家庭礼拝 2015年2月25日マタイ9章27‐38二人の盲人を癒す

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 今日の聖書の箇所は、イエス様が山上で説教されて、山を下り、数々の奇跡の癒しをした最後のところになります。ここでは、二人の盲人を癒す話と口のきけない人の癒しがあります。また、飼い主の居ない羊のような群衆を深く憐れまれた話が書かれています。

 実はこれらの話は、どこか別の所でも聞いたことのあるような話なのです。二人の盲人と一人の口のきけない人の癒しは、12章にあるいわゆるベルゼブル論争の時の話とそっくりなのです。その最初の所をマタイ12章22節と23節だけ引用すると「その時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の聞けない人が、イエスのところに連れてこられてきて、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、この人はダビデの子ではないだろうか、と言った。」と書かれています。人数以外ほとんど同じですが、この後の話は、12章のほうがずっと詳しく書かれています。それがベルゼブル論争なのです。それは、パリサイ人たちがイエス様の力は悪霊の頭ベルゼブルの力だと言ったのです。そして、この論争がイエス様の一つの転機になって行くのです。イエス様の教えが弟子訓練に集中するようになるのです。

 もう一つの、飼い主の居ない羊のような群衆を深く憐れまれた話もどこかで聞いたことのある表現です。それは、マルコ福音書では、6章34節に書かれている表現です。そこは5千人の食事の奇跡の行われる直前の場面です。こう書かれています。「イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始めた。」となっており、この後時が遅くなり5千人の食事の奇跡が起こるのです。

 今日の聖書の箇所は、これらの事をイエス様の奇跡の事例として断片的に集めた箇所なのかもしれません。ですが、癒しの話としては、この箇所の方がくわしく書かれているのです。それではそのことを詳しく学んでいきたいと思います。

イエス様のこの時の状況は、長血の女と、ヤイロの娘を生き返らせ、その噂がその地方一帯に広まるようになった時の事でした。イエス様たちが奇跡を行い、そのヤイロの家を出て行ったときの話が今日の話です。

マタ 9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。

マタ 9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。

 ここでは、イエス様たちがヤイロの家を出ると二人の盲人がイエス様に対して叫びました。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言ったのです。周りには大勢の人々がいました。この時イエス様は、この二人の盲人には取り合わなかったのです。無視していたのです。ですが、この盲人たちは、諦めずに、叫びながらイエス様についてきたのです。そして、イエス様が、家の中に入って、群衆と別れて、その盲人たちと、直接対面するときになって、やっと、話しかけたのです。そして、「わたしにできると信じるのか」と言われたのです。

どうしてイエス様はこのようになさったのでしょうか。どうしてみんなが見ているところで、すぐに癒してやることはしなかったのでしょうか。この盲人たちにはイエス様を信じる信仰があったのでしょうか。この二人の盲人たちには、本当のイエス様を理解する信仰はなかったのです。ダビデの子よ、とイエス様の事を呼んでいますが、これは一般の人たちが、考えているメシアの呼び方を言っただけなのです。そして、このダビデの子と呼んでいるそのメシアとは、政治的なメシアであって、この世的なメシアなのです。イエス様が、公衆の前ではこの二人の盲人たちを無視したのも、このような政治的なメシアと混同されることを嫌ったのかもしれません。また、この二人が、本当に癒してもらいたいと思っているかどうか、その気持ちを確かめたいと思ったのかもしれません。ですから、家の中に入り、もうほかの邪魔がなくなった時、その二人に、その思いを確認したのです。「わたしにできると信じるのか」と言われたのです。すると二人は、「はい、主よ」と言ったのです。するとここで初めて、イエス様の癒しの奇跡が起こったのです。29節から31節です。

