家庭礼拝 2015年1月21日マタイ8章1‐17多くの病人を癒す

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 イエス様は5章から7章までの山の上での説教、いわゆる山上の説教を終えられて、山を下りられました。そしてこの8章が始まります。この8章では奇跡が連続します。それはイエス様が悲惨な現実に立ち向かわれたと言うことです。我々の立場で言うと、山上の説教の場面は、教会での礼拝の場面であり、山を下られて、現実に立ち向かうとは、教会から出て、その人その人に割り当てられた、使命に立ち向かうと言うことです。この8章の前半は癒しの奇跡です。重い皮膚病の癒し、中風の癒し、熱病の癒し、悪霊に取りつかれた病人の癒し、と続きます。そして後半は、律法学者の回心の奇跡、嵐の奇跡、そして悪霊に取りつかれた墓場の人の癒しです。全部で7つの癒しがあります。

 この中で一つだけ、ちょっと違った種類の出来事があります。それは律法学者の回心です。前半は病気の癒しの奇跡、後半は超自然的な奇跡に対し、この律法学者の話は、特別なにかがある様な気がしませんが、マタイはこの事を奇跡と位置付けているからこの二種類の奇跡の間に入れているのです。イエス様に敵対するかたくなな律法学者が、イエス様に従いたいと言うのは一種奇跡的な事なのです。信仰の奇跡なのです。

 今日はその奇跡の内の前半部分、すなわち重い皮膚病の人の癒しと、中風の人の癒しと、熱病にかかった人の癒し、そして悪霊に取りつかれた病人の癒しの話となります。これらはただいろいろな病気を癒したと言う事よりも、その病気になった人とその周りの人々の話なのです。

 最初の、思い皮膚病の人の癒しの話は、当時、もう生きている人間とは扱われず、汚れたものとして、人に近づくこともできない、社会的に完全に抹殺された人の癒しです。二番目の中風の人の癒しは、異邦人の問題の話です。当時異邦人もまた、汚れたものとして、その家に入ったり共に食事をしたりすることは禁じられていました。その様な異邦人を癒す話なのです。三番目は、マラリアと思われる熱病にかかったペトロの姑の家での癒しです。いわば家族の中での癒しです。最後は、一般庶民の病気の癒しです。当時病気は悪霊に取りつかれたためと考えられたので、悪霊に取りつかれた病人の癒しとなっています。ここでは、病気の種類だけではなく、その背景となる周辺の人々の状況もまたいろいろなケースで現れてきています。これらを通して、聖書は、全ての人々に対する全ての癒しを語ろうとしているのです。

 山を下りてきたイエス様はこのように、多くの人々の癒しの願いによって大変な忙しさとなりました。ですがイエス様はその一つ一つに丁寧に対応していったのです。それは忌み嫌われた重い皮膚病の人であろうと、汚れた人々とされた異邦人であろうと同じように対応していったのです。しかもその日はマルコ福音書の記述1章21節によれば安息日であったのです。

それでは、最初の重い皮膚病を患っている人を癒す話を見てみましょう。1節と2節です。

マタ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。

マタ 8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

 イエス様が山上での説教をした時、群衆はその教えに非常に驚きました。それは律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったからです。律法学者の教えとは、聖書にはこのように書いてある、とか、昔からの言い伝えではこうなっている、と言う教え方であって、自らの教えではないのです。それに比べて、イエス様は権威をもって自らの教えを教えられたのです。ですから、人々は非常に驚いたのです。この方は偉大な預言者ではないかと思ったのです。そしてその興奮を心に抱いたまま、イエス様が山を下りられた時、イエス様に従って大勢の群集がついてきたのです。その時とんでもないことが起こったのです。

 それは一人の重い皮膚病を患っている人がイエス様に近寄って来たのです。当時は、この重い皮膚病を患っている人々は、死人と同じように忌み嫌われており、普通の人々の前には現れることはなかったのです。もし現れる場合には自分の事を「汚れたもの、汚れたもの」と言って人々に知らせながら歩いて、間違って触れたりさせないようにしたし、近づいてもいけなかったのです。近づくと石を投げつけられたりして、遠ざけられたのです。それなのにこの重い皮膚病を患った人は、イエス様に近づいてきたのです。そしてひれ伏して言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」この人は、イエス様が憐れまれる人であることを知っていました。その日が安息日で癒すことの出来ない日であり、しかも自分が普通の人に近づいてはいけない身であっても、きっとイエス様なら受け入れて下さって癒してくださるだろうと言う期待があったのです。ですが、そのお願いの仕方は、「主よ、この病を癒してください」ではありませんでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、遠回しに癒してほしいことを言い、その信仰を語ったのです。癒してほしいと言う強い願望を持ちながらも、自分の立場をわきまえて、謙遜に言ったのです。

