家庭礼拝 2015年2月11日マタイ9章1‐17マタイを弟子にする

  賛美歌37 いと高き神に聖書朗読  祈り 奨励説教 一分黙想 全員祈り 主の祈り  賛美歌51 愛するイエスよ

 

 イエス様が、山上の説教を終えられて、山を下ってからはずっと奇跡物語の連続です。8章と9章はその奇跡物語に満ちています。ですがその中に、時々、奇跡物語でないような話が入ってきます。8章では、「弟子の覚悟」と言う小見出しの箇所と、9章では、今日お話しする、「マタイを弟子にする」という話、そして、「断食についての問答」がそうなのです。

 イエス様の奇跡の癒しは、初期のころは信仰のあるものにもないものにも、癒してほしいと願うものならば誰にでもその癒しを施しました。それは神の栄光を現すため、御国を伝えるために、公衆の中で、公に行われました。しかしイエス様の癒しの方法はだんだんと変わっていきます。それは誰にでも癒しをすると言うよりも、その人に癒されるにふさわしい信仰があるときにのみ、癒されると言う方法に代わっていくのです。そして、公と言うよりもプライベートな空間で行われると言う風に変わっていきます。その中でも、今日の中風の人を癒す話は、普通の癒しの奇跡とは違うのです。この癒された人には、信仰はありませんでしたが、連れてきた人々、多分家族の者達だと思うのですが、その人たちの信仰を見て、イエス様は奇跡の癒しをしたのです。これは私たち信仰者の家族にとっても教えられることの多い奇跡です。クリスチャンの家族と言っても、必ずしもみなが本当に信仰を持っているとは限りません。ですが信仰は押し付けても決してうまくいくはずはないのです。信仰のあるものが、その人たちをイエス様のところに連れて行って、本人がイエス様に出会って、奇跡を見ることが必要なのです。その時初めて信仰に至るのです。ですが、その時イエス様のところに連れていくためには、その人が信頼されていなければ連れていくことはできません。ですから、家族の中にあって、他の家族をイエス様のところに連れていくためには、家族から信頼される信仰者となる事がまず大切な事なのです。その信頼されることなくて、イエス様のところに無理に連れて行っても、かえって逆効果になるかもしれません。

さて、前回の話では、イエス様は山上の説教を終えられた後、山を下り、ペトロの家のあるカファルナウムで、癒しを行っていましたが、あまりに多くの人々が押し寄せるので、湖の向こう側の異邦人の地、ガダラ人の地方に行かれました。そこで、凶暴な悪霊に取りつかれた人を癒したのですが、悪霊を豚の中に押し入れた結果、豚は崖を降って、湖に入り、皆死んでしまいました。豚飼いたちは驚いて、町の人々に教えてみんなを連れてきましたが、その人たちはイエス様の事を恐れて、この地方から出て行ってほしいと言ったのです。それで、今日の9章に入るのですが、イエス様はまた船に乗って、「自分の町」に帰って来たのです。「自分の町」とはペトロの家のあるカファルナウムです。イエス様は、ガリラヤではここを中心にして宣教活動をしたので、この町を「自分の町」と呼んでいるのです。