マタ 9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、

マタ 9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。

マタ 9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

イエス様は癒しを行いました。この二人は決して信仰を持っていたわけではなかったと思います。当時の噂のようなものを信じて、ただイエス様にすがったのだと思います。ダビデの子と呼ばれることもイエス様にとっては迷惑だったのかもしれません。ですがそれでもその熱心に癒しを求める姿を見て、その求める気持ちが本当であることを確認して、癒しをなさったのです。私たちの信仰も、もしかすると本物でないかもしれません。そうであってもイエス様はその願いを拒否する方ではないのです。たとえ間違った考えであっても、イエス様に熱心に願い求めれば聞いてくれる方なのです。イエス様は言いました。「あなたがたの信じているとおりになるように」そう言うと、二人は目が見える様になったのです。イエス様なら癒してくださると言う信念が、イエス様の言葉に触発されて、癒されたのです。イエス様は、この二人に、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになりました。それは、この二人が言っているダビデの子、と言う政治的なメシアのイメージが、多くの誤解を生むことを嫌ったのです。結局このような誤解がイエス様を十字架につけたのです。ですが二人は、その地方一帯にイエス様の事を言い広めたのです。

イエス様たちが、この家に入ったのは群衆を避けて、この盲人たちと静かに話をするためだったのです。癒しが終わったので、イエス様たちはまたこの家を出ました。すると、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエス様のところに連れられて来ました。今度は自分から来たのではなく、誰かに連れてこられたのです。ですから、こんどは「わたしにできると信じるのか」と言うような確認はしませんでした。相手は話すことが出来ないし、聞くことだってできなかったのかもしれません。それでもイエス様は、この人を癒しました。私達が、癒しの必要な人をイエス様のところに熱心に連れていくならば、イエス様はそれすらも拒否せずに癒してくれるのです。私たちは、苦しんでいるその人をイエス様のところに連れていくことが大切なのです。イエス様はその人から悪霊を追い出して、口が利けるようにしてあげました。すると群衆は驚嘆して、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った、と書かれています。群衆は素直に驚愕したのです。そして認めたのです。ですがそうでない人々もいました。それがファリサイ派の人たちだったのです。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。皆さんは、イエス様がこんな癒しの奇跡を行ったことを信じることが出来るでしょうか。このような奇跡が起こったと聞くとき、ある人たちは驚愕して信じ、ある人たちは全く信じません。私たちは後者の方なのかもしれません。では、イエス様に敵対しているファリサイ派の人々はどうだったのでしょうか。当然信じないのでしょうか。そうではないのです。イエス様の行った奇跡は信じて認めているのです。ですが、それは神の力ではなくて、悪霊の頭だから出来るのだと言ったのです。その当時イエス様の奇跡を目撃し、なおかつ敵対していたファリサイ派でさえも、その奇跡を認めているのに、私たちが、それを認めない理由があるでしょうか。きっと、その奇跡は起こったのです。ですがファリサイ派の人々はそれは悪霊の頭だからだと言ったのです。ファリサイ派の人々のスタンスはいつもこうなのです。イエス様がどんなに素晴らしい働きをしても、それは悪霊の力によるものなのだ、と考えているのです。12章ではこのファリサイ派の人々と、ベルゼブル論争というものをイエス様がしますが、このようなかたくなな、どんなことを見ても信じようとしない人々に対して、イエス様は、もう奇跡をもって信じさせようとすることをしなくなるのです。そして、その奇跡は、主に弟子たちに対して、弟子訓練として、その奇跡を現すようになってくるのです。

さてこのようなことがあったのち、イエス様は多くの人々に神の国を述べ伝えました。35節です。

マタ 9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 イエス様のなさることのメインは奇跡をすることではないのです。イエス様は御国の福音を述べ伝えることと病気や患いを癒されることを行ったのです。本当は御国の福音を述べ伝えることだけに集中したいのでしょうけれども、病気や患いを持っている人々を知らないふりはできなかったのです。実際にはその人々の癒しの方に多くの時間と力とが使われていたように思えます。そしてこの有名な言葉が出てくるのです。36節です。