 するとイエス様はこう答えたのです。3節と4節です。

マタ 8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

マタ 8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

イエス様はなんとその人に手を差し伸べて触れたのです。近づいてもいけないと言われているのに、直接手で触れたのです。これは普通ではとても考えられないことなのです。そして、「よろしい。清くなれ」と言われるとたちまち清くなり癒されました。そして、その後どうすればよいのかも教えました。イエス様は誰にも話さないようにと言って、律法に書かれているように、癒されたことの証明をするために祭司に体を見せることと、モーセが定めた供え物を捧げることを教えたのです。イエス様が誰にも話さないようにと言ったのは、この奇跡によって群衆が驚き騒ぎ出し、イエス様を担ぎ出して、群衆のリーダーにしようと言う運動をするのではないかと懸念したのです。ですがイエス様の時はまだ来ていないので、誰にも言わないようにと口止めしたのです。ですがそのことは言い広められました。

つぎは「百人隊長の僕をいやす」話です。百人隊長と言うのは百人の兵隊の長として、采配を揮う正規のローマ兵です。ふつうは管理能力に優れた指揮官です。この新約聖書にも何度か百人隊長が出てきますが、皆立派な百人隊長として登場します。今日の聖書に登場する百人隊長も信仰において優れた人でイエス様をうならせた人です。この百人隊長が願い事をもってイエス様に近づいてきました。5節から8節です。

マタ 8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、

マタ 8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。

マタ 8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。

マタ 8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

 ここでもイエス様の驚くべき応答があるのです。ここの箇所を百人隊長のすばらしい信仰として、理解することは大切な事としても、イエス様が、すぐに「私が行って、癒してあげよう」と言ったことが驚くべきことなのです。何故かと言うと、この百人隊長は異邦人なのです。当時の律法で、異邦人の家に入ることは、たとえ総督の家であろうともいけなかったのです。それなのに、イエス様は、私が行って、癒してあげようと言ったのです。この事は先ほどの重い皮膚病の人に触れることは律法で禁じられた忌むべきことであったのに、イエス様が手で触れて癒したように、今度は異邦人の家が汚れた家なのに、そこに行って癒してあげようと言ったのです。この事が理解できていないと、どうして百人隊長が、「主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。」と言ったのかを本当には理解できていないのです。この百人隊長は、ユダヤ人たちが異邦人の家に入ると汚れるので絶対に入らないと言うことを知っていたのです。ですからイエス様が、行って癒してあげようと言ったのに、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありませんと言ったのです。そしてこう言ったのです。「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒されます。」この百人隊長はイエス様の言葉を信じていたのです。イエス様が、癒すと言えば癒されると言うことを信じていたのです。それはイエス様にそのような権威があると信じていたからです。そして百人隊長はその信じている理由をイエス様に語りました。9節10節です。

マタ 8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

マタ 8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

この百人隊長は権威に従うことを知っていたし、どんなものでも権威のあるものには従わざるを得ないことを知っていたのです。それは軍隊がそのような権威で統率されているからです。この百人隊長は、この僕の病気が、当時は悪霊によると思われていましたが、イエス様の権威のもとにあるものと信じたのです。ですからイエス様が癒すと言えば悪霊でさえ従って癒されると言う風に信じていたのです。その百人隊長の言葉を聞いて、イエス様は感心しました。そして周りの人々に、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言ったのです。イエス様は、この百人隊長が異邦人なのに、イスラエル人以上の信仰を言い表したのを見て、とても感心したのです。それは見ないで信じると言うことです。イエス様の御言葉だけで信じると言うことなのです。

イエス様はこの百人隊長の信仰に感心して、こう言いました。11節から13節です。

マタ 8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。

マタ 8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

マタ 8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 イエス様は、ユダヤ人たちがイエス様の御言葉を信じようとせず、受け入れようとしていないのに、異邦人のほうが、このような立派な信仰を言い表しているのを見て、この先どうなるのかを予言したのです。それはいつか天国で、アブラハムやイサクやヤコブと一緒に宴会があった時に世界中から異邦人たちが大勢集まって来るのに、信じようとしなかったユダヤ人たちは外の暗闇に追い出されて、歯ぎしりすることになるだろうと予言したのです。この大宴会とはメシアが来られた時の大宴会なのです。ユダヤ人たちは、自分たちこそ招かれていると思っていたのに異邦人のほうが招かれて歯ぎしりすると言っているのです。

