家庭礼拝 2014年12月17日マタイ6章19‐34思い悩むな

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 マタイによる福音書では、山上の説教が長く続いていますが、いろいろなところで語られた説教を、ここの山上の説教のところに集めたものだとも言われています。ですから、説教もバラバラで寄せ集めに近いものだろうなと思ってしまいます。今日の聖書の箇所も、一見するとばらばらの寄せ集めに見えてしまいます。小見出しで言うと、@天に富を積みなさい A体のともし火は目 B神と富 C思い悩むなと、なっていてその関連性が良く分からないし、ばらばらであってもしょうがないのではないかと思っていたのです。

 ですが、先週と先々週学んだ主の祈りを含む三つの教えの所では共通のテーマがありました。「施しをするときには、」と、「祈る時には、」と、「断食するときには」の三つ教えです。この三つの事で共通して言おうとしていることは、「偽善者になるな」と言うことなのです。すなわち、神様の御前で正しくあれと言うことです。このように、かなり考えられてつくられている文章なので、ここでも何か共通のテーマがあるのではないかと考えていました。そして、ハッと気がつかされました。この山上の説教で語られていることは、すべて、私たちに「天」を選ぶのか「地」を選ぶのかとその選択を迫っているのだと言うことに、気がつかされたのです。先週までのイエス様のメッセージもそうだったのです。すなわち、「神様」に従うのか「世」に従うのか、と言うことです。そして、イエス様は、この世のものは朽ちやすく虚しいものである。永遠なる神様に従いなさい、朽ちない天に富を積みなさい。そうすればあなたは報われる、と教えているのです。

 今日は、四つのメッセージを学びますが、その一つ一つに、あなたは天を選ぶのか地を選ぶのかと言う、決断を迫る言葉のあることを、心において、しっかりと学んでいきたいと思います。

では最初は、「天に富を積みなさい」と言うメッセージの箇所です。19節から21節です。

マタ 6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

マタ 6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

マタ 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

ここでは富について語られています。富を持つものは、その富によって、豊かに心配なく暮らすことが出来ます。ですから人々は努力して富を集めてそれで豊かな人生を送ろうと考えます。イエス様は富を持ってはいけないとは言っていません。人間が努力をし、富を得ようとすることは、自然な事としているのです。信仰者の中には、富に心を奪われるのは罪であると言って、その事を遠ざけようとする人もいますが、イエス様はそうではありませんでした。ですがイエス様の語っていることには条件があるのです。それは富を積んでも良いが、それを天に積みなさい、地上に積んではならない、と言うことです。自分のものにしようとしてはならないと言うことです。

普通人々は富を地上に積んでいます。お金も、家も、財産も、食料も皆地上に積んでいます。ですが、イエス様は地上にあるものはすべて朽ちてしまう、無くなってしまうと言っているのです。どんな立派な服や家具であっても、虫が食って価値の無いものになったり、どんな立派な刀剣や食器や飾り物であっても錆びついて使い物にならなくなってしまうかもしれない。たとえ錆びないような、金銀や宝石のようなものであっても、盗人が忍び込んで盗み出してしまうかもしれない。地上に富を積めば積むほど、その価値がなくなってしまうことを心配しなければいけなくなり、心は穏やかではなくなってしまいます。ですからイエス様は、富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。と言っているのです。では富をどのようにしたら天に積むことが出来るのでしょうか。それは、地上の富を神様のために用いることです。礼拝での献金や貧しい人への施し、人を喜ばせたり幸せにしたりするために用いること、これらは皆神様が喜んでくださることであり、御心にかなうことです。このようにして、天に富を積みなさいと言っているのです。地上の富は金銭や財産だけではありません。私たちの時間もまた、神様のためにささげることの出来る富です。命もそうです。その様なものを、神様にささげることが富を天に積むことになるわけです。

イエス様は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言いました。私たちが地上に富を積めば、地上の事に心を奪われ、天に富を積めば、天に心を奪われるのです。地上の事に心を奪われている人は、その富が無くならないかといつも心配することになりますけれども、天上に富を積んだ人は、その富を神様が喜んでくださっていることに平安を見出すのです。

