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起
今日の聖書の箇所には小見出しが二つあり、最初は「悔い改めない町を叱る」、次は「私のもとに来なさい。」となっています。これは、イエス様を受け入れる人々と、受け入れない人々を対比させて語っています。実はこのイエス様を受け入れるのか、受け入れないのかと言う話は、10章の後半から11章にかけてずっと続いているのです。10章32節の、「イエスの仲間であると言い表す」と書かれた小見出しの部分もそうなのかもしれません。本格的には10章40節の「受け入れる人の報い」と言うところから続いています。ここで、イエス様は、イエス様の御言葉を受け入れるものはどうなるのか、受け入れないものはどうなるのかと語っているのです。
イエス様を受け入れるのか受け入れないのかは、単に言葉だけではなくその働きによって、知りなさい、とイエス様は言いました。先週学んだ最後の箇所の、「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と言う言葉がそれを物語っています。だからイエス様はヨハネの弟子たちがやって来て、「来るべき方はあなたでしょうか。」と言うヨハネの質問に答えるときに、理屈によってではなく事実によって、その働きによって、教えたのです。それは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と答えたのです。それはイエス様の働きであり、奇跡の働きなのです。ヨハネのような信仰者にはこの働きを事実として伝えるだけで十分でした。それを受け入れる、心があったからでした。
ですが、問題なのは、いくらイエス様が奇跡の働きをしたとしても、それを奇跡として受け取り、悔い改めて、イエス様に従おうとしない人々がいたことでした。その人たちは奇跡を認めようとしなかったのではなく、それが奇跡である事さえも気がつかない人々だったのです。
それは私たちの人生の中、生活の中でもそうなのです。どんなに身近にそのような奇跡が起こっていたとしても、それが奇跡であると気がつかないのです。最初はその良き出来事を喜んでも、過ぎてみれば、当たり前のことにしか感じられず、感謝することも祈る事もしなくなるのです。これは恐ろしい事なのです。奇跡を奇跡として認めるためには、そこに神様の御手の働きを感じないことには難しいのです。奇跡として感じない人々は、「それは単に運が良かったからだ」としか思わないのです。単なる偶然としか思わないのです。ですが、そこに奇跡を認め受け入れる人々は、そこに神様の御手の働きを覚えて、その物事の意味を悟り、それが奇跡であることを受け入れて、感謝するのです。そこには自分の力ではありえないと言う謙遜な思いと、神様の恵みが与えられたことの深い感動があるのです。奇跡を受け入れられない人々には、人生に与えられている、このような深い感動を覚えることがなく、単なる当たり前の事として、詰まらなく人生を過ごしてしまうことになるのです。
承
それでは今日の聖書箇所に入ります。最初は20節です。
マタ 11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
マタ 11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
マタ 11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
イエス様はここでいきなり、コラジンの町の人々やベトサイダの人々の事を叱り始めました。この二つの町は、ガリラヤ湖の北側にある町であり、ベトサイダはペトロとアンデレ兄弟、そしてピリポの故郷でもあります。イエス様のガリラヤ宣教は、ペトロの家を拠点としていましたので、ここで言われるガリラヤ地方のコラジンやベトサイダを叱っていると言うのはちょっと意外な気もします。それもただ叱っているのではなく、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書などの預言書で、その滅びを予言されたティルスやシドンと言う、異邦人の罪に満ちた町々よりももっとひどいと言われているのです。
なぜイエス様は、コラジンやベトサイダをそれほどまでに悪く言うのでしょうか。それは、コラジンやベトサイダは、イエス様の奇跡の数々を見ているのに、それを無視し、悔い改めをしなかったからです。神様はイエス様の奇跡を通して、この町々の人々に悔い改めて、イエス様の教えに従うようにと示されたのです。ですがこの町々の人々は、それを無視したのです、すなわち、神様の何とか救おうとする行為を無視したのです。ティルスやシドンの人々も神様を無視し、罪を犯したのですが、神様の業である奇跡は示されていなかったのです。ですが、コラジンやベトサイダの人々には、その奇跡を示されたのに、信じることなく悔い改めることなく、それを無視したので、イエス様はコラジンやベトサイダの方がティルスやシドンよりも罪が重いと言って叱っているのは、そのためなのです。イエス様は、怒りでもって叱っているのではありません。何とか救おうとして、いろいろな奇跡を示したのにもかかわらず、救うことが出来なかったことを悲しんで叱っているのです。裁きの日に与えられるであろう罰を思って悲しんでいるのです。
これは私たちにおいても同じなのです。私たちには聖書が与えられ、イエス様の教えが与えられ、導きと奇跡とが与えられているのに、それでも、それは何でもないことだと無視し続けることの中に大きな罪があるのです。多くの奇跡の恵みが与えられているのに、恩を仇で返す様な、その恵みを無視した生活がいつか裁かれる時が来るとイエス様は嘆いているのです。裁きの日に与えられる罰の大きさを思って嘆いておられるのです。私たちの何でもないような生活の中に、このような奇跡の恵みの数々がある事を覚えて、感謝と賛美とを捧げることが、まず第一歩なのです。決して当たり前と考えてはいけないのです。
