家庭礼拝 2015年3月25日マタイ11章1‐19洗礼者ヨハネとイエス
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起
前回までの10章では、イエス様が派遣する12人の弟子たちに、いろいろな注意と心構えを与えていました。それは弟子達だけを派遣すると言うのは、オオカミの群れの中に羊を送り込むような危険を伴う緊張感があったからです。その指示は事細かにどうすればよいのかを教えました。これだけの教えを与えて派遣する弟子達ですが、その派遣がどうなったのかには、関心が出てきます。いったい、この弟子たちの派遣はうまくいったのでしょうか、どんな成果が上げられたのでしょうか。
11章1節ではこう書かれています。
マタ 11:1 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
イエス様は、弟子たちに派遣のための指示を与え終わると、そこを去って、ほうぼうの町で教え、宣教されました。ですが、どうも弟子たちも一緒のようです。いったい弟子たちは何時派遣されたのでしょうか。疑問が残ります。
12人の弟子の派遣は、共観福音書全部に書かれていることですから、きっと派遣されたのだと思います。ですが、似たような話に、ルカ福音書だけがその他に72人を任命して、弟子たちを派遣する話が書いてあります。そしてそこには、同じ言葉の「オオカミの群れに子羊を送り込むようなものだ」と言って色々な指示を出しているのです。ではルカ福音書では12人の弟子の派遣はどうなっているかと言うと、9章6節では「12人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、いたるところで福音を告げ知らせ、病気を癒した。」と書かれています。そしてその弟子たちは帰って来て、自分たちの行ったことを皆イエスに告げたと書かれています。マルコ福音書でも同じように12人の弟子は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教しました。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した、と書かれています。そして戻って来てイエス様に報告しているのです。報告の内容は特に語られていません。その報告の後で、ルカもマルコも5000人の食事の奇跡の話を伝えているのです。ではマタイによる福音書での5000人の食事の奇跡が起こる前後に弟子たちが派遣されている形跡があるかと確認しましたが、そのような様子はありません。どうしてマタイは、弟子たちの派遣と報告の話を記載していないのか不思議です。もしかするとマタイは、このイエス様の使徒の派遣は、マルコやルカが書いているようなガリラヤ地方の小さな派遣ではなく、むしろイエス様がなくなってから行われる世界宣教への派遣としてとらえているのかもしれません。マルコやルカでは派遣されても何の迫害もなく順調に宣教して帰って来て、イエス様に報告しているのですから、イエス様が迫害を予告して、多くの注意を与えた、マタイの使徒派遣の話は、イエス様の復活後の派遣と理解したほうが、自然な気がします。そこでは確かに大変な迫害が起こりイエス様が予言したような様々な事が起こったのですから。
承
ではマタイでは、このイエス様による使徒の派遣のための指示の話の後は、実際に弟子たちが派遣されたという話では出てきませんが、次は何の話になっているかと言うと、突然、洗礼者ヨハネの話になるのです。2節と3節です。
マタ 11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
マタ 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
なぜ突然、洗礼者ヨハネの話になってしまうのでしょうか。その理由はその前に書かれている10章40節の「私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのである」と言う文脈を受けているのではないかと思うのです。それはイエス様につまづきそうになっても受け入れて神の国の到来を信じようとする、洗礼者ヨハネと、イエス様を受け入れず、神様をも受け入れようとしていない人々との対比を語ろうとしているのだと思います。
ヨハネはこの時、牢に入っていました。それはヘロデが、弟の妻であったヘロデヤを自分の妻にしていることを律法に反していると弾劾したためでした。ヨハネは捕えられ牢に入れられても、もうすぐメシアが現れると信じて、自分がこの牢から出されるのも近いと考えていたのです。ですがその時はなかなかやってこなかったのです。イエス様は、病気の人を癒したり、貧しい人に福音を語ったりして大いにその評判を上げているのは分かっているのですが、ヨハネが考えていたような、政治的なメシアとして、人々を奮い立たせて、新しい王国をつくると言ったことが起こらないのを不思議に思っていたのです。もしかすると、このイエスは、自分が考えていたメシアとは違うのではないかと疑問を持ち始めたのです。ですから、ヨハネは弟子を派遣して、イエス様に「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせたのです。イエス様はどう答えたのでしょうか。4節から6節です。
マタ 11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
マタ 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
マタ 11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
イエス様は、理屈ではなく事実のみを話しました。それは議論の余地のないことだからです。イエス様はこう言いました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」これは、旧約聖書に語られている、メシアが現れるときに起こる奇跡の事を言っているのです。イエス様は、ヨハネはこの事を聞けば必ず理解できると信じているのです。それは11章の19節でイエス様が言っているように、「智慧の正しさは、その働きによって証明される。」ものだからです。
