家庭礼拝 2015年2月18日マタイ9章18‐26指導者の娘とイエスの服に触れる女
賛美歌55 人となりたる神の言葉聖書朗読 祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り 賛美歌56 主よ、命のパンをさき
起
今日のマタイ9章後半は、19節しかないので、全部通してやろうかと考えていました。でも準備している内にそれは難しいと分かりました。それは、最初の小見出しの、「指導者の娘とイエスの服に触れる女」の物語は、サンドイッチ構造になっていて、実に複雑な内容を持っているのです。どういう訳かマタイはこの話をとても簡単に端折って扱おうとしています。ですから、この物語は8節しかありません。ですがこの物語を最初に書いたマルコによる福音書では、実に詳しくこの話を伝えているのです。マルコでは5章21節から43節までの22節に渡って語られています。マタイの倍以上です。ここには死人の復活の話が書かれているのですから、当然重大事件として取り上げられてしかるべきものです。
この9章後半はこの死人の復活の話と、二人の盲人を癒す話と、口のきけない人を癒す話が書かれています。この三つの奇跡が並べて書かれているのには理由があるのです。捉われていた洗礼者ヨハネが、イエス様に使いを出して、「おいでになるはずの方は、あなたですか」とイエスが本当にメシアかどうか確認しようとした時に言ったイエス様の言葉はこうでした。マタイの11章5節です。
11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。
8章から続いている奇跡物語と、このメシアの予言の話を合わせれば、イエス様の奇跡の数々が、預言されていたメシアを現していることは明らかなのです。
マルコはこの指導者の娘とイエスの服に触れる女の癒しの話を、ペトロから聞きました。ペトロは実際に経験したこととして、実に生き生きとそのことを語ったのだと思います。マルコはその興奮を伝えるように、その事を生き生きと描写しました。ところがマタイはそのことを、生きた証人から直接聞いたのではないかもしれません。あまりにも不思議な事なので、信じられなかったのかもしれません。ですから、出来るだけ単純に簡素に表現しているのです。その辺を比較しながら、今日の箇所を学んでいきたいと思います。
承
この時の場面はイエス様が、ヨハネの弟子たちと、断食についての問答をしていた時でした。そこにある指導者がそばに来てひれ伏したと書かれています。18節です。
マタ 9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
この人は、自分の娘がたった今死んだことを言い、でもイエス様がおいでになって手を置いてやってくれれば生き返るでしょうと言ったのです。ところがマルコでは状況がずいぶん違うのです。まず、マルコによればこの指導者と言う人が会堂長でありその名もヤイロであるとはっきりと書かれています。このヤイロは、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と言ったのです。娘はまだ生きているのです。ですが死にかかっているので、一刻も早く来て手を置いてやってくださいと願っているのです。マタイの言う、死んでしまったけれども手を置いてやってくださいと言うのとは切迫感が全然違います。この会堂長と言うのは各部落にある会堂を管理する人で、会堂の維持や礼拝の時の順序を決めていく重要な人物です。この会堂はエルサレムのサンヒドリンの指示を受けていますので、きっとイエス様に対してもあまり良い指示を受けていないはずです。ですが、この会堂長がイエス様のところにやって来て、ひれ伏したと言うのは、やれることを全てやって、もうイエス様しか頼る人はないと言う切羽詰まった状況の中でやって来たのだと思います。できればイエス様には頼りたくはないと言う思いがあったはずです。でも娘の命には代えられないので、必死に頼んだのです。
ところがこのヤイロにしてみれば、とんでもない邪魔が入ったのです。それは長血の女がイエス様に近づいてイエス様の服に触れたのです。19節から21節です。
マタ 9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
マタ 9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
マタ 9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
イエス様は、このヤイロの願いにこたえて娘に手を置くために立ち上がり、ヤイロについていきました。弟子たちも一緒でした。そこに、12年間も出血が続いている女が近寄って来て、イエス様の服の房に触れたのです。この人はイエス様の服に触れさえすれば直してもらえる、と思ったのです。この長血の女とは、ユダヤの社会では汚れた者とされていたのです。この長血とは、血が止まらないで流れ続けるので、いわゆる血友病のようなものかと思っていましたが、ある学者が、これは女性の生理のような状態が、ずっと続いているものであると言っていました。正常な生理による出血でも、律法では汚れたものとされていました。それはその人だけが汚れるのではなく、その人が触れたものも皆汚れるのです。ですから人々はその人に触れることが出来なくなるのです。それが12年間も続いていたのですから、社会から隔離されているようなものです。社会的な死人のようなものなのです。マルコではその状況を、こう語っています。彼女が「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と言っているのです。ですから、ヤイロが娘のためにすべての事をやってみたが何の役にも立たず死にかかっていたので、イエス様にしがみついてきたのと同じ状況なのです。ヤイロは娘のために、長血の女は、自分のためにイエス様に最後の望みを託したのです。
