家庭礼拝 2015年4月22日マタイ12章38‐50イエスの母、兄弟
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起
先週の箇所では、パリサイ人たちはイエス様の奇跡の癒しを認めながらも、その力はベルゼブルから来るのだ。悪霊の頭の力で奇跡を行っているのだと言いました。それに対して、イエス様は「私が神の霊で悪霊を追い出している事は、その結ぶ実で分かるはずである。」と答えているのです。これだけで、イエス様が神様の使いであることが分かるはずですが、ユダヤ人たちはそれでも決して受け入れようとしないのです。
私たちが「イエスとは誰なのか」と問うとき、大きな論点は、イエスは神なのか人間なのかと言う論点で議論が分かれます。そして、そこに信仰を持つ人と持たない人の分かれ道が生じます。信仰を持つ人は、イエスを神として、その奇跡を行う力をも信じます。一方信仰を持たない人は、イエスはただの人間であるとして、その奇跡の出来事を全く信じないか、または何らかの科学的な根拠や論理的な説明を見出そうとします。ところがユダヤ人たちの論点は全く違うのです。イエスは神の使いなのか、サタンの使いなのかという論点なのです。即ち、イエス様の超自然的な奇跡を起こす力は完全に信じているのです。ですがその力の源が神様にあるのかサタンにあるのかの判断を正しくできないのです。このような出来事はユダヤ人の歴史上何度も起こっていました。自分は神であるという者、神の使いであるという者が現れて、人々を惑わすことが何度も起こっているのです。ですからそのような人々に対しては、ユダヤ人たちは決まって、「あなたがそう言うなら、そのしるしを見せてください。」と言うのが決まり文句なのです。そしてユダヤ人が期待しているそのしるしとは、天変地異の驚くべき奇跡を見せろと言うことなのです。イエス様は、旧約聖書の中で言われている、メシア予言のしるしである、眼の見えない人の癒し、手足の不自由な人の癒し、死人の蘇りなどのそのしるしを顕わしているのですが、それでもユダヤ人たちは認めないで、自分たちが信じられるようなしるしを見せろとイエス様に問い詰めてくるのです。それが今日の聖書の場面となります。
承
では聖書を読んでみましょう。38節から40節です。
マタ 12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
マタ 12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
マタ 12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に、「先生、しるしを見せてください」と言いました。これはしるしを見たら信じます、というよりも、信じられるようなしるしは起こせないだろうと思っているのです。すでにイエス様はさまざまな癒しの奇跡によってそのしるしを見せても信じてはいないのです。ですから、イエス様は、「よこしまで神に背いた時代の者達はしるしを欲しがる。」と言いました。それはいくらしるしを与えられても信じることが出来ず、さらにしるしを欲しがるのです。そしてそれはイエス様がユダヤ人たちに対して間接的に、「あなたたちは邪であり、神様に背いているから、しるしを欲しがるのだ」と言っていることなのです。そして、「預言者ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」と言いました。預言者ヨナとは、神様からニネベへ行って悔い改めるように述べ伝えなさいと言われましたが、ヨナが嫌がって反対の方向に行く船に乗って逃げだしたのです。すると嵐になり、ヨナはその原因が自分にある事を乗組員たちに言って、船から海に投げ入れられたのです。すると大きな魚がヨナを飲み込んで、ニネベまで運んだと言う話があるのです。
ここで、イエス様が言ったヨナのしるしと言うことにはいくつかの解釈があります。ふつうは、このマタイが語っているように。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」と言う復活の理解です。実はこの事は、マタイだけに書かれていて、マルコやヨハネには何も書かれていません。ルカに似たような表現で書かれていますが、大きな魚の話や、三日三晩と言う話はないのです。参考にルカの11章29節から32節を読んでみますとこうなります。
11:29 さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
ここには魚に飲み込まれた話は何も書かれていないのです。ただ、ニネベに対してはヨナがしるしとなったと言うこと以外には書かれていないのです。すなわち、ニネベの人たちはヨナに対してしるしを求めずにヨナを信じたのです。なぜなら、ヨナ自身が神様の使いのしるしであることが分かったからです。このようにしるしを求めると言うのは信じようとしないものがすることなのです。反対に、ユダヤの人々はイエス様にしるしを求めて、イエス様自身がしるしであることを受け入れなかったのです。だから裁きの時にはヨナの説教で悔い改めて、しるしを求めなかったニネベの人たちは、裁きの時にイエス様と言うしるしを見ても信じなかったこの時代ユダヤの人々を裁くだろうと言っているのです。