マタ 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

私達はこの表現に何か牧歌的な印象を持ちやすいのではないでしょうか。やさしい羊飼いが、飼い主がいなくて、しょんぼりしている羊たちをながめて憐れんでいると言った雰囲気なのではないでしょうか。ところが、この表現はずっと激しく厳しいものなのです。「弱り果て、打ちひしがれている、」と言う表現は原語からすると、「ずたずたに切り裂かれて、打ちのめされている」と言う意味なのです。この時代の奴隷が鞭打たれで傷だらけで、今にも倒れそうになっている状態なのです。その様な人々を見て、イエス様は深く憐れまれた、と言っています。この憐れむと言う言葉も、原語的には、「はらわたがちぎれるような思いがする」と言うような痛切な意味なのです。イエス様はこの人々を見て、身を切られるような同情をしているのです。

その時イエス様は弟子たちにこう言われました。37節38節です

マタ 9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

マタ 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

ここでも私たちは、イエス様が収穫の多い葡萄畑を見て、満足そうに語っている牧歌的な印象を持ってしまいます。これも間違いなのです。今イエス様が見ている収穫とは、今にも倒れそうな傷ついた、弱々しい人々なのです。この世的な感覚では、このような人々は負け犬であり、決して収穫として、大切に取り込めるような人々ではないのです。ですが、イエス様の目から見ればそのような人々も皆大切な人々なのです。収獲として天に取り込んでおきたい人々なのです。そのような大切な収穫がたくさんあるのに、それを取り込む働き手がいない、と嘆いているのです。イエス様だけでは手が足りないのです。イエス様は多くの人の手を必要としているのです。ですから、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言いました。それはイエス様が願うだけでなく、あなたたち自身が、これからもずっと、神様に願い続けなさい、と言うことです。イエス様はもうすぐいなくなる、これからはあなたたちが、収穫のための働き人となり、そして、神様にもっと働き人を送ってくださるようにお願いしなさいと言っているのです。イエス様一人が救い人ではないのです。イエス様はその働き人を必要としており、その祈り手も必要としているのです。そのことをあなたたちが自ら行いなさいと勧めているのです。そして、どんな人をも、大切な収穫として、収穫の主である、神様のところに送り届けなさいと言っているのです。私たちは、自分たちだけが救われるような思いではいけないのです。イエス様の良き働き人となり、多くの大切な人々を神様のもとに送り届ける、働き手となるのです。そしてその力が足りないならば、神様に願って、与えてもらうことが出来るのです。私たちのこの世の使命はそこにあるのです。

 イエス様は、とても憐み深い方です。私たちの知らないところでも、私たちの飼い主の無い羊のような姿を見て、深く憐れみ共に苦しんでくださっているのです。ですから、私たちの信仰がたとえ間違っていても、勘違いがあっても、イエス様に熱心に願い求めればそれを拒否することなく、叶えてくださる方なのです。私たちはそのような方に救われているのです。私たちの救いは、どこかにこれが救いだというものがあるわけではありません。この様なイエス様を信じていくことが出来ることが奇跡であり、イエス様をたとえ間違ってでも不十分でも信じて従っていくことが出来ることが救いです。その事を確信して行けるなら、私たちはイエス様の良き働き人として、その収穫の業にあずかることが出来るのだと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちの信仰は弱く、不十分で、間違いに満ちたものです。ですがイエス様はそれでも私たちを拒むことなく、受け入れて下さって、多くの奇跡を与えてくださいます。イエス様が憐れみ深い方であり、私たちの思いをいつも身を切られる思いで見て下さっていることを思います。どうかそのことを覚えつつ、感謝しつつ、イエス様の良き働き人として、仕えることが出来ますように、その収穫の業に仕えることが出来ますように導いてください。御名が賛美されますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◆二人の盲人をいやす

マタ 9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。

マタ 9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。

マタ 9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、

マタ 9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。

マタ 9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

◆口の利けない人をいやす

マタ 9:32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。

マタ 9:33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。

マタ 9:34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

◆群衆に同情する

マタ 9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

マタ 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

マタ 9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

マタ 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」