この長血の女が、イエス様の服の房に触れた時、イエス様は気がつかれました。そしてこう言いました。22節です。
マタ 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
イエス様はすぐに気がつかれました。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。その長血の女の病は癒されたのです。癒されたのは、その人に、イエス様を信じる信仰があったからなのです。もしかするとその信仰は本当の信仰ではないかもしれません。偉大な人物に触れれば治ると言う迷信的な信仰であったのかもしれません。そうであってもイエス様は、必死になってイエス様に救いを求めるものに対しては、あなたの信仰があなたを救った、と言って癒してくださるのです。必死になって願い求めることの大切さを語っています。
マルコでは、この時の状況をもっと詳しく伝えています。こう書かれています。
マコ 5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
マコ 5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
マコ 5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
マコ 5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
マコ 5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
マコ 5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエス様は、マタイの言うように振り返ってすぐに癒されたのではなくて、「私の服に触れたのは誰か」とその人を探されたのです。それはイエス様の内から力が出て行ったのに気づかれたからです。この時イエス様は本当にその人を探されたのでしょうか、本当は知ってて、そう言ったのでしょうか。イエス様はすぐにそのひとがだれであるかわかっていたのです。そして、「私の服に触れたのは誰か」と言って、その人が自分から公に告白するのを待ったのです。この女の人はもともと、人知れずやって来て、そっとイエス様の服に触れ、そして人知れず去ろうとしていたのです。それが、イエス様によって、公衆の前に引き出された感じになりました。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話したのです。この事が必要だったのです。それで初めてイエス様の、公の許しと、人々の公の承認を得ることが出来たのです。この女の人は、この日から公に清められたものとして、世の中を歩むことが出来たのです。ここには、秘かに信仰を持つことだけではなく、公に告白して、救いを得ることの大切さも語られています。
転
イエス様はこの後ヤイロの家に行きました。23節と24節です。
マタ 9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
マタ 9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
この当時イスラエルでは、人が死ぬとすぐに葬儀が行われ、その日のうちに墓に入れられるのです。と言うのも、すぐに腐ってひどいにおいがするからです。日本におけるお通夜のようなことはしないのです。ですからイエス様がその指導者の家に行くと、その家では笛を吹くものや騒いでいる人たちがいました。これは葬式をしていると言うことです。このイスラエルの社会では、葬儀には最低一人の泣き女と二人の笛吹が必要だったようです。その数が多ければ多いほど盛大な葬儀だったのです。泣き女たちは大声で泣いて、身内の人たちの涙を誘うのが仕事でした。笛もまた悲しそうに吹かれました。決してお祭り騒ぎではないのです。本人たちは必死になって、その悲しみを演出しているのです。そこへイエス様がやって来たのです。そして言いました。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」この葬儀のプロたちは、自分たちがその娘の死を確認して、葬儀を盛り立てているのに、イエス様に水をかけられたようになって、半ば憤り、半ば嘲笑って、何を言うのかと思っていたのです。ですがイエス様は人々を家から外に出して奇跡を行ったのです。25節と26節です。
マタ 9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
マタ 9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。
イエス様は人々の居なくなった家の中に入り、少女の手をおとりになりました。すると少女は起き上がったのです。生き返ったのです。この噂はその地方一帯に広まりました。
ここでの状況も、マルコは生き生きと詳しく語っています。イエス様が長血の女と話している時の事でした。マルコはこう伝えています。
マコ 5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
マコ 5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
マコ 5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