イエス様たちがカファルナウムにつくと、また大勢の人々が、癒しを求めてイエス様のもとに集まってきたのです。マタイでは詳しく書かれていないのですが、マルコの2章1節からにはそのことがくわしく書かれています。それは4人の男の人が中風の人を床に寝かせたままイエス様のところに連れてきたのです。床に寝かせたままとありますので、ベットのようなものか戸板のようなものに寝かせたまま連れてきたのです。ですが、大勢の人々がイエス様の家を取り囲んでいたので中には入れませんでした。すると、その4人の男たちは大胆にも、その家の屋根をはがし、穴をあけて、その病人の寝ている床をイエス様のところにつり下ろしたのです。それを見てイエス様は怒ったでしょうか。そうではなかったのです、イエス様は、その人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言ったのです。当時は、病気は罪を犯したために起こるのだと信じられていました。罪と言うのは、神様に対して、罪を犯したと言うことです。ですから神様しかその罪を赦すことが出来ず、その病気も癒すことが出来ないと思われていました。きっとこの家族は、この中風の人、多分、この4人の男たちの父親だと思われますが、その人のために、いろいろとやったのだと思います。罪の許しの犠牲も捧げ、医者にもかかって、何とか直そうとしたのだと思います。ですが治らなかったために、この中風の人は、神様が怒っておられるのだと言う思いでいっぱいで、神様しかこの病は癒されないと信じていたのだと思います。この中風の人は、もう癒されることはあきらめていたようです。どんなことをしても神様しか癒すことが出来ないと信じていたのだと思います。その様な中で、メシアかもしれないと噂されたイエス様がやって来たので、この4人の男たちはこの中風の人をイエス様のところに連れて行こうと決心したのです。イエス様なら癒すことが出来ると信じたのです。この中風の人は必ずしもイエス様を信じていませんでした。むしろ諦めていたのです。ですが、この息子たちと思われる男たちの事を信頼していました。この男たちのすることに委ねて、為すがままにされていたのです。

ですから、この人々が中風の人をイエス様のところに連れてきたとき、イエス様はまずその人たちの信仰の強さを見られたのです。そして、その中風の人がなされるままにイエス様の前に下されてきたのを見て、イエス様は、まず、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたのです。この中風の人にとって、神様によって、その罪が許されることが必要だったのです。そうでなければ、その病は癒されないと信じていたのです。罪を赦すことが出来るのは、神様だけです。それなのにイエス様が、あなたの罪は赦される、と言ったのは、「あなたの罪は私が担う、私がその贖いを支払う。」と言ったのと同じことです。その言葉を聞いて、病人は赦しを受けました。ところが、それを聞いていた律法学者達には「この男は神を冒涜している」と思う者がいたのです。それは当然の事なのです、神様以外に罪を赦すことが出来ないのに、この男は神様の領域を侵していると考えたからです。このような誤解が最後にはイエス様を十字架につけることになります。その時イエス様は何と言ったでしょうか。4節から8節です。

マタ 9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

マタ 9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

マタ 9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

マタ 9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。

マタ 9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

この律法学者たちは、病気がいやされるならば、罪が許されたことになるが、罪が許されたと言うだけなら、神様を冒涜することになるではないかと思っていたのです。ですからイエス様は、本当に罪を赦したことの証拠として、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われたのです。その人は起き上がって、家に帰りました。人々は驚き恐ろしいほどに思いました。本当にこの人には神様の権威が与えられていると信じたのです。そして神様を賛美したのです。

使徒16章の31節には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と、パウロは言っています。家族の内に例え信仰の無いものがいたとしても、私たちの信仰がその家族を救うのです。ですから、信仰を押し付けるのではなく、私たちの信仰で、家族をイエス様の方へと連れて行けるようにするのが大切なのです。そのためには、まず、家族から信頼されるクリスチャンとなる事が大切なのです。この中風の人の癒しの話は、私たち自身の信仰の大切さを語っています。私たち自身の信仰が、私も家族をも救うのです。

さて、イエス様は、カファルナウムを拠点として活動されました。この場所は、ガリラヤ湖の北の端にある町で、エジプトからダマスコに通じる大きな街道があったのです。ですから多くの外国人や,商人や、旅人たちがここを通っていました。そしてここはヘロデの領土からピリポの領土に至る、国境の町でもありました。その境にはガリラヤ湖に流れ込む川がありました。その様なところに収税所と言う税を取り立てる場所があり、そこにマタイと言う取税人がいました。マタイによる福音書を書いたと言われる人です。国を出入りする人々や商人の商品に税金をかけて取り立てていたのです。この取税人と言うのは、取税人になりたいものが入札で、先に金を払って権利を買い取り、その後は、その金を取り戻すために定められた税金以上のお金を取って、不法を働いていたのです。ですからそこを通る人々からは、たいへん嫌われていました。ユダヤの律法では罪人と同類とされ、泥棒や殺人者や遊女と同じように扱われていたのです。ですから普通の人々は決して取税人と交際することはなかったのです。取税人マタイと言う人はそのような人だったのです。