イエス様はイエス様の働きを示すだけでヨハネは理解できると信じていましたが、敢えて、「私につまづかない人は幸いである。」と付け加えました。ヨハネが更なる確信を得ることが出来るようにするためです。ヨハネの弟子たちは、このイエス様の言葉を受けて、またヨハネのもとに帰って行ったのです。
転
さて、ヨハネの弟子たちがイエス様の言葉を持って帰って行った後で、イエス様は群衆たちに向き直り、その不信仰を非難し始めました。ヨハネの信仰と群集の信仰があまりにもかけ離れていたからです。7節から10節です。
マタ 11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
マタ 11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
マタ 11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
マタ 11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
イエス様は群衆に対して、怒りを感じているように思います。何故でしょうか。イエス様は多分、ヨハネが殺されるだろうことは知っていたのだと思うのです。そして、最後の言葉として「私につまづかない人は幸いである」、との言葉を送って、安らかにその死を迎えることを促したのだと思うのです。一方群衆たちは、ヨハネが洗礼をしている間は、ヨハネこそメシアだ、ヨハネこそ預言者だとこぞってヨハネのもとに来て、ヨハネを祭り上げようとしていたのに、ヨハネが捕えられると、今度はイエスこそ預言者だ、イエスこそメシアだと今度はイエス様を祭り上げようとしているのに腹立たしさを感じたのかもしれません。死を覚悟しているヨハネの事などすっかり忘れている群衆に、ヨハネの事を思い出させようとしたのかもしれません。それで「あなた方は、何を見に荒野に行ったのか風にそよぐ葦か、しなやかな服を着た人か、それとも預言者か。」と強く問いかけたのです。そして、「そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。」と聖書の預言の言葉の実現としての洗礼者ヨハネの存在を強く訴えたのです。さらにイエス様は、ヨハネはメシアの先駆けとして遣わされた者として、預言者以上の使者であると言ったのです。
そして、イエス様は、この洗礼者ヨハネの偉大さと、そしてその限界とを示しました。そして、旧約の時代が終わろうとしていることをはっきりと言ったのです。11節から15節です。
マタ 11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
マタ 11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
マタ 11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
マタ 11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
マタ 11:15 耳のある者は聞きなさい。
イエス様は洗礼者ヨハネの偉大さを、およそ女から生まれたもののうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった、と言いました。女から生まれてものの内と言うことは全人類の中でと言う意味です。洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかったと言うのは、洗礼者ヨハネこそ、一番律法にふさわしく生きたものである、と言うことだと思います。ですが、洗礼者ヨハネには大きな欠点がありました。それで、イエス様は、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である、と言ったのです。その欠点とは何かというと、それは洗礼者ヨハネはイエス様の十字架を知らない、と言うことなのです。すなわち、旧約の教えから出ることが出来なかったのです。一方、天の国で最も小さなもの、と言うのは天使の事ではありません。これはイエス様の十字架と復活の恵みによって天の国に入ることの出来た人なのです。すなわち福音によって救われた人々です。福音によって救われる恵みと言うのはそれほど大きなものなのです。この偉大な洗礼者ヨハネを凌ぐほどの恵みなのです。
12節の言葉の「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」と言うのは理解の難しい言葉です。理解のキーワードは彼が活動し始めた時から今に至るまで、と言う言葉です。この間にどんなことが起こったかです。私の理解では、それは洗礼だと思うのです。洗礼者ヨハネの洗礼によって、罪が清められ、天国に行くことが出来ると言う人々の信念の働きを、このような表現で行ったのではないかと思っています。イエス様もまたその洗礼を弟子たちによって与えていましたので、それは今に至るまで続いていたのです。
そして最後に、洗礼者ヨハネは何者であったのかをイエス様は言います。14節で、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」と言いました。これで旧約の予言は成就したのです。洗礼者ヨハネは、メシアに先駆けとして遣わされたエリアであり、イエス様は、神様から遣わされた、メシアだと言うことになるのです。でも、それは認めようとするものだけが分かる、信じようとするものだけが分かる真理なのです。認めようとしないもの信じようとしない者にとっては、全く無意味なことになってしまうのです。
そして、見ても信じようとせず、聞いても認めようともしない自己中心的な今の時代を皮肉って、このように言いました。16節から19節です。
マタ 11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
マタ 11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
マタ 11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
マタ 11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