会堂長のヤイロは娘が死にかかっているので、一刻も早くイエス様を娘のところに連れて行きたかったはずです。ですが、長血の女に阻まれて、遅くなってしまいました。その時恐れていたことが起こったのです。使いの人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言ったのです。ヤイロは非常な落胆をし、早く連れて行けなかったことを悔やんだと思います。ですがイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言ったのです。ヤイロは本当に信仰をもって信じたのでしょうか。ヤイロはいつも、イエス様を信じる以外に方法がないではないかと言う信じ方をしているのです。しょうがなくて信じている信じ方です。マタイでは全ての弟子たちを伴ってヤイロの家に行ったように見えますが、マルコではイエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの他は誰もついてくることを許されなかったのです。そして家について、イエス様が死んだのではないと言うと人々は嘲笑いました。マルコではこう書かれています。
マコ 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
マコ 5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
マコ 5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
マコ 5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
この娘の蘇りに、立ち会ったのはその両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネだけです。そして手を取るだけでなく、「少女よ、起きなさい」と命じたのです。少女は蘇り、食べ物をとるように言われました。死人の蘇りの奇跡が行われたのです。人々は驚きのあまり我を忘れたと書かれています。
結
今日の聖書の箇所には二人の信仰者が書かれています。一人は長血の女です。もう一人は会堂長です。二人ともイエス様を理解して、イエス様を信じたのでしょうか。二人とも信じたので救われたと言う風に書かれているようには思いますが、その信仰は必ずしもイエス様の理解に基づいたものとは思えないのです。ですが、最後の手段として、イエス様を信じるしかない、イエス様にしか頼るものがないと思ったのは確かな事でした。長血の女は、イエス様の事は何もわからなくても、昔から言い伝えられた、預言者の服にでも触れば癒されると言う、いわば迷信のようなものを信じていたのです。会堂長は、本当はイエス様に敵対する立場にあったのだけれども、打算的に、この際はイエス様にひれ伏すしかないと言う思いで、イエス様に頼ったのです。いわば、その思いは二人とも不純であったかもしれません。ですがイエス様は、そのような二人をも救ったのです。イエス様に必死になって願い求めるものを救ったのです。長血の女に対しては、「あなたの信仰があなたを救った。」と言い、会堂長には、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたのです。私たちも信仰者と言っても中途半端で、その動機は不純なものです。ですがそのような者達であっても、真剣にイエス様に願い求めれば救われるのだ、イエス様は受け入れて下さるのだと言う、希望を見出すのです。イエス様の慈しみと憐れみとは、実に、人の思いを遥に超えたものなのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。あなたは二つの癒しをなさいました。長血の女も、会堂長もあなたを理解してはいなかったかもしれませんが、あなたはそれをも受け入れて、癒しの奇跡をなさいました。人にはもう何もできないことでも、あなたはそれを成し遂げてくださいました。その様な方が、私たちと共に居て下さいますことを感謝いたします。私たちも信仰において未熟なものであり、取るに足りないものですが、どうかあなたにより頼み、あなたの憐れみを受けるものでありますように導いてください。自分に頼るのでも、人に頼るのでもなく、ただあなたにより頼むことが出来ますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆指導者の娘とイエスの服に触れる女
マタ 9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
マタ 9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
マタ 9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
マタ 9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
マタ 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
マタ 9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
マタ 9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
マタ 9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
マタ 9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。