家庭礼拝 2014年12月10日マタイ6章9‐18断食するときには
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起
今日は、先週の続きの主の祈りの後半となります。前半では、神様と神様の御国の栄光のために祈りました。後半は自分たちの必要の為の祈りです。私たちは自分の必要を祈れと言われたら何を祈るでしょうか。どのような思いで祈るでしょうか、そして今日イエス様が教えてくださる必要の祈りとはどういうものでしょうか。私たちの祈る祈りとはどう違うのでしょうか。その様な事を思いつつ学んでいきたいと思います。
キリスト教は祈りの宗教とも呼ばれ、祈ることがとても大切な宗教です。私自身もキリスト教の道を求めたのは、この祈ることが出来ると言う素晴らしさを覚えたからでした。仏教でも他の宗教でも祈ることはできるでしょう。ですが、私はそれまで何に対して誰に対して祈っているのかわからずぼんやりと祈っていたのです。ですが、キリスト教にあっては祈る時には、神様やイエス様の姿がはっきりとしてくるのです。信仰に導かれる時と言うのは、たいていいろいろな苦難を背負っているものです。私も例外ではなく、若い時に、「神様、信じます、助けてください。」と言う祈りの言葉を、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで祈ったことを今でもはっきりと覚えています。この時が私の信仰のターニングポイントでした。この祈りが出来た時から私は信仰者となり、教会に行くことにしたのです。祈ることが出来ることの中にすでに、神様を信じていることが含まれているのです。ですがそれから40年近くなりますが、自分が本当に正しい祈りをしているのかがまだ怪しいのです。未だに自分の利益を求める祈りに終始しているのではないかと、怪しんでしまうことがあります。
今日は、その自分の必要について、このように祈りなさいと言うことを学びますので、その事を心に思いつつ、大切な教えを学んでいきたいと思っています。また、ここの聖書の箇所は、先週も言いましたが、三つの箇所が一つの事を言おうとしている箇所なのです。それは小見出しで、「施しをするときには、」と、「祈る時には、」と、「断食するときには」の三つです。この三つの事で言おうとしていることは、「偽善者になるな」と言うことなのです。どのような良いことをしたとしても、偽善者のように、人に報われるためにしているならば、神様の報いは与えられない、すでに人の報いを与えられているからだ、ということなのです。イエス様がこれほど偽善者になる事、人に良く思われようとしてすることを禁じていることをしっかりと受け止める必要があるのです。ところがクリスチャンの弱点はここにあります。神様に認められようとして、偽善者になる事があるからです。それは神様に心が向いているのではなく実は人に心が向いているのです。この事をも忘れてはいけないこととして、今日は「断食するときには」と言う個所を学んでいきます。
承
後半の私たちの必要のための祈りは、三つの祈りで構成されています。それは、「必要な糧を与えてください、」と、「負い目を許してください、」と、「誘惑にあわせないでください」と言うことです。なぜイエス様はこの三つを選んで、私たちに必要の祈りの方法を教えてくれたのでしょうか。
最初の必要の祈りはこれです。11節です。
マタ 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
ここで、この必要な糧とは何かということでいろいろな解釈をする人々がいます。普通に考えれば、必要な食料を、ということですが、これを霊的に考えて、神様の御言葉をであるとか、イエス様ご自身であるとか、神様の導きとかと言う風に理解する人々もいます。ですが使われているもともとの言葉からすると、それは、日々生きるのに必要な食料と言うことのようです。すなわち単純に考えていいのです。それを今日与えてくださいと祈っているのです。それは、今日生きるのに必要な食べ物を、今日お与えくださいと言うことです。明日も、明後日も将来にわたって、安心して生きられるようにたくさんの食べ物をくださいと祈っているのではないのです。今日の分だけをお願いいたしますと祈っているのです。明日の分はまた、明日神様に祈っていただけると信じるからです。将来の分まで欲しいと願うのは、神様の恵みを本当には信じていないからなのです。貪欲なのです。いつ裏切られるかもしれないと思うからです。
このことから連想するのは、モーセがイスラエルの民を荒野に導いた時、神様がマナを降らせて食べさせたことです。このマナは今日食べる分だけ取ることが出来たのです。明日の分までとっても腐って食べられなくなったのです。その日、その日を神様に信頼して、必要な食べ物を戴くこと、それが、必要な糧を今日与えてくださいと言うことなのです。そしてここでは、私に必要な糧ではなくて、私たちに必要な糧、を祈っているのです。それは、自分はその糧で満たされたとしても、他の人が必要な糧がなければ、互いに助け合って、皆が必要なものを与えられるようにすると言うことを含んでいるのです。自分だけ満たされればいいと言う考えとは違うのです。この祈りを食料だけでなく、生きるに必要なものと広く考えることは許されることだと思います。そうすると、この祈りの言葉は、このようにも言えます。「皆それぞれに、今日必要とするものが、神様によって、今日与えられますように。」と言うことになります。私たちがふつう唱えている主の祈りでは、今日も与えたまえとなって、日々繰り返し祈られることを前提にしています。そして、そのような日々の必要と言うのは、皆神様から来るのであり、自分たちの力で得られたものではないことを告白しているのです。