マタイはこのしるしというものを、復活のしるしと解釈しました。それでヨナが大きな魚に飲み込まれて三日三晩の後に蘇ったように、イエス様も十字架にかけられて、三日三晩の後に蘇る、それがしるしであると理解したのです。ですが、イエス様が復活したのは三日三晩ではなく、三日二晩なのです。ですからこの話はマタイがしるしというものを違った意味でで解釈してしまったものと考えられます。
この後の話も続けて読んでみましょう。41節と42節です。
マタ 12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
マタ 12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
結局、ニネベの人々も地の果てから来た女王もしるしを求めることなくヨナやソロモンを信じたのです。ですからこのユダヤの人々は裁きの時に、しるしを求めずに信じたニネベの人々や女王によって罪に定められるだろうと言っています。ましてや、ここにヨナやソロモンにまさるものがいる、それが私だ、とイエス様は言っているのです。ヨナやソロモンにまさるものがいるのに、なぜあなたたちはしるしを求めて、信じることをしないのか、悔い改めることをしないのかと強く語りかけているのです。。
転
ここで突然イエス様は汚れた霊の話をし始めます。これは一体何を意味するのでしょうか。何の目的で語ったのでしょうか。もう一度読んでみましょう。43節から45節です。
マタ 12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
マタ 12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
マタ 12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
この例え話自体は、分かりやすく、なるほどそうだなと納得させられます。でもこの話で何を言おうとしているのでしょうか。この汚れた霊は家から追い出されたのです。追い出された霊はその当時、砂漠のような水の無いところをうろついていると考えられていました。ですが悪霊にも住むところが必要なのです。それで出てきた我が家に戻ろうとするのですが、この悪霊はなぜ追い出されたのでしょうか。この家に例えられているのは、律法を守って生きようとしている人の魂です。この話は、律法にルーズだった人が、その間に汚れた霊に入り込まれてしまい、悔い改めて律法を守ることによって、悪霊を追い出し、心をきれいにしたのです。心は掃除がされてあり、整えられていたのです。その律法をきちんと守ろうとしている間は、心を掃除しているようなものだったのです。悪霊は滅ぼすことはできません。追い出すことが出来るだけです。再び入り込まないようにするためには別のものが必要なのです。ですがその人の魂は空き家のままだったのです。そこには入るべきものが必要だったのです。この我が家に戻ろうとした悪霊は自分よりも悪い他の7つの霊も一緒に連れて来てそこに戻ってきました。簡単に追い出されないようにするためかもしれません。悪霊は前よりも綺麗になっていたのでそこに又住みました。何故悪霊は再びその家に入れたのでしょうか。律法を守る努力はいつか疲れ果ててしまうのです。いつも掃き出していないといけないからです。ですから疲れ果ててしまった隙を狙って、悪霊たちはまた入り込むのです。入り込んでしまったより多くの悪霊たちによって、その人は前よりも状態が悪くなりました。イエス様は、今の時代の人々もそうであり、このように形だけ整えていても、もっと悪い霊に取りつかれて、さらに状態が悪くなるだろうと言っているのです。では律法によって心を掃除した後に何が入ればよかったのでしょうか。それはイエス様の聖霊なのです。イエス様の聖霊に入っていただければ、いつも律法によって掃除をしていなくてもその心は清く保たれ、悪霊たちは入り込むことが出来ないのです。その聖霊を心に招かないで、ただ、部屋を律法によってきれいにすることだけを考えているユダヤ人たちは、そのうちきっと悪霊たちに乗っ取られてしまうだろうと言っているのです。イエス様を信じることなく聖霊を受け入れないユダヤ人たちを批判したのです。聖霊を冒涜した罪の報いを語ったのです。
その時、ある人がイエス様に、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言いました。多分家族全員でイエス様に何か言いに来たのです。ここに父上と言う言葉がないのでこの時にはすでに亡くなっていたのです。いったい何を言いに来たのでしょうか。この家族が会いに来た話は、マタイとマルコではベルゼブル論争との関連の中で語られています。マルコ福音書3章21節ではそのベルゼブル論争の始まる前に、こう書かれています。
3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。
身内の人たちはイエス様を連れ戻しに来たのです。ただ単に会いに来たのではないのです。何故連れ戻しに来たかと言うと、気が狂ったと言う人々がいたからです。お前の息子は自分をメシアだと思っている、悪霊に取りつかれている、と言ったものがいるのです。多分それは律法学者達やパリサイ人たちだと思います。その言葉を信じ脅かされて、家族のものが総出で連れ戻しに来たのです。
イエス様は家族がなぜ会いに来たのかはわかっていました。自分の家族でさえも自分の事を信じることなく、他の人たちの言った気が狂っていると言う言葉を信じていることが分かっていたのです。