ところが、イエス様がそこを通りかかった時、イエス様は「わたしに従いなさい」と言われたのです。マタイは立ち上がってイエス様に従っていきました。きっとマタイは、イエス様を何度か見かけたことがあり、イエス様の内に救いを見出し、従っていきたいとの思いがあったのだと思います。ですが、自分が罪びとであるとの思いから、イエス様にそれが言い出せないでいたのだと思います。ところが思いがけなく、イエス様の方から、「私に従ってきなさい」と声を掛けられ、喜んで従っていったのです。マタイにとってイエス様に従うと言うのは本当に何もかも捨てて従うと言うことなのです。この取税人の仕事は安定した収入と安定した仕事を与えてくれました。ですがそれを失うと言うことはもう何もよって立つところがなくなると言うことです。ペトロやヤコブ、ヨハネも何もかも捨ててあなたに従ってきましたと言いましたが、実際にはイエス様が死んだ後はまた漁師に戻っているのです。ですから戻るところがあったのです。ですが、マタイは違います。もう戻るところはないのです。

さて、マタイはイエス様に従い、イエス様を家に招いて一緒に食事をしました。うれしかったので、他の仲間たちも招いて、宴会のようにしたのだと思います。10節11節です。

マタ 9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

マタ 9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

 ここで現れるファリサイ派の人々と言うのは、イエス様の弟子になろうとしてイエス様に従っているのではなく、エルサレムのサンヒドリンから派遣されて、このイエスと言う男が、律法にかなった行いをしているのか、本当にメシアなのかを探るためにいつも監視している人たちなのです。そのファリサイ派の人々はイエス様のとんでもない行動を見つけたのです。それは、取税人と言う罪人と一緒に食事をしていると言うことです。これは律法で禁じられているどころか、自らも汚れてしまうと言うことなのです。ですから、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったのです。するとイエス様は言いました。12節と13節です。

マタ 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

マタ 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

イエス様は、イエス様を必要としている人々のところにやって来るのです。その人が善人なのか、悪人なのか、罪人なのか、慈善家なのかと言うことは関係ないのです。それに引き換え、ファリサイ人たちが考えているのは、律法によって正しいものだけが救われる世界であって、罪人たちは完全に締め出しているのです。イエス様は私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであると言いました。正しい人は関係がないと言っているわけではありません、自分は正しいと思い込んで、救われる必要がないと思っている人は、招かないと言っているのです。そして反対に、自分を罪人だと責めて、救いを求める人々を招いているのだと言っているのです。イエス様の求めるのは憐みであって、生贄ではないのです。イエス様の救いを必要とする人には、どんな人でもイエス様は招いてくださって、共に居て下さるのです。

ところで、このマタイの家での宴会がきっかけになったのかもしれませんが、ヨハネの弟子たちがイエス様のところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言ったのです。ヨハネはイエス様の先駆者として、イエス様の働きと存在を認めていました。イエス様もヨハネの洗礼を受けました。ですから、ヨハネとイエス様は非常に近い関係にあります。この時ヨハネは既にヘロデに捕えられて、牢に入れられていましたが、ヨハネの弟子たちはまだ活動していました。ヨハネは厳格なユダヤ教に基づく教えを守っており、断食も日常的にやっていました。その点においては、ファリサイ派にも似ていたのです。

イエス様が、宴会をして飲んだり食べたりしている話を聞いて、ヨハネの弟子たちは不審に思い、どうして断食しないのですかと言って来たのです。するとイエス様はこう言われたのです。15節から17節です。

