家庭礼拝 2015年3月18日マタイ10章32‐42受け入れる人の報い

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 今日の聖書の箇所までが、イエス様が弟子たちを派遣する前に弟子たちに語った戒めであり警告です。これまで3回にわたって、このイエス様の弟子派遣前の言葉を学んできましたが、イエス様が弟子たちを派遣すると言うのはそれほど、危険な事であり、覚悟の必要な事なのです。そして、今日の箇所もまた、イエス様に従うことの覚悟を促されている箇所なのです。

 イエス様は、派遣する弟子たちを前にして、その迫害を予告しました、そして真に恐れるべきものは何なのかを教えました。そして、今日の箇所は、イエス様の仲間であること、弟子であることとは何なのかを、念を押して教えているのです。そしてイエス様に従うのか、世に従うのか、命を得るのかそれを失うのか、神の報いを得るのか世の報いを得るのかと、決断を迫っているのです。それは中途半端な心構えでは到底やり抜くことの出来ない使命を負って、それこそ十字架を負ってこれから弟子達だけの宣教に行くことになるからです。

 私達は、平和な時代の平和な国で、ぼんやりとクリスチャンとしての生活を楽しんでいるのかもしれません。ですが、キリスト教がこの時代まで伝えられてくるためには、このような苦難の中で堅い決意をしてその信仰を守ってきた人々の大きな信仰的な働きがあるのです。今私たちがクリスチャンとして歩もうとするとき、同じような覚悟を求められているのです。それがなければ誰も私たちをクリスチャンだと認めることはできないでしょう。私たちにどんな覚悟があるのか。本当にイエス様に従っていこうとしているのか、その本心が求められているのです。

今日の聖書の箇所は、「だから」と言う言葉で始まっています。どうして「だから」なのでしょうか。32節33節を読んでみましょう。

マタ 10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

マタ 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 ここの文章は、その前の「人々を恐れてはならない。」と言う文章を受けており、その直前の31節では「だから、恐れるな。あなた方は、たくさんの雀よりもはるかに優っている。」と言われています。すなわちこれは、「宣教するとき、人々を恐れてはならない、イエス様の弟子であることを隠してはいけない、天の父は、全てを知っておられて、父のお許しがなければ、何事も起こらないのだ。」と言うことを言っているのです。それで、だから、人々の前で自分を私の仲間であると言い表すものは、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると、証言すると言っているのです。反対に、人々の迫害を恐れて、人々の前でイエス様を知らないというものは、私も天の父の前で、その人を知らないと言うだろう、とイエス様は言っているのです。28節で言われているように、「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」と言うことなのです。

私たちの人生の中でも、自分がクリスチャンであることをあまり言い表さない方がいいのではないかと思うようなこともあります。差支えない程度のクリスチャンの方がいいのではないかと思うようなこともあります。ですがイエス様は、「私を知らないというものは、私も天の父の前で、その人を知らないと言う。」と言っているのです。この事の恐ろしさをしっかりと受け止める必要があります。私たちが、この世を選ぶのか、神様を選ぶのかが問われているのです。

あまり自分がクリスチャンであることを言い表すと、問題が起こるのではないかと恐れる人々にイエス様はこう言いました。34節から36節です。

マタ 10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

マタ 10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

マタ 10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。

イエス様を平和の主と崇める私たちには、この言葉はひどく乱暴な言葉に感じます。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。」と言っているのですから驚きです。「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と言っているのですからもっと驚きです。私達はこの世の平和を乱されまいとしていますが、それは本当の平和ではないのです。妥協が生んだ見せかけの平和なのです。そこに本当の平和をもたらすイエス様が現れると、この世は二つに分かれてしまうのです。即ち、イエス様を信じる人々と、イエス様を信じない人々です。それは、神様を選ぶのか、この世を選ぶのかと言う選択を迫られると言うことです。みんなが一つとなって、神様を選ぶのなら問題はないのですが、この世の喜びを選ぶ人たちもいる訳です。すると、この世は神様を選ぶ人々と、この世を選ぶ人々とに分かれてしまいそこに対立が生じてしまうのです。それは家庭の中にあっても同じことが起こります。「人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに」敵対させるようなことが起こってしまいます。この世を選んだ人々は言うでしょう。「あなたがイエスを信じるようになるまでは、この家庭は平和で喜びに満ちていた。だがあなたがイエスを信じてからは、家の中はめちゃくちゃになってしまった。あなたはなんと悪い人間なのだろう。」私達が、この世の価値観の中に生きている限りは、この言葉は説得力があるのです。この言葉を聞いて悲しみに満たされてしまいます。ですが、私たちが本当の平和、本当の命を神の国に求めるならば、この世の平和この世の命は価値の無いものとなってしまうのです。私たちはこの世から、神の国を見るのではなく、神の国からこの世を見る必要があるのです。その時に、「あなたの信仰が、あなたも家族も救うのです。」と言う言葉を聞くのです。