それでこう言いました。48節から50節です。
マタ 12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
マタ 12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
マタ 12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
この話をよく理解できない時は、せっかく会いに来た家族に対してなんと冷たい態度をとるものだろうと思ったりするのですが、そこには、「イエスは狂っている、悪霊に取りつかれている」と思わされてしまった家族の事を考えての事なのです。そしてこう言ったのです。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」イエス様は本当の家族とは誰かを言ったのです。それは単に肉体的な家族ではなく霊的な家族であることを言ったのです。そして、弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」イエス様の本当の家族とは、天の父の御心を行う人である、と言うことなのです。ですから、私たちも天の父の御心を行うことによって、イエス様の家族となっているのです。イエス様は弟子たちの方を指さして言われましたが、それは決して12弟子達だけの事ではありません。そこには姉妹も、母もいるわけですから、イエス様を信じて神様の御心を行う人みんなが家族であると言っているのです。たとえ肉体的には家族であったとしても、神様の御心を行わなければ家族ではないと言っているのです。ですが、家族中の人から反対されているように見える、イエス様ですが、お母さんのマリア様はイエス様の十字架の最後まで共に居ました。そして、兄弟のヤコブもまた、イエス様の教えを信じてエルサレム教会の指導者となって、殉教したのです。イエス様の家族は本当の家族となって行ったのです。
結
ユダヤ人たちは、自分たちの考えが正しいと思い込み、イエス様を最後まで受け入れることをしませんでした。そして、イエス様こそ神様から遣わされた人であることのしるしに他ならないのに、それでもなおしるしを求め、ただ自分たちの立場を守ることだけを考えていたのです。信仰はしるしや証拠によって信じるものではないのです。イエス様自体がしるしなのです。それ以外の根拠はいらないのです。極端な事を言うと、教会も聖書も必要ないのかもしれません。教会や聖書は、イエス様を正しく理解するために必要なのです。教会や聖書にしがみついてイエス様と直接触れ合い受け入れることを拒む人は、教会や聖書に捉われることなくイエス様に直接結びつく人の方が、よりイエス様の教えに近い人なのだと思うのです。自己満足的に、いかに自分の心を掃除しても、最後は疲れ果て、悪霊の住む空き家になってしまうかもしれません。私たちはその心にイエス様の聖霊を豊かに受け入れていくことが大切なのではないでしょうか。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。どうか私達もまたしるしを求めることなくイエス様を信じるものとさせてください。あなたは既に多くのしるしを残されました。私たちはその事を心を開いて受け入れていくだけ出す。信じてあなたの家族の一員となることが出来ますように。信じて、神様の御心を行っていくことが出来ますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆人々はしるしを欲しがる
マタ 12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
マタ 12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
マタ 12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
マタ 12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
マタ 12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
◆汚れた霊が戻って来る
マタ 12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
マタ 12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
マタ 12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
◆イエスの母、兄弟
マタ 12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
マタ 12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
マタ 12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
マタ 12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
マタ 12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」