家庭礼拝 2015年1月5日マタイ7章1‐12裁くな、求めなさい。
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起
年が明けましたが、イエス様の山上の説教はまだまだ続きます。どこからどこまでが山上の説教かと言うと、5章から7章までの3章全体が山上の説教なのです。ですから、いよいよ最後の章に取り掛かったと言うことになります。この山上の説教はイエス様の教えの真髄です。最も大切な教えの箇所です。ここでの基本的な問いかけは、あなた方はこの世を選ぶのか、神様を選ぶのか、またはこの世に頼るのか神様に頼るのかと言う基本的な問いかけなのです。私たちの信仰が神様を信じると言いつつ、実はこの世に頼っていることが多いからなのです。私たちが基本的に何を中心にして生きるのかと言う問いかけが、この山上の説教の主題なのです。今日の説教の流れもその中にあります。裁くなと言う説教と求めなさいと言う説教とが、またあまり互いに関係なく話されているように見えますが、ここでもその主題は流れているのです。要するに、裁くなと言うことは自分の力に頼るなと言うことです。自分を偉いもののように思っているその力に頼るなと言うことです。求めなさい、と言うのは神様の力に頼りなさいと言うことなのです。自分の無力を悟って神様に頼りなさいと言うことです。この二つの事が繰り返し語られているのが山上の説教なのです。
承
人はどうして裁いてしまうのでしょうか。自分の事を棚に上げて、どうして他人の欠点や間違いを批判するのでしょうか。ここに人間の大きな問題があります。人類に争いが絶えない原因があります。人間関係の問題の原因のほとんどはここにあります。これがなければ人間は平和に暮らせるのです。イエス様はこう言いました。7章1節です
マタ 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
イエス様は人を裁くな、と言いました。それはあなたがた自身のために裁くなと言っているのです。道徳的に人を傷つけることは悪いことだから、裁くなと言うよりも、あなた方も裁かれないようにするためである、と言いました。人を裁くものは、反対に裁かれるのです。この原理は、大人になればだんだんわかってきます。経験を積むことによって、痛い目に合って分かって来るのです。ですが、まだそのような経験の少ない人は、人を裁く時の快感だけで、人を批判し、決めつけてしまうのです。どうしてそうするのでしょうか。それは自分が神様になった気持ちになるからです。その様な事をすればいつか自分にもいつか同じことが降りかかるなんて思っていないのです。ですが、裁くものは必ず裁かれるのです。イエス様は2節ではこう言いました。
マタ 7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
即ち、裁く人は同じ方法で裁かれると言うことなのです。それは必ずしも他人に裁かれると言うことだけではないのです。たとえ自分を裁く人が誰もいなかったとしても、自分の心に人を裁く思いがあるならば、その心の思いはいつか自分自身をも裁くようになるのです。人を見下すような傲慢な思いをもって人を裁いていた人は、自分が病気になって動けなくなったり、年を取ったり、貧しくなった時に、その同じ考えで自分を裁いてしまい、自分は無用なものだと思い込んだりしてしまうのです。裁いていけないのは、自分自身をも裁いてはいけないのです。自分自身を裁くものは、すなわち自分をだめだと思ったり、自虐的になる人は、実は他人に対しても同じような目をもって裁いてしまいがちなのです。
裁くものの一番の欠点は、自分自身を知らないと言うことです。さも、自分は神様のように正しくて、相手だけが悪いと思っているから平気で裁けるのです。そうでなければ、人を裁くなんて言う傲慢なことはできないのです。イエス様はこう言いました。3節から5節です。
マタ 7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
マタ 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
マタ 7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
イエス様が言おうとしているのは、人間は誰でも欠点を持っているので、人を裁くことはできない、と言うことなのです。裁くことが出来るのは、欠点の無い神様だけなのです。それなのに、私たちは、自分には欠点がないものと思って他人の欠点を指摘しているのです。その欠点は相手の欠点よりも、裁こうとしている本人の欠点の方が大きいのです。ですから、イエス様はなぜ自分の目の中の丸太に気づかないのかと諭しているのです。どうして他人の目のおがくずを取らせてくださいと、言えるのだろうかと言っているのです。人の欠点を指摘するよりも、まず自分自身の欠点を取り除きなさいと言っています。私たちのなすべきことは、他人の欠点を指摘することではなく、自分自身の欠点を取り除く事なのです。ですがいくら取り除いても取り除くことはできません。イエス様は、まず自分の目から丸太を取り除け、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことが出来る、と言いましたが、結局、自分の目からごみを取り除き切ることはできないのです。ですから裁くことが出来るのは神様だけなのです。裁くことは神様に委ねればいいのです。それなのに自分の事を棚に上げて、他人を裁こうとする人をイエス様は、偽善者と呼びました。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と言ったのです。