イエス様は弟子たちにさらに厳しい選択を迫りました。37節から39節です。

マタ 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

マタ 10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

マタ 10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

キリスト教が日本に伝わった時に、日本人にとって一番越えがたい教えがこれだったそうです。日本人には忠孝の儒教的教えが広く行き届いていましたから、先祖を大切にし、父や母を何よりも大切にすることが徳のある生き方であると考えていました。この教えは今でも日本人のある部分に生きているのだと思います。それが、「わたしよりも父や母を愛するものは、私にはふさわしくない。」と一刀両断に切られてしまったのです。イエス様は、決して父や母を愛するなと言っているのではないのです、息子や娘を愛するなと言っているのでもありません。ただ、イエス様を第一に愛しなさいと言っているのです。この時に、家族よりもイエス様の使命を第一にしなければならないことも起こって来るのです。その時にイエス様を第一にできるかどうか、それが試されます。それはまさに十字架を背負って従うような決断になるかもしれません。ですからイエス様はこう言いうのです。「自分の十字架を担って私に従わないものは、私にふさわしくない。」イエス様にふさわしいものになると言うのは何もかも命さえも捨ててイエス様に従う覚悟が必要であると言うことなのです。私たちがクリスチャンとなる動機の、「救われたい」だの「幸せになりたい」だの「豊かになりたい」だのと言う個人的な動機はすべて十字架につけてこなければならないのです。イエス様にふさわしくあると言うのはそういうことなのです。

それでは何もかも捨てて、何を得ることが出来るのでしょうか。イエス様はこう言いました。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」この逆説的な言葉をどのように理解したらよいでしょうか。ここの命と言う言葉の代わりにいろいろな言葉を当てはめてみるとまた別の理解がしやすいかもしれません。命の代わりに、お金や、幸せや、喜びや、権力や、いろいろな大切なものを当てはめることが出来るかもしれません。でも一番大切なものは命です。

ここで使われている命と言う言葉の意味は二つあります。それは、この世の命即ち肉体の命と、神の国の命すなわち永遠の命です。それを理解しないとこの言葉は理解できません。イエス様は、「自分の命を得ようとするものは、それを失う」と言いました。これは、「肉体的な命を得ようとこの世にしがみつくものは、神の国の命すなわち永遠の命を得ることが出来ない。」と言うことです。そして、それとは反対に「私のために命を失うものは、かえってそれを得るのである。」とは、「イエス様を信じて、この世の命に捉われないものは、神の国の命すなわち永遠の命を得ることが出来る。」と言うことです。この世の事に捉われてはいけない、ただイエス様を信じなさいと言うことになるのです。それがイエス様にふさわしいものになる生き方というものなのです。

転 

さて、今まではずっと、弟子たちの心構えのようなことを言ってきました。弟子たちが迫害にあってもしっかりと覚悟を決めて、宣教を行うことが出来るように教えてきたのです。ですが最後に、ちょっと違ったことを言いました。それは、弟子たちの事ではなく、弟子たちを受け入れる人々の事です。40節でこう言いました。

マタ 10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

この事はあなた方を受け入れる人々がどうなるかと言うことを言っています。宣教に出かける弟子たちを受け入れる人々は、弟子を遣わしたイエス様を受け入れたことになり、イエス様を受け入れる人と言うのはイエス様を遣わした神様を受け入れるのである、すなわち、あなたたちを受け入れることは神様を受け入れるのと同じことだと言ったのです。これはまさに、弟子たちが神様の大使として遣わされることであり、使徒と呼ばれる所以です。イエス様はさらに言われました。41節と42節です。