このように、今日現在の必要がこの祈りで満たされると、そして次の祈りは私たちの過去の出来事に対する祈りです。それは「過去の負い目」です。私たちの祈る主の祈りでは「われらの罪」と語られています。聖書ではどのように語られているかと言うと、12節です。
マタ 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
私たちの唱えている主の祈りでは、「われらに罪あるものを赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」となっています。ここで、負い目とか罪とか言っていることは一体何なのでしょうか。犯罪の事なのでしょうか、何か法的にあるいは人間として、悪いことをしたと言うことなのでしょうか。どうもそのような事とは違うようなのです。ここで言われている、負い目とか罪と言う言葉のさしていることは、「私たちが、なるべきものになっていない」と言うことのようです。別の言葉でいうと、「的外れ」という表現でいう人もいます。神様が、私たちに、こうありなさい、こうしなさいと言っていることに対して、その様にできていないことが負い目であり、罪なのです。間違った理解や、間違えた考え方によってそうなっているのです。その負い目や罪を赦してくださいと祈っているのです。これは神様にしか赦すことの出来ないことです。しかも大事なことは、「私たちも自分に負い目のある人を、許しましたように。」と祈っていることです。これは私たちが、他の人を許した量に比例して、私たちをも許してくださいと言うことなのです。ですから自分が許さない人は、神様に許さないでくださいと祈っているようなものなのです。この祈りはある意味で恐ろしい祈りなのです。意味も分からずに祈る祈りとは違うのです。もっとはっきり言うと、人を許さない人は、主の祈りを祈る資格がないと言うことなのです。その様な厳しい思いをもって、この主の祈りを祈ることが大切なのです。私たちが許されるために、私たちはもっともっと他の人を赦し続けることが必要なのです。
三つめの必要の祈りは誘惑に関する祈りで13節です。
マタ 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
これは将来に対する、未来に対する祈りです。もうお気づきだと思いますが、この主の祈りの後半の三つの必要に関する祈りは、私たちの現在の必要、それは日用の糧、二つ目は過去の必要、それは負い目の許し、そして三つめは将来に対する必要、それは誘惑に合わない、と言う現在、過去、未来に対する必要を祈っているのです。そしていよいよここで、未来に対する必要を学びます。
私たちの祈る主の祈りでは、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈っています。私たちの言葉で、誘惑と言うと、何か悪いことに引きずり込もうとする力と言うような悪い意味でしかとらえませんが、ここでの言葉はそれとは少し違うのです。ここでの誘惑や試みと言う言葉は同じことを意味しています。すなわちここで言われているのは試練です。神様の試験なのです。私たち人間が、神様の命じることに従うかどうかを試験することが誘惑であり試みなのです。この試験の問題を出すのが、神様に使われている、サタンなのです。ヨブ記の中で、サタンが、神様に対して、ヨブにいろいろな試練を与えさせてくださいと言っているように、私たちに対してもそのような試練を与えようとしているのがサタンなのです。この聖書の箇所では悪いものから救ってくださいと言っているその悪いものがサタンなのです。ですが私たちの祈る主の祈りでは、そのような人格を持った悪いもの、サタンではなく、たんに悪より救い出したまえとなっています。ここには人格は無く悪と言う出来事だけなのです。この祈りはどのように理解すればよいのでしょうか。試練や困難や苦しいことがありませんようにと言う祈りなのでしょうか。その様なことが避けられるようにと言う祈りでしょうか。そうではないのです。試練や困難は避けられないのです。誰にでもやって来るのです。ですがその時に、それが誘惑の種となるのは、神様に信頼しようかしまいかと迷うことが誘惑なのです。どんなに大変なことが起こっても、神様に固く信頼しているならばそれは誘惑とはならないのです。この祈りは、「将来にわたって、どのような困難があっても、苦しいことがあっても、神様を決して疑ったり離れたりすることがありませんように」と言う祈りなのです。その様な迷いに陥ることがありませんようにと言うのが、悪いものから救ってください、と言う祈りであり、悪より救い出したまえ、と言う祈りなのです。この祈りは、決して困難が来ませんようにと言う祈りではないことを注意すべきです。私たちは神様の試練を軽んじてはならないのです。
イエス様は、この主の祈りを弟子たちに教えた後で、その祈りをするときに大切な事を繰り返し語りました。それは赦すと言うことです。14節と15節です。
マタ 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
マタ 6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
先ほども言いましたが、主の祈りをするときに、人を赦さない、と言う思いでいるならば、その人は主の祈りを祈る資格がないのです。主の祈りを祈る人は、許す人だけなのです。それも自分が許した程度だけでもいいですから、私たちの負い目をも許してくださいと、謙遜に祈れる人だけなのです。イエス様は、「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお許しになる、しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」と念を押して言っていることを無視してはならないのです。許さない人には、主の祈りを祈る資格はないのです。
転
