家庭礼拝 2014年12月3日マタイ6章1‐15祈る時には
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起
今日の聖書の箇所は、主の祈りが教えられている個所です。大変大切な箇所なので、詳しく学んでいきたいと思っています。実は、この6章の最初の部分、小見出しで言うと、「施しをするときには、」と、「祈るときには、」と、「断食するときには、」の三つの箇所は一つの共通のテーマで貫かれているので、一つにまとめてやりたいと考えていました。ですが、あまりにも語られていることが多いので、むしろ、ここの部分を二回に分けて語りたいと思っています。それで、今日は「施しをするときには」と「祈る時には」の10節までとし、残りは次回に向けたいと思っています。
この三つの箇所の小見出しは、それぞれ、何々する時には、と信仰的な行いをするときに必要な大切な注意点が語られています。それは、何か信仰的な善行をするときには、人の報いを求めてやってはいけないと言うことなのです。施しをするときに、人の報いを求めてはいけない、祈る時に人の報いを求めてはいけない、断食するときに人の報いを求めてはいけない、と言うことが語られているのです。その祈る時には人の報いを求めて祈ってはならないと言う文脈の中で、イエス様は、このように祈りなさいと教えてくれたのが「主の祈り」なのです。ですから、主の祈りは弟子たちに直接教えた大切な祈りであって、子供たちが祈りの勉強のために唱える祈りでも、食前の祈りでも、祈祷会の祈りでもないのです。これらの教えの背後に、信仰者が、いかに報いを求めて信仰的偽善を行っているかもしれないことを思い起こす必要があるのです。
クリスチャンが、一般の人に嫌われる最も大きいものは偽善ではないでしょうか。それは特に施しと、祈りとの中に現れてくるのではないでしょうか。クリスチャンの中にいい子になりたがりのクリスチャンが多くいるのを、私たちも知っています。それは人に対してだけでなく、神様に対してもいい子になりたがる人が多いのです。献金や、奉仕や、祈りや、礼拝の中で、私たちは、いい子になろうとしていることはないでしょうか。その様な姿は、多くの求道者を躓かせるもとになります。それはいかにも謙遜なと言うような姿勢や、いかにも喜びに満ちていると言うような姿勢や、いかにも信仰者らしいと言う姿勢の中にも見受けられるのです。その様な時、私たちの心は神様にではなく、人間の称賛に対して向けられているのだと思います。私たちが本当に、心から信仰者として、クリスチャンとして生きていきたいと思うならば、これから学ぶ戒めを心していく必要があるのではないでしょうか。
承
最初の戒めは、善行をするときの戒めです。1節です。
マタ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
信仰者がその信仰にもとづいて、善行をすることは素晴らしい事なのです。それは、神様が報いて下さることです。ですが、人に見てもらおうとして行う善行は、神様の報いをいただけなくなるから注意しなさい、とイエス様は戒めています。それはどうしてでしょうか,2節でこう言っています。
マタ 6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
イエス様は、善行の一つである施しについて語っています。その当時は、食べることにも苦労している多くの人々がいたので、会堂や街角に食料を持って行き、ラッパを吹き鳴らしたり、大きな声で呼び集めたりして、貧しい人々に食事を施す人がいたそうです。その様な善行そのものをイエス様が否定しているのではありません。イエス様が否定しているのはその動機なのです。偽善者たちは本当に、愛の心や慈しみの心から善行をしているのではなく、素晴らしいことをしていると認められたり褒められたりすることを目的にやっているのです。その様な善行は、それはそれで、人々から褒められたり認められたりする報いはあるのです。ですが報いはそれだけであり、神様はそれに対して報いてはくれないのです。もうすでにその報いを受けているからです。偽善を行う人は、人の称賛と神様の報いと両方を得られると思ってしているのですが、神様の報いは得られないから、注意しなさい、と教えているのです。人の称賛を得ようと思ってする善行は神様の報いは得られないのです。そしてこうも言いました。3節と4節です。
マタ 6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
マタ 6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
イエス様は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない、と言いました。これは自分自身にも、善行をしていることを意識させないと言うことだと思います。それは善行をするとき、そうせざるを得なくてするのであって、心からの思いでそうするのであって、それを人に認めてもらおうとか報いてもらおうなどと言う誤った動機を持たないと言うことです。その様に、自分の善行を意識しないで、ただ当たり前のことをしているだけです、と思うとき、隠れたことを見ておられる神様が、あなたに報いて下さるだろうと言うのです。それでは、神様が報いて下さるなら、神様の報いだけを求めて、善行を行うことは良いのかと言う考えも出てきます。これは神様に対してよい子になろうと言う姿勢です。この神様の報いを求めることをイエス様は必ずしも否定してはいません。イエス様は、なになにすれば、天の父は報いて下さると言うことを時々言っているからです。ですが、右の手のすることを左の手に知らせてはならないと戒めているのは、神様のために善行をしていると言う意識さえも持ってはならないと言うことになるのではないでしょうか。人の報いも、神様の報いも考えずに、ただ愛と憐れみの心からする善行が、神様によって報われるに違いないのです。報いは人間が求めるものではなく、神様が与えて下さるものなのです。そうしないと、神様は私に報いて下さらないと不満を言うようになるでしょう。報いは、人間から求めるものではないのです。
