地とは何を意味するのでしょうか。これはイエス様の説明を直接聞いた方がよさそうです。20節と21節です。
マタ 13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
マタ 13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
すなわち、石だらけの土地とはその信仰が根付かない人の心です。患難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまうような人の心なのです。その信仰に根がないためにすぐに枯れてしまうような人の事なのです。
三つ目の譬えはいばらの土地の譬えです。7節です。
マタ 13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
いばらの土地とはどんな心の人の事でしょうか。これもイエス様の解説を聞いた方がよさそうです。22節です。
マタ 13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
この人は御言葉を大切に思って、それを聞こうとはしているのです。そしてその芽はある程度成長するのです。ところが、その御言葉を第一とはしないで、いつもどっちが得かと計算しているような人なのです。このような、この世的な打算的な考えがはびこると、御言葉の教える教えを損と考え覆い隠して、実らないようにしてしまうのです。結局本気になって、御言葉に従うことの出来ない人なのです。たとえクリスチャンになったとしても、この世的な思いを捨てられなければ、このような茨の中にまかれた種の様に、実らない信仰生活を歩むことになるかもしれません。クリスチャンの中にもこのような人は多いかもしれません。
そして最後に実を結ぶ土地の話が出てきます。8節です。
マタ 13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
イエス様はこの事を解説してこう言いました。23節です。
マタ 13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
イエス様はいつも命の種を蒔いてくださっているのです。ですがそれを受け取る側が、道端であったり、石だらけであったり、茨であったりして、種がうまく育たず、実を結ぶことが出来ないのです。それは、私たちがイエス様の御言葉を受け取る姿勢の事を言っているのです。その姿勢が正しければ私たちは実を結ぶのです。その様なものを良い土地にまかれたものと言いました。その実は何十倍にもなり、百倍にもなるほどに豊かに実をつけることが出来るのです。それは豊かな命です。輝くほどの命なのです。そこに神の国が現れるのです。
結
イエス様は種を蒔く人の譬えを語られました。その教えは、イエス様の福音を受け止める姿勢によって、実を結ばなかったり、何十倍にも実を結んだりすると言うことを教えてくれました。イエス様の蒔いている種は、命の種であり、私たちの心の中で豊かに成長し、何十倍にもなって実を結ぶ命の種なのです。パリサイ人たちはその種を鳥に食べられてしまいました。そこには何も残りませんでした。ですがイエス様はそれでも何とか譬えを用いてその心の中に残る種を残しておいてくださったのです。この譬え話を聞いて、悟る人もいたのかもしれません。私たちも、この世の茨で、命の成長を止めることなく豊かな実を結ぶことが出来るようにと祈るものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様は私たちに大切な御言葉を心の中にまいてくださいました。私たちの心が、道端でなく、石ころでなく、茨でなく良い土地となりますように。そして豊かに実を結んで100倍にも実を結ぶことが出来ますように。そして永遠の命にいたることが出来ますように導いてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆「種を蒔く人」のたとえ
マタ 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
マタ 13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
マタ 13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
マタ 13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
マタ 13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
マタ 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
マタ 13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
マタ 13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
マタ 13:9 耳のある者は聞きなさい。」
◆たとえを用いて話す理由
マタ 13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
マタ 13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
マタ 13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
マタ 13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
マタ 13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
マタ 13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
マタ 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
マタ 13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
◆「種を蒔く人」のたとえの説明
マタ 13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
マタ 13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
マタ 13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
マタ 13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
マタ 13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
マタ 13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」