さてこれで主の祈りは、終わりましたが、偽善者となってはいけないと言う戒めの三つめはまだ終わってはいません。それは断食をするときの事です。ユダヤ人にとって、断食することは悔い改めと浄めを現すものです。キリスト教には断食の規定と言うのはありませんが、イスラム教ではラマダンの断食を厳格に守っています。これは、マホメットが最初に啓示を受けた時を記念するためのものです。ユダヤ教では律法に規定されているのは贖いの日の断食だけです。しかしそれだけではなく、いろいろな信仰的な理由で、断食をする人々がいました。パリサイ人やヨハネの弟子たちも断食をしました。モーセもシナイ山で断食しました。イエス様も公生涯に入る前に荒野で断食をしたのです。ですが、イエス様は弟子たちに断食を強いることはしませんでした。律法の断食と言うのは日の出から日没までの事なので、何日も断食すると言うようなものではありません。でも中にはそうする人々もいたのです。イエス様もモーセも荒野で40日40夜の断食をしたのです。このような断食に対し、イエス様は何を言ったのでしょうか。16節にはこう書いてあります。
マタ 6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている
イエス様が言っているのは、「断食することは良いことだ、だが、偽善者の様にはするな」と言うことです。それは、断食するときにはただ、神様に向かって行いなさい。偽善者のように、人に褒められることを目的にしてはいけない、と言うことなのです。偽善者たちは、人に褒められようとして、いかにも自分は断食していますよと言う風に、顔をやつれたように見苦しくしているのです。ですがイエス様は言いました。「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」と。これは人からは褒められることがあるかもしれないが、神様から褒められることはないと言うことです。既に報いを受けているとは、人の称賛だけで終わりであると言うことです。ですが、信仰者の目的は人に認められることではなく神様に認められることです。
そうするために、イエス様はこういったのです。17節18節です。
マタ 6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
マタ 6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
これはどんな断食をしていても、決して人には悟られるな。ただ神様の御前に対してだけ行え、そうすれば神様は報いて下さる、と言っているのです。偽善を避けなさいと言っているのです。
結
このようにイエス様は偽善を避けることを強く勧めました。それは人の評価を得ようとすることを避けることです。人の評価を得ようとすることは、神様の評価をないがしろにすることです。善行をするとき、祈る時、断食をするとき、決して人の評価を考えてはいけないと言うことなのです。ただ神様の報いのみを覚えなさいと言うことなのです。
そして私たちに、主の祈りを教えてくださいました。祈る時に大切な事は、神様の御心がなるように祈ること、欲張らずに今日の必要が満たされることを祈ること、祈る前には、負い目のあるものを赦すことなのです。
さて、私たちの生活はどうだったでしょうか。人の報いを求める生活だったでしょうか、神様の報いを求める生活だったでしょうか。もう一度考えてみる必要がありそうです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、今日大切な事を教えられ感謝いたします。私たちの信仰はいつの間にか、人の誉れを求めようとして、偽善になってしまうことがあります。どうか人に認められるものではなく、ただ神様の報いのみを求めて歩むものでありますように。良きことをするときも、祈る時も、何かを断つ時も、ただあなたに対して行うことが出来ますように。人の評価を気にすることがありませんように。そしていつもあなたの御心がなるようにと祈ることが出来ますように。私たちの必要に関しては、欲張ることなくただあなたに信頼して、今日の必要が満たされるようにと祈ることが出来ますように。そしてもし誰かを赦していないならば、その祈りは報われないことを思い起こして、心から許したのち祈ることが出来ますように。
今日教えられたことだけでも、大変大切な事です。どうか日々御心を行うことが出来ますように。あなたの導きと恵みとがありますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
マタ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
マタ 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
マタ 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
マタ 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
マタ 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
マタ 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
マタ 6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
◆断食するときには
マタ 6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
マタ 6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
マタ 6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」