また、その近くのカファルナウムについても叱りました。この町はベトサイダやコラジンよりも大きな町で、収税所やガリラヤの役人たちや、会堂などもあって、繁栄している町でした。イエス様のガリラヤ伝道の最大の拠点とされたところです。そのおひざ元の町に対しても同じように叱っているのです。23節と24節です。
マタ 11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
マタ 11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
カファルナウムは繁栄し、活気があり、まるでこれからいくらでも繁栄して天にまで登りそうな勢を感じていたのだと思います。自分たちの力を誇り、思い上がっていたのかもしれません。ですからイエス様は、「カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」と言ったのです。それはやはり、イエス様が示された奇跡があっても悔い改めることなく無視したからです。この町に対してはやはり悪徳の町ソドムを引き合いに出して、この町の方が、お前よりもまだ軽い罰で済むのである、と言っています。それはやはり、奇跡を示されても悔い改めないのは、奇跡を知らずして悔い改めないことよりも罪が重いと言うことなのです。もし滅ぼされてしまったソドムにこの奇跡が示されていたら、悔い改めて生き延びただろうと言っているのです。そしてイエス様は、コラジンやベトサイダ同じように、悔い改めることをしないカファルナウム人々のことを思って悲しみ嘆いているのです。
転
しかし突然、イエス様の嘆きの語調は、賛美の語調に変わります。これはもしかすると神様からの啓示があったのかもしれません。失ったものを嘆くのではなく、与えられているものに感謝しなさいと言う啓示が与えられたのかもしれません。ここで、その語調は一転して、イエス様によって悔い改めを得て、イエス様に従った人々の事をこう言われました。25節と26節です。
マタ 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
マタ 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
先ほどまでは、数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めることをしないことを嘆いていましたが、イエス様は神様に、あなたをほめたたえますと言い、これは御心に適うことでしたと賛美しました。いったい何が起こったのでしょうか。イエス様は、悔い改めない人々を見るのではなく、悔い改めた人々を見たのです。イエス様に従っている、福音を受け入れた多くの人々を見たのです。その人々は決して、知恵あるものや賢いものではなかったかもしれませんが、幼子のように素直な人々でした。イエス様の奇跡の真の意味を理解したのはそのような人々だったのです。それがむしろ御心に適うことだとイエス様は気がつき、神様をほめたたえたのです。
神様の言葉は出来事です。出来事を通して語っているのです。だからイエス様も、知恵の正しさは、その働きによって証明されると言っているのです。イエス様は、悔い改めない人々の方ではなく、悔い改めた人々の中に神様の御心を知ることが出来たのです。私達もまた、出来ないこと、持っていないことに目を奪われるのではなく、出来ること、持っているものに目を向けて、神様の御心を知ることが大切です。その中にこそ、神様の奇跡の御業が示されるからです。それを知ることが出来るのは幼子のような素直な心なのです。決して、知恵あるものや賢いものがそれを知るとは限らないのです。むしろ、知恵や賢さの思い高ぶりが理解を邪魔していることにもなるのです。それが神様の御心なのです。
そしてイエス様は高らかにこう宣言したのです。27節です。
マタ 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
イエス様がこのように、ご自分の事を神様と特別の関係にあるもの、すなわち神の子と宣言されたのは共観福音書ではここだけなのです。ヨハネ福音書には、そのような記述が多数ありますが、共観福音書には少ないのです。イエス様は、すべての事は父から私に任せられている、と言いました。全権を持っていると言うことなのです。神様と等しいと言うことです。その神様以外には、イエス様の事を知る者はいないとも言いました。そしてイエス様が許した者しか、神様の事を知ることが出来ないのだと言ったのです。私たちが、神様の事を信じることが出来るのは、イエス様が、その事を赦して下さったからです。私たちが洗礼を受けたのはその証です。そしてその許された者だけが、イエス様を通して神様を知ることが出来るのです。決して学べば理解できることとは違うのです。賢ければ信じられるとは限らないのです。信じて受け入れるものだけが理解できる世界なのです。
そしてイエス様は、また語調を変え、とても優しい言葉でこう言いました。28節から30節です。
マタ 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタ 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
マタ 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
この御言葉は、とても有名だし、心にしみる言葉なので一度聞けば、決して忘れない言葉だと思います。私も若い時に、悩みで苦しんでいるとき、何度この言葉に慰められたかわかりません。きっと今でも多くの若者がこの言葉に支えられて生きていると思います。悩みに疲れ果て、どこにも頼ることが出来なくなった時、この言葉に出会うと、言いようのない慰めを受けるのです。