もし他の人のおがくずを取り除くことが出来るとしたら、それは愛による行為によってでしょう。信頼関係によってでしょう。その様な関係にある人々は決して相手を裁いたりはしないのです。相手の身になって考えるので、裁くことはしないのです。このイエス様が言った、裁くなと言った相手は一般の人々と言うよりも、パリサイ人や律法学者たちに対していったのだと思います。彼らは自分たちの知識を誇って、律法を知らない人々を裁いて、あれがいけないこれがいけないと言い、ああしなければならないこうしなければならないと指図していたのです。それは決して愛から出たものではなく、イエス様の言っている偽善的行為なのです。いずれにしても、人間は他の人々を裁く資格はないのです。裁くのは神様です。私たちは、自分の至らないところを認めて、神様に補ってくださるように祈りお願いするのがなすべきことなのです。
イエス様はこの後で不思議な事を言いました。6節です。
マタ 7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
神聖なものとか真珠に例えられているのはイエス様の福音です。この福音の言葉を理解することも受け入れることもできない人々に無理に教えようとしてはいけないと言っています。無理に教えようとすれば、反抗したり恨んだり殺意を持ったりするからだと言っているのです。これは、福音を理解できない人々を差別する言葉ではありません。むしろ福音を悪意を持って受け入れない人々に対する言葉なのです。イエス様の周りにいつもいた、律法学者やパリサイ人たちはまさにこのような人々で、イエス様の福音を聞いて、なんとかして、律法違反の罪で裁いてやろうと付け狙っていたのです。その様な人々に、いくら教えても逆恨みするだけだから、大切な福音を与えてはいけないと言ったのです。
転
さて次は、人に対する姿勢の言葉ではなく、神様に対する姿勢の言葉です。7節8節でこう言っています。
マタ 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
マタ 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
この言葉は有名な言葉なので、クリスチャンでなくても聞いたことのある言葉だと思います。この言葉に励まされて、求め続け、探し続けて、門をたたき続けて、やり遂げてきた人々のいかに多かっただろうかと思わされる言葉です。この言葉は信仰的に捕えなくても、大きな励ましを与える言葉です。神様を信じていなくても、求めなさい。そうすれば与えられる、と言う言葉は十分に励ましになるのです。ですがこの言葉は信仰的な言葉です。この言葉の後ろには神様がいるのです。求めるのは神様に対して求めるのであり、探すのは神様の答えを探すのです。そして門をたたくのは神様の御心の門をたたくのです。そしてそれをあきらめずに、真剣にやり続けていれば、神様はそれを与え、見出せるようにし、その扉を開いてくださると言っているのです。あなたたちの神様はそのような神様なのだから、真剣に求め続けなさい。そうすればきっと憐れんでくれて与えてくれるだろうと言うのです。その神様を信じなさいと言っているのです。その神様がどんな神様であるかを表すために、イエス様はこう言いました。9節から11節です
マタ 7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
マタ 7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
マタ 7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
イエス様は、人間が、たとえ悪いものであってもその子供にはよいものを与えることを知っている、と言いました。子供がパンを欲しがっているのに、石を与える親はなく、魚を欲しがるのにヘビを与える親はいないのだと言っています。人間でさえこのように子供を愛し、子供のためにはよいものを与えるのだから、あなた方の天の父は、その子供である私たちに、良いものを与えて下さらないはずはないだろう、と言っているのです。イエス様は、天の神様は私たちの父なる神様であって、良いものを与えて下さる神様であると明言しているのです。これは素晴らしい福音です。私たちは子として、神様に願い求めることが出来るのです。天の父なる神様は私たちが本当に真剣に祈って願い求めるならば、私たちの願いを御心に適って叶えて下さるのです。
そして最後にこう言ったのです。12節です。これは歴史の中で、イエス様だけが語った黄金律です。
マタ 7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