マタ 9:15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。

マタ 9:16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。

マタ 9:17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 イエス様は、ご自分を花婿に例え、弟子たちを婚礼の客に例えたのです。ユダヤ教の世界ではいろいろなことが律法によって規制されていますが、婚姻の祝いの時だけはその規制から除外されているのです。ですから、断食すべき日でも婚姻の祝いの時は飲食を許されていたのです。イエス様は、そのような婚姻の祝いに例えて、イエス様が一緒にいる間は喜び祝うのは当然だろうと言っているのです。ですが、そのイエス様が、十字架につけられ、奪われる時が来る。その時には断食するようになるだろうと答えました。でもそのことがその時に理解できる人はいなかったと思います。イエス様が十字架につけられて、初めて理解できたのです。そして、こうも言いました。「織り立ての布を古い服につぎあてにしたりはしない。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。」と言う有名な言葉になります。この事は中途半端につぎ当てしたり、新しいものと古いものを一緒にすると全部だめになる、と言うことを言っています。イエス様は新しい人です。ヨハネの教えは、イエス様に近いとは言っても古いユダヤ教の教えなのです。イエス様の新しい教えを、ユダヤ教の古い教えで、修正するようなことはしないと言うことなのです。そんなことをしたら、それを行おうとする人はもっとひどい混乱に陥ると言うことです。イエス様の新しい教えは、新しいままに新しい人々に注ぎこまれるのです。イエス様を素直に信じる新しい革袋に、イエス様の新しいぶどう酒は注ぎ込まれるのです。私たちは、新しいものにいつも弾力性をもって受け入れられるようにしなければならないのです。信仰の世界はどうしても伝統に縛られる傾向にあります。今までこうしているのだからこうしなければだめだと言い、古いものほどいいものだ、と言う固定した観念を持ちやすいのです。そして古い考えで新しいものを修正しようとします。ですが、イエス様の教えは、その当時の伝統や言い伝えを破って、教えられた教えなのです。今の時代にあっても柔らかな素直な心を持ってイエス様を受け入れていくことが大切なのではないでしょうか。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものなのです。

 イエス様のなさることは奇想天外でした。とても普通の理解の仕方では受け入れられないものでした。中風の人に、あなたの罪は赦される、と言ってみたり、罪人である徴税人を弟子にしたり、断食もしないで飲み食いをしたり、今までの教えと全く違っていたのです。ファリサイ派の人々は全くこれについていくことはできませんでした。ヨハネの弟子たちでさえもそうでした。古い考えで固まっているために、新しいものを受け入れることが出来なかったのです。ですがむしろ無学なもの罪人と自覚している者達の方がイエス様の言葉を素直に受け入れ、癒されたり救われたりしているのです。私たちも、多くを学べば、より信仰者になれると思っているのかもしれませんが、そうではないかもしれません。むしろ素直に信じて受け入れるものの方はより大きな祝福を与えられているのです。私たちは自分たちの先入観から解放される必要があります。そして、新しく変えられる必要があるのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、あなたはこの世にあって罪を赦す権威を持たれる方です。その方を信じる信仰によって、4人の男たちは受け入れられて、中風の人は癒されました。神様、どうか私たちの家族もあなたによって救われるものとなりますように。ただあなたを信じる信仰が、この家族をあなたの信仰へと導いてくださいますように。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言う言葉の通りになりますように。あなたはどんな罪人の所にも来てくださいますことを信じます。あなたを求めるものにはあなたの救いの手があります。自分を正しいものとおごることなく、あなたの御前に謙遜なものとなって、あなたに救いを求めることが出来ますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆中風の人をいやす

マタ 9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。

マタ 9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

マタ 9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。

マタ 9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

マタ 9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

マタ 9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

マタ 9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。

マタ 9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

◆マタイを弟子にする

マタ 9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

マタ 9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

マタ 9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

マタ 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

マタ 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

◆断食についての問答

マタ 9:14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。

マタ 9:15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。

マタ 9:16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。

マタ 9:17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」