ここで言われている、疲れたもの、重荷を負うものとは、現代社会では、ストレスを感じて苦しんでいる人々と理解しても良いのですが、もともとは違うのです。もともとは、旧約の律法による重荷で、疲れ果てた人々と言う意味なのです。旧約時代のユダヤの人々は、何をするにも、その律法の制限を受け、どんなに貧しくとも、いつも神殿に捧げものをしなければなりませんでした。人々はその律法の制限と規制の重荷にあえいでいたのです。何をするにも、こうしなければならない、ああしなければならないと言う、規制に従わなければならなかったのです。
イエス様はそのような重荷にあえいでいる人々に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ったのです。イエス様の律法はただ一つ愛することなのです。だから、私の荷は軽いと言っているのです。たとえ同じことをするにしても義務からするのではなく、愛する気持ちからするならば、それは喜びとなって荷が軽くなるのです。義務からするものはその荷が重くなるのです。
イエス様の軛を負いなさい、イエス様の軛は負いやすくその荷は軽いと言いました。軛とは、牛や馬が、畑を耕す時などに、首に木をかけて、後ろの農具を引っ張るものです。家畜が複数いる場合はそれを横一列に並べて軛を掛けて、引っ張るのです。ですがその軛はその牛や馬にちょうどピッタリしていないと肌がすり切れて首が痛くなるのです。伝説によると、イエス様は大工でしたので、その軛を作る名人だったと言うことです。首の痛くならない軛を作るのです。イエス様の軛とは愛の業をすることなのです。そしてその軛のもう一方にはイエス様が共に居て、その軛を引っ張ってくれるのです。ですから、その軛は負いやすく、その荷は軽くなるのです。そのイエス様の軛を負ってイエス様に学ぶなら、あなた方は安らぎを得ると言いました。私たちは、イエス様が共に負って下さるその軛を喜んで共に負い安らぎを得たいと思うのです。
この御言葉はとても有名なので、共観福音書にはみんな書いてあるのかと思うと、実はこのマタイにしか書いていないようです。マタイは一体どこからこの言葉を聞いてきたのでしょうか。もしかすると、マタイ自身もこの重荷を負っていた人だったので、イエス様から直接聞いて慰められたのかもしれません。とても慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。
結
今日の聖書の箇所では、イエス様の語調がどんどん変わっていきます。最初は、悔い改めない町々を嘆いて叱り、救い得なかったことを悲しんでいるようにも思えます。ところが一転して、その救いが、幼子のような人々に示されていることを賛美して、このようになる事は神様の御心にかなうことでした、と喜んでいるのです。そして誇らかに、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」と宣言いたしました。するとまた一転して、とても優しい語調で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言うのです。イエス様の語調がこれほど、大きく変化する箇所を私は知りません。ここにイエス様の息吹を感じます。イエス様の愛と命を感じるのです。その様なイエス様に素直な心で従うものでありたいと思います。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、あなたがイエス様をこの世に遣わされ、知恵あるものや賢いものにではなく、幼子のようなものに、あなたの御心を現してくださいましたことを感謝いたします。私たちは、世にあっては少数の者ですが、イエス様の示してくださいました者として、許された者として、あなたを知ることが出来る幸いが与えられていることに感謝いたします。イエス様は、私たちの重荷を共に負ってくださる方です。イエス様の軛を負うならば、共にその軛を負ってくださるのです。そのことを私たちは信じ受け入れて賛美します。どうか、神の御国がなりますように、御心が行われますように。私たちを用いて、あなたの愛の業のためにお使いください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆悔い改めない町を叱る
マタ 11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
マタ 11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
マタ 11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
マタ 11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
マタ 11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
◆わたしのもとに来なさい
マタ 11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
マタ 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
マタ 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
マタ 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタ 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
マタ 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」