この譬えは、自分の思い通りにしようとして、思い通りにならないと、すぐほかの人を非難し始める、と言うことを言っています。どんなに正しかろうと、どっちに転ぼうとそれを受け入れるのではなく、非難し拒絶する人々だと言っているのです。それは正しいことに対する、判断の根拠を持たないからです。何によってそのことが正しいと受け入れられるのかと言う基準がないために、不安になって、何でも拒否してしまうのです。今の時代でもこのような人は数多く見ることが出来ます。人生の判断基準を持っていないのです。
そこでイエス様は言いました。「智慧の正しさは、その働きによって証明される。」と言ったのです。それが判断基準です。イエス様はある時は、その木の良し悪しは実によって知られる、とも言いました。私たちはどんな立派な事でもいうことだけはできますが、本当にその人がそのように立派な人であるかどうかは分かりません。ですがその行いや働きが正しければ、それだけで、その人が正しいことが分かるのです。この福音書の中でも、イエス様に癒された人や、貧しい人たちが、イエス様のその働きによって、イエス様が正しい人であることを証言している例が数多くあります。その人たちはパリサイ人や律法学者の様に知識も学問もありませんでしたが、その働きの正しさによって、その人が正しい人であることを知り、主であること、預言者であることを悟ったのです。いっぽう、パリサイ人や律法学者たちは、イエス様のその奇跡の働きをいくら見ても信じることが出来ませんでした。その働きによって信じるのではなく、自分たちが学んできた知識や律法に照らして信じようとしていたのです。ですから、どんな奇跡を見ても信じることが出来なかったのです。事実を受け入れることが出来なかったのです。そして受け入れられないためにただ批判ばかりしていたのです。その様な人々を、イエス様はここで痛烈に批判しているのです。
結
イエス様は、知恵の正しさはその働きによって証明されると言いました。いくら正しいことを言っても実際にそのような働きをしていないなら、正しい事にはなりません。たとえ学問がなくても、正しい働きをしている人には正しい知恵が備わっていることを証明しているのです。イエス様は洗礼者ヨハネは、イエス様の働きを伝えるだけで、受け入れられる人であることを知っていました。イエス様はヨハネの正しい働きを見て、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と褒め称えました。ですがヨハネには一つ欠けているものがありました。イエス様の十字架と復活を知ることが出来なかったのです。それで、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」と言いました。福音によって救われるものの大きさを語っているのです。ですがその本当に救われているのかどうかもまた、その働きによって証明されるのです。その実が証明するのです。私たちに与えられている、福音にふさわしいものとして、生きることが出来るようにと願うものです。このような素晴らしい恵みが与えられていることを大切にし感謝したいものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちにはイエス様から与えられた福音があります。私たちはあなたの愛を信じて生きることが出来ます。イエス様の御言葉を信じて生きることが出来ます。あなたが与えてくださいました、この素晴らしい恵みに感謝いたします。どうか私たちの行いや働きが、その感謝からあふれ出てくるものでありますように。私たちの行いや働きがあなたを賛美し,あなたの栄光を現すものでありますように。あなたがなされたように、私達もまた行うことが出来ますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
マタ 11:1 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
◆洗礼者ヨハネとイエス
マタ 11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
マタ 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
マタ 11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
マタ 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
マタ 11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
マタ 11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
マタ 11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
マタ 11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
マタ 11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
マタ 11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
マタ 11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
マタ 11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
マタ 11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
マタ 11:15 耳のある者は聞きなさい。
マタ 11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
マタ 11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
マタ 11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
マタ 11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」