家庭礼拝 2015年4月8日マタイ12章1‐21安息日に麦の穂を摘む
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起
今日の12章はイエス様とユダヤ人たちとの関係が決定的になる場面です。イエス様はどうして、十字架につけられて殺されたのでしょうか。ある個所では、ユダヤ人たちがイエス様を妬んで殺したのだと言っています。妬んだと言うのはイエス様の人気や奇跡を起こす力を、うらやましく思い、嫉妬して妬んだと言うことですが、本当にそのようなこの世的な理由でしょうか。
もっと別な宗教的な理由があるのではないでしょうか。その問いに答える出来事が今日の12章に書かれているのです。それは安息日の守り方なのです。これは律法に記された、守らなければならない事項の一つですが、ユダヤ人たちはイエス様を、この安息日の破壊者であると受け取ったのです。ユダヤ人たちはこの安息日を守る事と割礼を受けることを、神様との契約として受け取っていました。ですから、これを破ると言うことは神様との契約を破ると言うことになって、民族全体に災いを起こすかもしれない重大な出来事としてとらえていたのです。では安息日とは何でしょうか。それは神様の天地創造の時に、7日目に仕事を全部終えられて、休まれたと言うことに起因して、人間もその日には仕事をしないで休む日となったのです。もともとは休みを与えようと言う、そのような人間に対する思いやりのある律法でした。
そもそも律法とは、神様の前に正しく生きるためのガイドラインでした。神様の前に正しく生きなさいと言われてもわからなかったので、このようにすることが神様の前に正しく生きることなのですよと具体的に教えた事柄なのです。目的は神様の前に正しく生きることであって、律法はそのための方法、手段であったのです。ですが、いつの間にか神様の前に正しく生きるとはどういうことなのかを忘れてしまって、ただ、律法を守れば正しい生き方になるのだと思い込んでしまったのです。それでとにかく律法を守ることに集中して、律法を守ることが信仰をもって生きることであり、救われることなのだと理解してしまったのです。それで律法を守るとはどういうことかを事細かに決めた口伝律法なるものが出来て、それが人々の生活を苦しいものにしていたのです。何をするにしても律法の制限を受けたのです。
安息日に関しても、細かい規定が沢山出来ていました。もともとは、仕事を休んで、神様に祈る時を持ちなさいと言うことだったのですが、いつの間にか、仕事をしてはいけないと言うことになってしまったのです。そして仕事とはどんなことを言うのかと言うことが事細かに決められました。今日の聖書に出てくる、「麦の穂を摘む」と言うことも仕事とみなされ、弟子たちが非難されることになるのです。
ですがイエス様の安息日の理解はそのような規則を守る事ではなかったのです。ですが、ユダヤ人たちの従来のやり方から見ると、イエス様は安息日を守っていないと言うことになって、イエス様が公然と安息日の規定を破り、弟子達にも破らせ、人々を罪の道に導いていると言うことになったのです。パリサイ人たちは、最初はイエス様のやることを観察しているだけでしたが、だんだんと論争をするようになり、最後には殺そうと言う原因になったのがこの安息日の理解の仕方なのです。決してねたみから殺したのではなくて、自分たちが大切にしている安息日の律法を守らず、神様を冒涜していると言う重大な理由なのです。もう一つ殺される大きな原因になったのは、神殿を冒涜したと言う理由でした。ですが、ユダヤ人とイエス様の関係が決定的になり、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうと思い始めたのが、この安息日の考えの違いが一番大きかったのです。
承
ではどんなことが起こったのかを、今日の聖書から見てみましょう。1節と2節です。
マタ 12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
マタ 12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
イエス様たちの一行は、安息日に麦畑を通られました。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めたと書かれています。私たちの感覚ですと、他人の畑のものを勝手にとって食べてはいけないだろうと思いますが、ユダヤ教の教えはもともとは人に対して非常に優しい教えなのです。このようにおなかのすいた人が手で、麦の穂を摘んで食べることは許されていたのです。これは今でも、麦の穂を摘んで食べる人がいるそうです。ところがファリサイ派の人々がこれを見ていました。ファリサイ派の人々はイエス様たちに疑念を懐いて、いつも監視していたのです。そして、律法の教えに背いていないかを監視していたのです。そして、その律法の教えに背くことを見つけてこう言ったのです。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言いました。このファリサイ派の人々が問題にしたのは、麦の穂を摘んで食べたことではなく、それを安息日にしたことを問題にしているのです。しかも弟子たちに対して、指摘しているのではなくその先生である、イエス様に対して言っているのです。弟子の罪はその先生の罪なのです。何故、麦の穂を摘んで食べることが律法に反したのでしょうか。それは仕事をしたことになるからです。麦の穂を摘むことは収穫の仕事であり、手でもむことは脱穀の仕事であり、食べることは、食事の準備をする仕事なのです。食べたこと自体よりも、安息日にしてはならない仕事をしたと言うのがファリサイ派の人々の指摘なのです。このように律法は人々の生活の一つ一つの行為に対して、規制をしていたのです。その様な律法を研究しているのがファリサイ派の人々や律法学者なのです。そして人々に対して、こうしなければならないと、規則の重荷を負わせていました。
それに対して、イエス様はこう答えられました。3節から6節です。
マタ 12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
マタ 12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
マタ 12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
マタ 12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