転
そして、祈りについても同じように言ったのです。5節です。
マタ 6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
ここでも偽善者と言う言葉が出てきます。偽善者はどのように祈ったのでしょうか。ユダヤ人たちは今でもそうですが、一日に3回お祈りをします。9時と12時と3時です。これはどこで祈っても良いのですが、会堂や神殿で祈るほうがよいとも言われています。ユダヤ教の祈りは、いろいろな場面で祈る祈りが定型化しており、その祈りが、だんだん儀礼化してしまったのです。そうなるとその祈りの意味も考えなくなり心もこもらなくなり、ただ形だけの祈りをすればよいと言う風になってきます。そうすると、いや自分こそは本当の祈りをしているのだと言うことを人々に訴えたくなる人もいるのです。それが偽善者と呼ばれている人々です。祈りは本来神様に対して行われるはずですが、だんだんそのような思いが薄れてしまい、人々に尊敬と称賛を受けようと思って祈りをする人々が出てきたのです。その様な人々は大勢の人に見てもらおうとして、会堂や大通りの角に立って、人目を引くような祈りをするのです。その人たちの心は、神様に祈りをささげるのではなく人間の称賛に対して向けられているのです。ですからイエス様はそのような人々を偽善者と呼んで「彼らは既に報いを受けている。」と言われたのです。祈るのは、本来神様の報いを得るために祈るのですが、それが人間の報いを得るためになされた時には、その人間の報いしか得られず、神様の報いは得られなくなると言うことなのです。
これは人前で祈りをささげるときに、本当に難しく感じることです。全く人を意識しないで祈れる人はほとんどいないのです。神様に対して祈りを捧げているつもりでも、聞いている人々がいると、その人々に聞かれて良いと思われる祈りを捧げていることがあるのです。これは牧師さんでもよく起こる事なのです。祈りがいつの間にか説教のように、人々に対してなされていることあるのです。又すばらしく立て板に水を流すような流暢な祈りをする人々もいます。その様な祈りは、なかなか人の心を打たないものです。むしろ訥々と祈る祈りの中に真実が感じられることが多いのです。私達が主の祈りを祈る時にも、ただ、定型的な祈りを捧げればよいと思ってしていることもあります。主の祈りをささげることも、本当に難しいことだと思います。その祈りの意味をよく理解して、ふさわしい祈り方が出来るようになりたいと願っています。
ですが、一体どう祈ればよいのでしょうか。イエス様がその祈り方を教えて下さっています。6節から8節です。
マタ 6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタ 6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
マタ 6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
イエス様は、祈る時の注意を二つしています。一つ目は、誰も見ていないところで、神様に集中して祈りなさいと言うことです。二つ目は、くどくどと祈れば叶えられると思ってはならない、と言うことです。要するに神様にのみ、誠実に、本音で、ただ必要な事だけを祈りなさいと言うことです。これは祈りの大切な姿勢ではないでしょうか。決して人目を意識してはならないのです。そして、神様に祈りを叶えさせようと思ってはいけないのです。神様は、私たちが祈る前から、私たちに必要なものをご存知なのです。ですから、本当に必要な事のみを端的に祈ればよいのです。飾りは必要ないのです。これが神様に対する祈りの姿勢なのです。
そしてイエス様は、「だからこう祈りなさい」と言って、具体的な祈り方を教えてくださいました。それが「主の祈り」です。主の祈りは、大きく二つに分けられます。前半は、神様と神様の御国に関するものです。そして後半は、私たちの必要に関するものです。今日は、その前半までを学んでいきたいと思っています。イエス様は、こう教えました。9節と10節です。
マタ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
マタ 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
この様に教えてくれましたが、まず祈る時に、誰に対して祈るのかを教えました。それは、天におられる私たちの父に対して祈るのです。私たちが神様に祈る時に、「神様」と呼びかけて祈る時もあれば「天にいますイエス・キリストの父なる神様」と祈る人もいます。ですが、イエス様は、「父よ」と祈ることを教えて下さったのです。神様が父ならば、私たちは子です、神の子なのです。そうするとクリスチャンは皆神様の子なので皆兄弟なのです。私たちが神の子とされていると言うことを、畏れ多いことだと思って、決して父なる神様と呼ばない人もいます。ですがそれはイエス様の教えとは違うのです。イエス様は、私たちに「天におられる私たちの父よ、」と祈りなさい、と教えて下さっているのですから、素直に父なる神様と呼びかけていいのです。これは他の宗教にはない事なのです。例えばギリシャの宗教のように、ゼウスを中心とするいろいろな神様の群れがありますが、決して人間のために何かをするのではなく、自分たちの利得のために争う神様たちの群れなのです。日本の八百万神の神様たちであっても似たようなものです。その中にあって、人間を自分の子としてくださる神様は、イエス様の教えて下さった神様だけなのです。私たちはそのような父なる神様に祈りを捧げているのだと言うことを、まず知らなくてはなりません。
