家庭礼拝 2015年3月4日マタイ10章1‐15十二人を派遣する

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 今日の聖書の箇所は、イエス様が12人の弟子を選んでそれを派遣する話です。この10章全体が、その派遣の前に弟子たちに、いろいろと教えているところです。何を語ればよいのか。どこへ行けばよいのか、これから何が起ころうとしているのか、どうすればよいのかなどを詳しく教えているのです。これはイエス様に派遣される人々の基本的な心構えと言ってよいでしょう。

 この12人の弟子たちは使徒と呼ばれました。普通の弟子とは区別されたのです。それは、イエス様の権能を帯びて、イエス様の代わりにイエス様と同じような事を行う大使として遣わされるものと言う意味です。イエス様の神の国の大使なのです。彼らが行うことはイエス様が行うことと同じものとみなされるのです。

 イエス様が12人の弟子を選んだことと、その12人を派遣した話はマルコ福音書にもルカ福音書にも書かれています。マタイ福音書では、弟子を選ぶとすぐに、12人を派遣したように書かれていますが、マルコとルカでは弟子を選ぶ時期と12人を派遣する時期とが異なっています。マルコやルカでは山上の説教に相当するところやいろいろな奇跡物語が起こる前に12人が選ばれており、いろいろな出来事を経た後で、12人が派遣されると言うような構成になっています。

 イエス様はどうして12人を使徒として特別に選んだのでしょうか。それは先週学んだ9章の最後に、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言ったように、その収穫のためにイエス様自身が見本を示して、その収穫のための働き手を選んだともいえるでしょう。それだけではなく、マルコ福音書3章14節にも書かれているように、「そこで、12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」と言うことなのです。イエス様は、この12弟子を自分のそばにおいて、特別の弟子訓練をすることにしたのです。それは、イエス様の神の国の大使として遣わすことが出来るように、宣教や、癒しや、悪霊を追い出す権能を持てるように特別の訓練を開始したと言うことなのです。

 それでは現代ではこの使徒的働きは誰がしているのでしょうか。ローマカトリックでは、使徒ペトロの後継者とされるローマ法王を筆頭にその教会の祭司がその権能を持っていると考えています。一方プロテスタントでは、万民祭司の考え方で、信徒全てが使徒としての権能を持っていると考えているのです。いずれにしても、使徒となるものはイエス様の代わりに神の国を代表して、宣教をし、癒しを行う働き人なのです。

さて、今日の聖書に入りましょう。10章1節です。

マタ 10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

イエス様は12人の弟子を選んで呼び寄せました。そして、まず最初に行ったことは、汚れた霊に対する権能をお授けになったのです。これによって、イエス様の代わりに、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気を癒すことが出来るようになったのです。選ばれた弟子たちはとても驚いたと思います。この弟子たちはほとんどがガリラヤ出身で、漁師であったり、取税人であったり活動家であったりで、まだイエス様に従って、1年くらいしかたっていないのに、そのような大きな権能と責任とを与えられたのです。

では誰が、その使徒に選ばれたのでしょうか。2節から4節にその名前が記されています。

マタ 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

マタ 10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

マタ 10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエス様が使徒を12人選んだのは、ユダの12部族にならったからでしょう。その、メッセージが全ユダヤにいきわたるようにと選んだのだと思います。ここに使徒の名前が紹介されていますが、ほとんどが二人組になって紹介されています。これは多分そのペアで派遣されたのだと思います。マルコ6章7節の派遣の記述の所では「そして、12人を呼び寄せて、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」と書かれています。その最初の組はペトロとアンデレでこの二人は兄弟です。次の組がヤコブとヨハネでこの二人も兄弟です。その次がフィリポとバルトロマイ、さらに、頭のいいトマスと計算と記録の得意なマタイが組になり、アルファイの子ヤコブとタダイが組になりました。最後の熱心党のシモンと、イスカリオテのユダは特に組になっている書き方ではありません。この中で、ガリラヤ出身ではないのがイスカリオテのユダだけなのです。これはケリオテ出身のユダと言う意味でユダ族に属しておりガリラヤ出身ではないのです。この辺からすでにユダが裏切りそうな雰囲気があるのです。もしユダが裏切らなかったとすると、熱心党のシモンがその次の候補に挙がりそうです。その弟子たちはさまざまな種類の人たちです。漁師もいれば学者もいれば取税人もいれば熱心党のようなテロリストに近い人もいるし、他部族の人もいたのです。普通なら一つになる事の無い弟子たちが、イエス様の名のもとに一つとされて、使徒となる訓練を受けたのです。