イエス様はファリサイ派の人々の律法の議論に対しては聖書の言葉によって答えました。一つはダビデの話です。ダビデがサウロに追われて逃げているときに空腹になり、神殿に入り、祭司の他には食べてはいけない、神殿の供え物のパンを食べたという記述があるのですが、それに対しては誰もそれをしてはいけないとは言っていないのです。また、神殿の祭司は神様に備える捧げものを準備するのに、安息日でも働いており、それは赦されていたのです。たとえ安息日でも、許される人がいると言うことです。ダビデや祭司長は安息日でもその掟に縛られることなく、行えたのです。そこで、イエス様は大胆にもこう言ったのです。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」イエス様は、この話の中に神殿よりも偉大なものがあって、律法の掟から自由なものがあるではないか、と言いました。それは、人間の必要が律法の掟に優先すると言うことかもしれません。そして暗に、自分は神殿よりも偉大なものであり、当然それに仕える祭司長たちやダビデよりも偉大なものであるから、律法の掟に対しては自由なのだ、と言うことを言おうとしたのかもしれません。
そして、安息日の本当の意味を聖書から解き明かしました。27節28節です。
マタ 12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
マタ 12:8 人の子は安息日の主なのである。」
イエス様は神様の御心を語りました。それは、『わたしが求めるのは憐れみであって、生贄ではない』と言う言葉でした。神様の求めているのは憐みなのです。安息日の規定も、もともとは人間を休ませようと言う憐みなのです。それを、ファリサイ派の人々はその事を理解せず、律法によって人々をとがめ、生贄のような人間を捧げようとしていたのです。それは間違いであるとイエス様は言ったのです。そして「人の子は安息日の主なのである。」と言いました。この人の子をイエス様と理解することも、人々と理解することもできます。たとえ安息日であっても、ダビデがその必要からパンを食べ、祭司長たちがその必要から仕事をしたように、人々もまた、たとえ安息日であっても、その必要な事をすることが出来る、人の子は安息日の主なのであると言ったのです。そしてまた別の理解は、イエス様こそ安息日の主なのであるから、その安息日の規定に優先すると言うことなのです。
転
さて、イエス様はその論争が終わって、会堂に入られました。礼拝するためです。イエス様は決して安息日の破壊者ではないのです。このようになすべきことは守られたのです。ただ、人間が勝手に解釈して作り上げた、口伝律法に対しては従わなかったのです。
イエス様が会堂に入られると、そこには罠が仕掛けられていました。イエス様が安息日の規定を守るかどうか、皆の見守る中で、試そうと言う試みがなされようとしていたのです。ファリサイ派の人々は、イエス様の安息日の律法を守っていないと言う証拠と証人を集めようとしていたのです。9節と10節です。
マタ 12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
マタ 12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
ファリサイ派の人々が仕掛けていた罠は、イエス様が安息日に病気を治すかどうかと言うことでした。そのためにわざわざ片手の萎えた人まで用意していたのです。イエス様はきっと直すと考えて、この罠を仕掛けたのです。そこには片手の萎えた人がいましたが、この人々はそのような障害に苦しむ人の心は全く理解しようとしていませんでした。ただイエス様に論争を吹きかける道具としてしか見ていないのです。それに対して、イエス様はこう答えられました。11節から14節です。
マタ 12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
マタ 12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
マタ 12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
マタ 12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
イエス様は、この事はファリサイ派の人々の罠であることは分かっていました。ですが、イエス様は安息日の本当の意味を教えるためにこう言いました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」これは口伝律法では許されていたようです。羊が穴に落ちていた場合、安息日でも助けることが出来ると言うことです。すなわち、安息日であっても、良いことをすることは許されると言うことなのです。イエス様は、人間は羊よりもはるかに大切なものではないか、安息日に良いことをされるのは当然ではないのか、と言って、安息日であっても癒しをすることは正しい事なのだと言ったのです。
そしてその片手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。その人が手を伸ばすと元通りよくなったのです。この人はイエス様を信じていたのです。イエス様が癒しの奇跡を行うことの出来る預言者かメシアだと信じていたのです。だから、手を伸ばしなさいと言われて、それを疑うことなく信じて手を伸ばしたのです。もしそのような信じることが無かったら、その人は今までも手を動かすことが出来なかったのだから、これからもそうだろうと考えて、手を伸ばすことはできなかったのです。ですから、私たちにはそれまでの考えに捉われず、イエス様の呼びかけがあったならば、信じて手を伸ばすことが大切なのです。そこに奇跡が起こるのです。
ファリサイ派の人々は、この奇跡を見ました。多くの人々はこのような奇跡を見て、イエス様の事を信じたのです。言葉よりも、その業によって信じたのです。ですがファリサイ派の人々は、どんな奇跡を見ても信じませんでした。かえって悪く考えていました。イエス様の行った業は、サタンの力によって行っているのだと考えました。そして、信じるどころか、どのようにしてイエスを殺そうかと相談していたのです。この会堂での癒しが決定的になって、ついにユダヤ人たちはイエス様を殺すことに、腹を決めたのです。そういった意味で、この箇所はイエス様の大きなターニングポイントになっているのです。それで、イエス様はこのようにしたのです。15節から17節です。
マタ 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
マタ 12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
マタ 12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
イエス様は彼らが殺そうと考えているのを知って、そこを立ち去られました。ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの奇跡を見ても信じませんでしたが、大勢の人々はそれを見て信じたのです。だから、大勢の人々がイエス様に従って来たのです。イエス様は、安息日であったけれども、皆の病気を癒してあげました。ですが、それをしたご自分の事を言いふらさないようにと戒めました。それは、イエス様を殺そうとしているユダヤ人たちを過度に刺激しないことでもありましたが、イエス様の事を本当には理解していない人々が、間違った理解をしないようにするためでもありました。それはイエス様を政治的なメシアに祭り上げることです。イエス様の時はまだ来ていないのです。