そしてイエス様は百人隊長にこう言いました。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」その言葉が発せられた時、百人隊長が信じたように、その僕の病気は癒されたのです。

さて、イエス様はこのような奇跡の癒しを行った後、休むために同じカファルナウムにあるペトロの家に行きました。イエス様は、このガリラヤ湖の北にあるペトロの家を拠点にガリラヤ地方の宣教を行ったのです。ところが、ペトロの姑めが熱を出して寝込んでいたのです。この地方ではよくマラリアが発生して、熱病となる事が多かったのです。14節と15節です。

マタ 8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。

マタ 8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。

 ペトロのしうとめとはイエス様たちにとって身内のようなものです。イエス様は身内も外も関係なく、またユダヤ人か異邦人かも関係なく、そして、汚れた人かそうでない人かも差別しないで、皆憐れみをもって癒したのです。ペトロのしうとめは、イエス様の手が触れると、熱が去って癒されました。するとその姑は起き上がってイエスをもてなしたのです。ここにイエス様に救われた者、癒された者が何をすべきかが書かれています。癒され、救われた者はそのあと気楽に暮らしていくために救われたのではないのです。このしうとめがしたように、イエス様をもてなすために、イエス様に奉仕するために救われたのです。そうすることがまた、その救われた喜びをさらに大きな喜びとするのです。

やっとイエス様の一日が終わりました。この日は安息日でした。ユダヤの一日は日没から始まります。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。この間は何の仕事もできないので、病人をイエス様のところに連れてくることもできなかったのです。その律法に関係の無かった重い皮膚病の人と異邦人はイエス様のところに来ることが出来たのです。ですが安息日が終わり、動いてよい時になると大勢の人々が病人を連れてイエス様のところに来たのです。16節17節です。

マタ 8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。

マタ 8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」

 イエス様は大勢の病人を癒されました。その病気は悪霊に取りつかれたために起こったと考えられていました。ですからイエス様は言葉で悪霊を追い出して病人を皆癒したのです。イエス様は山から下りられて、ずっと病人を癒し続けました。もう夜になってやっと休めるかと思ったら、さらに多くの人々がやって来て癒しを求めたのです。その癒しを続けているイエス様の姿に、マタイは預言者イザヤの言葉を重ね合わせました。イエス様のその姿は人々の罪を負い、その病を担う予言された人のような姿だったのです。

 イエス様は、人々を救うためにはどんな事でもしたのです。律法で禁じられている安息日の癒しも、重い皮膚病にかかっている人に触れて癒すことも、異邦人の家に入って、その僕を癒すこともいとうことはしませんでした。どんな律法による禁止事項も人を救うためなら、ためらうことなく行ったのです。さらに、身内の人にも手抜きをせず、大勢やって来た群衆の癒しにも自分の疲れを厭うことなく癒し続けたのです。願うものを皆癒し続けたのです。イエス様はどんな人をも分け隔てする方ではありませんでした。その方が、最後には私たちの罪を全部背負って、十字架で命を捧げられたのです。その姿をマタイはこのイザヤの予言の中に見ていたのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、イエス様が、どんな人をも分け隔てせず、忌み嫌うことなく、倦むことなく癒し続けて下さったことを崇め感謝いたします。その姿は私たちの罪を担い続けるイエス様の姿であり、イザヤが予言した預言者の姿でもありました。

 ペトロのしうとめは癒された後すぐに、イエス様に仕える奉仕を行いました。私たちはイエス様に奉仕するために救われました。今も働き続け、人々の救いを行っている方のために少しでも自分にできる奉仕を求められています。神様、私達もまた、イエス様に似たものとなって、人々に奉仕し、イエス様のみ心に適う奉仕をすることが出来ますように導いてください。すべて世の中のルールは、人々の救いのためにあります。そのことを忘れることなく、大胆にそして丁寧にうむことなく御心に適う働きを続けることが出来ますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆重い皮膚病を患っている人をいやす

マタ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。

マタ 8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

マタ 8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

マタ 8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

◆百人隊長の僕をいやす

マタ 8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、

マタ 8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。

マタ 8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。

マタ 8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

マタ 8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

マタ 8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

マタ 8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。

マタ 8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

マタ 8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

◆多くの病人をいやす

マタ 8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。

マタ 8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。

マタ 8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。

マタ 8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」