さて、選ばれた使徒たちはどこに派遣されたのでしょうか。5節と6節です。

マタ 10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

マタ 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

イエス様は、まず行ってはいけないところを言いました。それは異邦人の地と、サマリア人の地に行ってはいけないと言っているのです。どうしてでしょうか、分け隔てなく愛し慈しみを施すイエス様が、異邦人とサマリア人を差別しているのでしょうか。そしていったいどこへ行けと言っているのでしょうか。それはイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさいと言っているのです。これは、イスラエルの中でも、宗教的な教育を受けることもできないで、誰に従ったらよいかもわからない、迷える人々のところへ行きなさいと言ったのです。まずそれが最優先だと言ったのです。どうしてこのような優先順位を付けたのでしょうか。それは時間がなかったのです。終末の時が近づいているとイエス様は考えていたのです。マタイ10章23節にこう書かれています。「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げていきなさい。はっきり言っておく。あなた方がイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」と言っています。イエス様は、使徒たちがイスラエルの町を回り終わらないうちにその終末の時がやって来ると考えていたのです。ですから、まず、最初に救いを約束された、イスラエルの人々、特に失われた羊と呼ばれる人々に宣教を行いなさい、と言ったのです。異邦人のための本格的な宣教はイエス様の復活の後になされることになるのです。ですからこの時は、イスラエルの人々に集中して、宣教しなさいと命令されているのです。決して差別ではないのです。

では、その地に派遣されて、何を語ればいいのでしょうか、何をすればいいのでしょうか。イエス様は7節8節でこう言いました。

マタ 10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

マタ 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 語る事はただ一つ、「天の国は近づいた」と言うことです。イエス様の宣教の初めも同じ言葉で始めています。これならだれでも宣教できるのではないでしょうか。宣教と言うと、私はまだ勉強不足で、と言う人がいますが、宣教は神学を語るのではないのです。ただ神の国が近づいたと言う、イエス様の教えを語る事なのです。天の国とはどういう国なのでしょうか。天国とは神様が居られるところです。私たちも、神様と共に居ることが出来るとき、そこが天国なのです。この時最も確かな天国はどこにあったでしょうか。それはイエス様のところにあったのです。イエス様は神様と共に居られました。ですから天国はイエス様と伴あったのです。天の国は近づいたどころかもう地上に降り立っていたのです。あとは私たちがその天国に入るだけなのです。天国はどこか遠くの国にあるのではなく、今ここで、神様に出会うところで、天国が現れるのです。それがイエス様の登場によって、すぐ近くまで来られたと言うことです。

そしてイエス様は弟子たちに、それを語ったら、病人を癒し、死者を生き返らせ、思い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさいと言いました。これは今まで、イエス様だけが行える奇跡でした。ですが、今や使徒となった弟子たちはそれを行う権能を授けられ、その奇跡を行うことが出来るようになったのです。この当時はこのような事を、お金をもらって行う祈祷師のような人々もいました。ですがイエス様は、ただで受けたのだから、ただで与えなさいと言いました。

そして、さらに身の回りの事にも細かく指示を出しました。9節と10節です。

マタ 10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。

マタ 10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。

 このように言いました。それはいかなるお金も持って行ってはいけない、何の荷物も持って行ってはいけないというものでした。その様な無一物で、どうしたら旅を続け宣教を続けられるのでしょうか。イエス様の考えはこうなのです。「働くものが食べ物を受け取るのは当然である。」と言う考えなのです。これは働いたら誰かに食べ物をもらえと言うことではありません。神様のために働くものが、神様から、食べ物が与えられるのは当然である、と言うことです。必要なものは皆神様が与えて下さるから、何も持って行くなと言っているのです。何かを持って行けば、神様ではなくて、そのものに頼るようになるからです。