マタイはイエス様の働きを、イザヤ書42章1節から4節を引用してこう言いました。マタイ12章18節から21節です。
マタ 12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
マタ 12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
マタ 12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
マタ 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
これは直接メシアの事を語られた言葉ではありません。ペルシャのクロス王の事を語っているのです。ですが、クロス王が自分では気づかずにやっていることが、実は神様に用いられて行ったことをイザヤは語っているのです。ですが、マタイはそこにイエス様の予言を見たのです。「私の選んだ僕、私の心に適った愛するもの」を、イエス様の事として受け取ったのです。そこには、争うことなく、正義を行うイエス様の姿を見たのです。そしてすでにそこには異邦人伝道の事が語られているのです。ですから、このイザヤ書が引用されたのは、実際に異邦人伝道が行われていた時期だと考えられるのです。ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていることが、結局異邦人伝道へとつながって行った事を語っているのです。マタイはそのような事実をも考慮しながら、このイザヤの予言を引用したのです。
結
イエス様は安息日を、人々から解放しようとしました。もともと恵みの日であった安息日を、ユダヤ人たちは、あれこれをしてはならない日にしてしまったのです。たとえ良い事でもしてはいけないと言って、人々に重荷を負わせたのです。それに対して、イエス様は神様は慈しみの神様であり、たとえ安息日であっても、人々の必要のために良いことをすることが、律法に優先するのだと言ったのです。そして、人々が癒しを求めているのであれは、それを癒してあげることが善い事であり正しいことではないかと言ったのです。ですが、昔からの安息日を守る方法を固く信じて、一切の仕事をしてはいけないと考えていたユダヤ人にとってはイエス様の行為は安息日の破壊者のように思われたのです。それは神様を冒涜することだと考えたのです。そして、ついにイエス様を殺そうと考えるところまで行きました。このようにユダヤ人たちはイエス様を否定したので、イエス様の教えは異邦人たちに行くことになったのだとマタイは語っています。
長い間信仰を守っている人たちは、いつの間にか、伝統的な考え方に縛られて、それを守らなければいけないと考えてしまうものです。それは現代の私達でも同じです。大切なのは神様の御心を行うことです。神様の御心を知る事です。規則や伝統を守る事ではないのです。ですから私たちが、直接神様と対話する時間がどれだけ大切かを教えられるのです。静かな瞑想の時間や祈りの時間が大切なのです。私たちが神様に歩むべき道を尋ねれば、きっと神様はその道を示してくださるのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様は危険を賭して、私たちに神様が慈しみを求められる神様であることを伝えようとしました。私達の必要があるならば、神様はそれを慈しまれて、それに答えられる方であることを示されようとしました。この事を知ることが出来感謝であります。神様は愛の神様で、規則で縛るような神様ではありませんでした。ですがパリサイ人たちは、その規則を守らなければ、神様に罰せられると考えて、人々にその重荷を負わせました。イエス様はそれは間違っているとはっきりと示されました。そのおかげて、私たちは義務と規則の束縛から解放されました。私たちはあなたの御前で自由に生きることが出来ることを感謝いたします。神様はイエス様が教えて下さったように、戒め罰する神様ではなく、赦し愛する神様です。どうか私たちがいつもあなたの御心を覚え、あなたがなさる御業を覚えて歩んでいくことが出来ますように。あなたが私たちを愛してくださっていることを信じて、応えていくことが出来ますように導いてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆安息日に麦の穂を摘む
マタ 12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
マタ 12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
マタ 12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
マタ 12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
マタ 12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
マタ 12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
マタ 12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
マタ 12:8 人の子は安息日の主なのである。」
◆手の萎えた人をいやす
マタ 12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
マタ 12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
マタ 12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
マタ 12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
マタ 12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
マタ 12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
◆神が選んだ僕
マタ 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
マタ 12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
マタ 12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
マタ 12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
マタ 12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
マタ 12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
マタ 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」