イエス様はここで、あなたは富を地に積むのか天に積むのかと迫っているのです。地に富を積むものは朽ちるものに信頼を寄せ、天に富を積むものは、朽ちないものに信頼を寄せることになるのだ、と言うことを言っているのです。それは神様を信頼することです。ですから、地に富を積むものではなく、何時までもなくならない天に富を積むものになりなさいと言っています。

二番目は「体のともし火は目」と言うメッセージです。22節と23節です。

マタ 6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、

マタ 6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 ここの聖句は、前後の箇所と何の関係もなくあるような気がします。そのために、これらの箇所がバラバラの寄せ集めではないのかと思ってしまうのです。ですが、その次の箇所が、再び、「神と富」について語っていることを考えると、ここの「体のともし火は目」と言っている箇所も、「天の富」と何か関係があるのではないかと思うのです。

ここで語られている「体のともし火は目である」とはどういう意味でしょうか。私は最初、反対に考えていました。体の中にある光が、目を通して外に現れてくる、だから目は身体のともし火である、と思っていたのです。即ち、その人の目を見れば、その人の身体の中にある光が分かる、と言う風に理解していたのです。即ち、目は心の窓、と言われるように、目を通して心の光を見ることが出来ると理解していたのです。ですがどうも違っていたようです。光の来る方向が反対のようです。光は天からやって来るのです。そして目を通して体の内部を照らすのです。要するに目は天からの光を受ける小さな窓であり、それがともし火なのです。その窓が綺麗に澄んでいれば、光が体の中まで入って、全身が明るくなり、濁って光がとおらなくなれば、全身が暗くなると言っているのです。ましてや、その光が消えてしまったら、その暗さはどれほどだろうかと言っているのです。

これは、前のメッセージとの関連で言えば、天に富を積むものは、心も天に向けられる。すると天の光はあなたの目を通して全身を明るくするが、地に富を積むものは、心が地に向けられ、天の光が目を通して体にささなくなってしまうと言うことを言っているのだと思います。ですから、ここでもイエス様は、あなたは光に満ちた天を選ぶのか闇の深い地を選ぶのかとその選択を迫っているのです。

三つめのメッセージは「神と富」です。また富の話に戻って来ます。24節です。

マタ 6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

先ほどは、富を天に積むのか地に積むのかと言うメッセージでしたが、今度は神に仕えるのか富に仕えるのかと言う選択になります。ですがこれは同じことです。富を天に積むと言うのは、神様に富を捧げることだからです。地に富を積むと言うのは、富を自分のものにしようとすることです。ここで言っている富とは、自分のものにしようとしている富に仕えることなのです。イエス様は、神と富とを二人の主人に例えました。それは当時の奴隷が主人に仕える場合どちらに仕えるかと言うような例えです。そして、誰も二人の主人に仕えることはできない、と言いました。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。と言ったのです。そして、あなた方は、神と富とに同時に仕えることはできないと言ったのです。この事を誤解して、富を得ることは、神様に逆らうことであると思ってしまう人もいるのです。イエス様は、先ほども言いましたが、富を得ることを否定しているのではないのです。イエス様は、「富を得ても良い、だが、あなたの主人はどちらなのか、神か富か」と言っているのです。私達が、神様を主人として、富を得、それを神様の御心にかなうように用いることは神様は決して、反対しているわけではないし、イエス様もそうしてはいけないと言っているのではありません。神様よりも、富を大切に思った時は、富を主人にして従っているのです。その様な事をしてはいけないと言っているのです。どのような富を得たとしても、天に富を積んで、主なる神に仕えなさいと言っているのです。

さていよいよ、今日の聖書の箇所で一番長く語られている箇所に来ました。それは、「思い悩むな」と言うメッセージが語られている箇所です。まず25節です。

マタ 6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

 ここで、「だから言っておく。」と言う言葉で始まっています。どうして、「だから」と言う接続詞が使われているのでしょうか。「だから」と言うのは、「こういうわけだから」「こういう理由だから」と言う意味です。とすると、今まで語られていたことの中にどのような理由が語られていたのでしょうか。「天か地か」「神か富か」と言う選択の問題でしょうか。それだけではなく、天にある富は朽ちることなく、天の光は全身を明るくし、私たちに智慧に満ちた平和な人生を与えてくれる。だが、この世の富に信頼するものは、いつかその価値が消え失せ朽ちてしまい、天の光は全身に届かず、暗い不安な人生を歩むことになる。そして、天と富とに同時に仕えることはできないのだ。だから、天のみに信頼しなさい、と言っている「だから」なのです。天が地よりもどんなに優れているかを語ったうえでの「だから」なのです。