マタ 10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

マタ 10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

これは不思議な言葉であり、よく考えるべき言葉です。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける。」と言うのです。たとえ自分が予言者でなくとも、その予言者を受け入れることによって、預言者であるのと同じ報いを受けるのです。自分が予言者であろうとしなくても良いのです。受け入れるだけで予言者であると同じ報いなのです。同じように、「正しいものを正しいものとして受け入れる人は、正しいものと同じ報いを受ける」と言われました。自分が正しいものとなれなくとも、正しいものを受け入れることによって、自分が正しいものと同じような報いが得られると言うのです。ですから、このイエス様の言葉に従えば、「自分はあの人の様にできなくて悲しい。」と嘆く必要はなくなります。その人を羨むのではなく、受け入れれば、その人と同じ報いが与えられるのです。また反対に正しいものを受け入れないものは、正しいものの受ける報いから漏れると言うことになります。私たちが良いものを素直に受け入れると言うのには大きな報いがある事を教えられます。ですから素直に受け入れることが大切なのです。

そしてその受け入れると言うことの具体的な方法を教えてくれました。それは「イエス様の弟子だと言う理由で、その人に、冷たい水いっぱいでも飲ませる」ような簡単な事でも、それはイエス様の弟子を受け入れることになり、報いを受けることが出来ると言うことなのです。それは必ず受ける報いだと言うのです。

私たちの中には、私には伝道はできない、説教はできない、奉仕はできない、と言う人がいるかもしれません。それぞれいろいろな事情や理由によってできないかもしれません。ですが、それならそれをしている人の働きを認め受け入れるだけでも、その人たちと同じ報いを受けるのかもしれません。その様な、神様に仕える人々の助けになる事をするとか、挨拶をするとか、励ましの言葉をかけるとか、祈るとか、そんなことでもいいのかもしれません。その様な人々に、水を一杯飲ませるような小さな働きでも、きっとイエス様の報いが与えられるのかもしれません。

 今日の聖書から教えられたことは、私たちは自分たちがクリスチャンであり、イエスキリストを信じる信仰を持っていることを、大胆に公に言い表す勇気を持つことです。そしてそのことによって起こる問題を恐れてはいけないのです。そこで起こる苦難を避けてはいけないのです。むしろその十字架を背負って生きることがクリスチャンなのです。それは、自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るからなのです。それではクリスチャンは、この世では不幸なままで来世でしか幸せになれないのでしょうか。そうではないのです。クリスチャンは、この世での繁栄を捨てて神の国に希望を持つ時、この世の中では試練にあっても、神の国の希望をもって喜びをもってこの世でも幸せに生きることが出来るのです。

そして、たとえ私たちに力がなく、為すべき使命も見いだせないとしても、その神様の働きをしている人たちを援け、ほんのちょっとの事をするだけでも、その人たちと同じような報いを得ることが出来るのです。ですから、自分にできないことを何も嘆くことはないのです。私たちに約束されている報いと希望と感謝と喜びとを捧げることが出来るのです。

 


(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。今日の御言葉の恵みに感謝いたします。今日私たちは自分たちがなすべきことを教えられました。自分がクリスチャンであることを大胆に言い表すこと、イエス様のために十字架を負う覚悟をすること、神様の働きをする人々を受け入れるものとなる事、そのような事を教えられました。そのことをすることによって、私たちは神様の大きな報いを得ることが出来、神様の命を得ることが出来るとの約束を与えられております。神様どうか、今日教えられたこれらの事を素直に大胆に行うことが出来ますように。あなたがいつも共に居て下さって聖霊によって導いてくださることを信じて、あなたの道を歩ませてください。永遠の命に至ることが出来ますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆イエスの仲間であると言い表す

マタ 10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

マタ 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

◆平和ではなく剣を

マタ 10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

マタ 10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

マタ 10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。

マタ 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

マタ 10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

マタ 10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

◆受け入れる人の報い

マタ 10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

マタ 10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

マタ 10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」