世界中にこれに似た道徳律はありました。それは、「人にされたくないことを、人にしてはならない」または、「人に迷惑をかけてはならない。」と言う言葉です。これは道徳の言葉として世界中にありました。これは社会生活をするときには、人間として守らなければならない戒めでした。ですが、この言葉とイエス様の言葉の違いは何でしょうか。どうして、それまで、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさいとは言えなかったのでしょうか。そこには大きな隔たりがあるのです。そこには人間の力の範囲と神様の力の範囲の違いがあるのです。一方はしてはならないことを決めてあり、もう一方は、何でもしなさいと、するべきことを決めてあるのです。同じ言葉の裏返しのように聞こえるこれらの言葉ですが、してはならないことと言うのはとても小さな範囲なのです。それは自分だけの範囲なのです。それだけ守ればすべてを守ったかに見えるような狭い範囲なのです。ですから、ユダヤ人たちは、してはならないと言う言葉を守って、自分たちは完全にそれを守っていると誇る人々もいたのです。それが律法の限界なのです。そしてそれを守っていると思う人々は守れない他の人々を裁いて非難したのです。それがイエス様の裁いてはならないと言う言葉となりました。他方、イエス様の言った、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい、と言う言葉は無限に広い言葉なのです。自分以外のすべてがその対象になるのです。すべての人々に対して、自分がしてもらいたいと思うことを何でもしなさい、と言うことなのです。人間にはとてもできそうにはありません。これが出来るのは実は神様だけなのです。神様のみが、全ての人に対して、その望むことを何でもしてあげられるのです。イエス様の言った言葉は、私たちに、神様のように、人々に何でもしてあげなさいと言うことなのです。その様に言われた時、私たちはどのように反応するでしょうか。私達は人間なのだから、そんな神様のようなことが出来るはずはないではないか、と言うことではないでしょうか。そこで、「だから」、という言葉が出てくるのです。人間の力ではできない、でも神様に願い求めればそれは叶えられる。その様に、何でも神様に願い求めれば叶えられるのだから、人々にしてもらいたいと思うことは何でもしてあげなさい。と言うことなのです。神様に力に頼って、それを成し遂げなさいと言うことなのです。
結
単に言葉の意味の裏表に見えたその言葉の背景には、人間の力の限界と、神様の力の無限とがあったのです。神様が与えて下さることを信じること無しにはそれは言えなかったのです。
ここに、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と言う言葉を道徳的に考える人々と信仰的に捕える人々との大きな違いがあるのです。確かに、この言葉を道徳としてとらえて実行しても良い業を行えるかもしれません。しかしそれは自分が出来ると思う範囲だけなのです。イエス様の教えている範囲は、自分が出来るかどうかをはるかに超えて、自分がそうしてほしいと思うことを、神様に願い求めて何でも人々にしてあげることが出来るのだと言うことなのです。自分の力の限界をはるかに超える言葉なのです。私たちはそのことを信じて、人にしてもらいたいと思うことを、人々にもしていこうと決心することが出来るのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。あなたはわたしたちに、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」と教えてくださいました。これが出来るならば、世界は愛に満ちた、平和な世界になるに違いないのです。ですが私たちにはそれが出来ないとあきらめているところがあります。そして、出来ないと思っている者同志が、相手はもっとできないではないかと裁いてしまっているのです。ですがイエス様は、そうではないと言いました。あなたたちの願い求めることを神様に願い求め続けなさいと言いました。神様は慈しみ深い父なる神様なのだからそのことをきっと叶えて下さると教えてくださいました。神様、そのみ言葉を信じて祈ります。どうか人を裁くことなく、あなたが与えて下さることを信じて、願い求めていくことが出来ますように。自分がしてほしいと思うことを何でも人々にしてあげることが出来ますように。できないなどと限界をもうけずに、神様に委ね、祈り続けることが出来ますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆人を裁くな
マタ 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
マタ 7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
マタ 7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
マタ 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
マタ 7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
マタ 7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
◆求めなさい
マタ 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
マタ 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
マタ 7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
マタ 7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
マタ 7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタ 7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」