イエス様は、さらに無一物で、旅をして町や村に入ったらどうしたらよいかを教えました。11節から13節です。

マタ 10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

マタ 10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。

マタ 10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

イエス様は、町や村に入ったら、そこでその福音にふさわしい人はだれか良く調べて、その人のもとに留まりなさいと教えました。一度決めたら、途中で変えることなく旅立つ時までとどまり続けなさい、と言っています。それは自分たちの考えで、こちらの方がいいのではないかあちらの方がいいのではないかと選ばないようにするためです。言い換えてみれば最初に与えられた場所は、神様が与えてくれた場所なのです。その場所がよい場所であろうと悪い場所であろうとそうなのです。そして、その家に入ったら「平和があるように」とあいさつしなさいと言っています。有名なシャロームと言う言葉です。それは単なる挨拶ではなく、その平和が実現するようにと言う祈りです。ですから、使徒が一度これを言うとどんな人にも実現するはずなのですが、この場合は違います。家の人々がその福音を受けるにふさわしい時だけ、その平和は彼らに与えられると言うのです。ふさわしくなければ、その平和は与えられず、あなた方に帰って来ると言いました。その言葉は実現しないのです。

その一方で、このようにも言いました。14節と15節です。

マタ 10:14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。

マタ 10:15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 使徒たちが、救いのために大切な神様の御言葉を伝えているのに、使徒たちを迎え入れもせず、その言葉に耳を傾けようともしない人がいたら、その家や町を出ていくとき、足の塵をはらい落としなさいと言いました。それは、自分たちにはもう責任がないと言うことです。使徒たちは為すべきことをしたのですが、それでもかたくなに拒むものにはもう責任がないと言うことを足の塵をはらい落として、態度で示しなさいと言いました。と言うのも、裁きの日にはそのような町はソドムやゴモラが受けた罰よりも重い罰が与えられるからだ、と言っています。この塵をはらい落とすのと似たような話では、イエス様を十字架につけろと言うユダヤ人の群集に対して、ピラトが水を持ってこさせ、自分の手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。」と言ったこととよく似ています。もう責任を持てないと言うときこのようにしているのです。

 この後まだまだ、イエス様の使徒たちへの派遣のための教えが続きますが、それは苦しく厳しい迫害が続くことを述べていきます。イエス様は終末の時が近いことを感じていました。ですから12人の弟子を使徒として、多くの人々を救おうとして、福音を述べ伝えさせようとしたのです。その語ることは「神の国は近づいた」と言う福音の言葉です。この福音の言葉にふさわしいものであることが求められています。神の国は地上に降り立ったのです。イエス様と共に降り立ったのです。この事を信じるものは、次なる使徒として、神の国を述べ伝えるものとなるのです。

 何も持たなくてもいいのです。なににも頼らなくていいのです。必要なものは神様が与えて下さると信じるです。泊まるところも、食べるものも必要ならば神様が与えて下さるのです。そして使徒たちはただ、命じられた言葉「神の国は近づいた」と述べ伝えていくのです。それが使徒なのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。12人の使徒たちは、弟子になってまだ1年足らずなのに、イエス様の代理人として、大使として、世に遣わされました。そして、イエス様が言われたように、「神の国は近づいた」と言うメッセージを伝えるために世に遣わされました。そこにはなんの頼るものもない無一物の状態で、ただ神様が必要なものを与えて下さることを信じて、行くこととなりました。ですがそこにはイエス様が与えて下さった権能がありました。あなたが私たちに何かを命じ御心を行わせようとするとき、私たちは、それが自分たちの能力や状況に関わらず必要なことが満たされることを思います。どうかあなたの御心を心静かに聞き取り、あなたのお命じになる事を畏れることなくあなたに委ねて行うことが出来ますように。私たちもあなたの使徒としての働きをすることが出来ますように、お遣わし下さい。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

 

<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◆十二人を選ぶ

マタ 10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

マタ 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

マタ 10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

マタ 10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

◆十二人を派遣する

マタ 10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

マタ 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

マタ 10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

マタ 10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

マタ 10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。

マタ 10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。

マタ 10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

マタ 10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。

マタ 10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

マタ 10:14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。

マタ 10:15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」