25節で言っている「だから」の後は、地上の事に思い悩むなと言っているのです。地上の事とは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むことです。そのような事よりも命の方が大切ではないかと言っているのです。イエス様が言おうとしているのは、命は神様が与えて下さったものではないか、体も神様が与えて下さったものではないか、その様に生かしてくださっているのに、生きるのに必要な食べ物や飲み物や着るものを与えないはずはないではないか。神様を信頼しなさい。と言っているのです。そして空の鳥がどのように養われているか、野の花がどのように装われているのかをよく見なさいと言っているのです。イエス様はこう言いました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」そしてこうも言いました。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」命を与えて下さる神様は、何も心配しなくてもこのように養ってくださるのだから思い煩ってはならないとイエス様は言っているのです。心配すると言うのは、このように私たちを養ってくださる神様に信頼しないと言うことなのです。心配は不信仰なのです。自分の力で何とかしたいと思っていることなのです。ですからイエス様はこう言いました。

マタ 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

マタ 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

マタ 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

マタ 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

私たちに求められているのは心配することではありません。神様を信頼し、神の国と神の義を求めることです。「御心がなりますように」と祈る事なのです。そうすると、命を与えて下さっている神様が、小さなことを与えないはずはないのですと言うことなのです。これらのものは皆加えて与えられるのです。私たちの信仰においてそして人生を歩むことにおいてとても大切な事は、33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言うことを信じて行うことです。これが信仰です。

イエス様は明日の事を擬人化してこう言いました。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」明日の事は、自分が思い悩まなくても、明日自身が思い悩んでくれると言うのです。だから私たちは、今日の分だけ思い悩むだけでいいのです。ですから、明日の分まで、取り込んで悩むことは越権行為なのです。なぜなら、明日の事は神様の領域なのです。私たちにはわからないことだからです。イエス様は私たちに思い悩むなと言いました。それは不信仰な事であると言っているのです。そうならないように、神の国と神の義を求めて祈りなさいと教えているのです。私の思い通りにではなく、ただ御心がなりますようにと祈りなさいと言っているのです。それが、必要なものが与えられる一番の方法であると言っているのです。


 

 イエス様は、ここの聖書の箇所で、天がどんなに素晴らしいものか、信頼に足るものであるのかを教えてくれました。地にあるものは朽ちやすく、暗いものです。その様な世のものにではなく、朽ちず、光に満ちた天に信頼を寄せなさいと教えてくれました。天は私たちに命を与え体を与えてくれているのだから、命に必要なものはくださらないはずがないと信頼するのです。そしてどうすればこの世のものに捉われずに生きていくことが出来るのかを教えてくれました。それは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言う教えなのです。私達はこのような信仰を与えられました。もう心配する必要はないのです。思い煩う必要はないのです。ただ、神様の御心がなりますようにと祈り、神の国と神の義を求めていくだけなのです。そうすれば必要なものは満たされ、空の鳥のように自由に羽ばたき、野の花のように美しく装うことが出来るのです。

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。私たちには素晴らしい天の恵みが与えられています。神様に信頼することが許されています。そして、もう思い煩うことなくただ神様に委ねることが出来ます。神様、このような信仰を与えられ、平安に過ごすことが出来ますことに感謝いたします。これからもいろいろな困難があるかもしれませんが、どうか思い煩うことなく、天の恵みを心に思いながら、信頼して歩むことが出来ますように。いつも「御心がなりますようにと」神様の義を求めていくことが出来ますように。この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

◆天に富を積みなさい

マタ 6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

マタ 6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

マタ 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

◆体のともし火は目

マタ 6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、

マタ 6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

◆神と富

マタ 6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

◆思い悩むな

マタ 6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

マタ 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

マタ 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

マタ 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

マタ 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

マタ 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

マタ 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

マタ 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

マタ 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

マタ 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」