そこで最初に父なる神様に祈られる言葉は「御名が崇められますように」と言うことです。自分のために祈るのではなく、神様のために祈るのです。何よりも大切なのは、自分ではなく神様なのですから、まず神様のために祈るのです。神様を賛美するのです。御名が崇められる様にと祈るのです。そして続けて祈られる言葉は「御国が来ますように。」と言う祈りです。御国と言うのは神様の国です。それは神様が支配している国であって、人間の支配する国とは違います。この国を天国と呼ぶ人もいます。この祈りは、天にある神様の国、すなわち天国が、この地に来ますようにと言う祈りです。神様の国は、天にあるだけではなく、この地にもあるのです。そしてそれが実現するように、「御国が来ますように。」と祈りなさい、とイエス様は教えました。そしてそれが実現するとどうなるかと言うと、「天におけるように地の上にも、御心が行われますように。」と言うことになるのです。御国が来ると言うことは、この地上において、神様の御心が行われると言うことなのです。すなわち神様の支配が現れると言うことなのです。ですから私たちの祈りにおいて、自分たちの願いが叶えられるようにと祈る事だけでなく、御心が行われますようにと祈ることが大事なのです。その時に初めて神の国がやって来るからです。天国はどこにありますがと言う質問が時々ありますが、天国はこの世にも私たちの中にもあるのです。それは御心が行われる時、そこに天国があるのです。
主の祈りの半分は、このように、神様の御心がなりますようにと言う祈りなのです。その様に祈ることが神様を崇めることにもなるのです。そしてそのことを祈った後で、初めて、自分の必要について祈りなさいと教えているのです。主の祈りの後半部分はその自分の必要についての祈りなのです。私たちが自分たちの祈りをささげる場合にも、イエス様がこのように祈りなさいと教えてくれた例にならって祈る必要があります。それはまず最初に、神様の御心がなりますようにと言う祈りを祈ると言うことです。簡単に祈るとすれば、こう祈ればよいかもしれません。「天の父なる神様、御名に感謝し賛美いたします。すべての上に御心がなりますように。」と祈ってから自分の必要の祈りをささげるのがよいかもしれません。それぞれに工夫して、まず神様の御心がなりますようにと言う祈りを捧げればよいのです。私たちの日々の祈りでは、「神様、今日の一日の恵みに感謝いたします。」と感謝から入っているのは正しいのですが、御心がなりますようにと言う祈りがいつも最後になってしまっていたかもしれません。私自身は、これから最初にその祈りをささげるようにしたいと思っています。そうすれば、その後に祈る私たちの必要のための祈りも、御心に沿った、祈りになるかもしれないからです。
結
今日の学びは、主の祈りの前半まででしたが、覚えておかなければならない大切な事を教えられました。善行に関しては人に知られずに、行うことの大切さを教えられました。日本でも陰徳を積むと言う言葉で教えられています。なかなか自然にできることではないですが、少しずつでも近づいていきたいと思います。これがただ倫理的道徳的な教えと違ってくるのは、クリスチャンの場合は、いつか神様がそれを見て下さっており報いて下さるだろうと言う希望をもって行うと言うことです。報われることを願ってはいけないのですが、神様の報いがあると言うことは信じてもいいのだと思います。それは求めて得るものではなく与えられるものです。そして祈る時には、ただ神様にのみ集中して、決して人に見られることを思ってはいけない、人の称賛を願って祈ってはいけないと言うことです。そして祈る時には、父なる神様に向かって、まず、神様の御国が来ますようにと、御心が行われることを祈る大切さです。またもう一度、初心に帰って祈りを学びたいと思います。そして、良い行いをしていくことが出来るようにと願うものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。どうかすべての上にあなたの御心がなりますように。
今日は、善行をするときの注意と、祈る時の方法について、詳しく教えられ、導かれましたことを感謝いたします。とても大切な事ですが、簡単に出来ることではありません。ですが、これが出来なければ本当のクリスチャンとは言えません。神様どうかあなたの御心にかなって、これらの善行と祈りとを行うことが出来ますように。イエス様が私たちに示してくださったように、私たちも正しく良い生き方をすることが出来ますように導いてください。決して人の誉れを求めるのではなく、ただあなたの栄光を求めるものでありますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
マタ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタ 6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
マタ 6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
マタ 6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
マタ 6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
マタ 6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタ 6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
マタ 6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
マタ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
マタ 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
マタ 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
マタ 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
マタ 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
マタ 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
マタ 6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」