家庭礼拝 2014年11月26日マタイ5章33‐48敵を愛しなさい

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 今日は、前回に続いて、山上の説教の中の「古い教えと新しい教えの」残りの三つを学んでいきます。この古い教えと新しい教えの6つの説教は、小見出しで言うと、@腹を立ててはならない、A姦淫してはならない、B離縁してはならない、C誓ってはならない、D復讐してはならない、E敵を愛しなさい、でしたが、今日は後半のC誓ってはならない、D復讐してはならない、E敵を愛しなさいと言う個所を学ぶことになります。

前回の教えでは、実際の罪の行為よりも前に、その心の中で犯している罪の思いをまず、浄めなさい。それもまた罪なのである、と言うことを教えていました。その中で、@腹を立ててはならない、A姦淫してはならない、B離縁してはならない、と言う教えを教えていました。それは律法の深いところにある本当の意味を教えているといってよいかもしれません。これはある意味で、律法の教えの修正です。ですが今日の教えは、ちょっと違うかもしれません。それはもっと積極的に、教えられてきた口伝律法の教えを廃して新しい教えを教えると言ったほうがよいのかもしれません。

この教えは、今まではあからさまには教えられなかった教えです、イエス様が神様の御心を伝えるために語り始めた新しい教えなのです。

まず初めに、イエス様は誓ってはならないと言いました。今まではどのように教えられていたかと言うと、33節です。

マタ 5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。

これは誓を立てても良い、しかし偽りの誓いを立ててはいけない。また主に対して誓ったことは、必ず果たしなさい、と言うことでした。すなわち条件付きの誓いの許しなのです。

この当時は、誓うと言うことが多く行われていました。それは人と人との関係の中で、自分を信用させるために、誓うのです。それ以外には契約と言う手段がありましたが、簡単に相手に自分を信用させるためには、神様に誓って、と言うことがてっとり早かったのです。ところが実際にはそれが偽りの誓いであったり、果たせない誓であったりしたのです。「神に誓って、今日中に借りたお金は全部返します。」と相手を油断させておいて逃げてしまうようなことが起こっていたのです。

イエス様はそのような罪を犯しやすい条件付きの誓いを認めませんでした。そして全面的に誓ってはいけないと言ったのです。34節から36節です。

マタ 5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。

マタ 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。

マタ 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。

 どうしてユダヤ人たちが誓うと事を、多く行うようになったかと言うと、今現在、ここには神様はいないと思っているからなのです。ですから、神様がいると思われる、天や地やエルサレムにかけて誓うのです。この当時は、直接的に「神様に誓って」と言う言葉は畏れ多くて言えなかったのです。ですから、遠回しに、神様の居られると考えていた、天や地やエルサレムにかけてと誓ったのです。そしてまた、頭にかけて誓うと言うことも言いました。これは、日本でいうと、首をかけて誓うと言うのと同じことです。

ですがイエス様はそのような誓をしてはならないと言いました。それは、十戒で言うと主の御名をみだりに唱えてはならないと言う教えに近いものがあります。いくら直接、神様の名前を出すのが畏れ多いと言っても、天や地やエルサレムをかけて誓うと言うのも、ほとんど神様にかけてと言うのと同じだとイエス様は言うのです。それは天は神の玉座であり、地は神の足台であり、エルサレムは大王の都であるから、同じなのだと言うのです。即ちユダヤ人たちは、神様が今ここに居ないと思って、いろいろなところに賭けて誓うが、神様はいつでもどこにでもおられて、私たちの真実を見守っているから誓うことなど無意味なのだと言うことなのです。自分の頭にかけて誓うことも頭を自分のものと思っているからそういうのであって、頭すら、髪の毛一本すら、すべて神様のものであると言うのです。ですから、自分の誠実さをごまかすために、誓うことはしてはならないと言うのです。本当に誠実なら、本当に約束を果たそうとしているのなら、誓う必要などないのです。その人自身が保証になるのです。ですがその自信がないといろいろなものに賭けて誓い、自分を信用させようとするのです。すなわち、誓うと言うのは自分の誠実さに対する裏切りなのです。神様を利用しようとする裏切りなのです。ですからイエス様はこう言いました。37節です。

マタ 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

イエス様が言っているのは、ただあなたたちは誠実に、『然り、然り』『否、否』と言いなさいと言いました。誓うことによって相手を信用させるのではなく、自分の誠実さによって相手に信用してもらいなさいと言うことです。然りと言えば、それが正しくて、否と言えばそれが正しいと信用される人になりなさいと言うことです。それ以上の事を言おうとして、誓うと言えば、それはむしろ不誠実な事であり、悪いものから出てくるのであると言うことです。日本では、ユダヤ社会ほど、何々に誓って、と言うことはあまりありませんでした。むしろ、「武士に二言はない」と言う言葉の方が重く受け止められました。それは、『然り、然り』『否、否』の世界なのです。日本人はその言葉の誠実さにおいて、世界に誇るべきものを持っていたのです。それは新渡戸稲造がヨーロッパの人々に英語で書いた武士道と言う本にも書かれていることです。

次の5つ目の教えは、復讐してはならないと言う教えです。イエス様は今までの律法の教えと比較してこう言いました。38節39節です。

マタ 5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

マタ 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 このよく聞く『目には目を、歯には歯を』と言う言葉は、普通一般的な受け止め方は、なんと冷酷で残酷な復讐の仕方であろうというものです。それは現代人の感じ方であって、この当時は違うのです。この当時の復讐の仕方は激しかったので、目には死を、歯にも死をと言う感じだったのです。その様な行き過ぎた復讐の仕方に歯止めをかけるために、制限を加えたのが、この『目には目を、歯には歯を』と言う掟なのです。目を失った場合には、相手に目を失う以上の損失を与えてはいけないと言う掟なのです。ところがイエス様の教えは、そのような復讐しようとすることすらしてはいけないと言う教えなのです。先ほどの誓いに関する律法の教えと、今回の復讐に関する律法の教えの共通していることは、古い教えでは「誓っても良い復讐しても良い、だがそれは条件付きである。」と言う条件付きの教えなのです。それに対して、イエス様の新しい教えは、誓ってはならない、復讐してもならないと言う無条件の教えなのです。イエス様は、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言いました。右の頬を打って左の頬をも打つと言うのは、往復ビンタと言われる打ち方で、この時はどちらかが手の甲で打たれることになります。これはユダヤの世界ではとても侮辱的なたたかれ方なのです。これは、もしあなたが侮辱を受けたならば、それに復讐しようとしないで、さらなる侮辱をも受け入れなさい、と言う教えなのです。復讐しよう、逆らおうとする思いを完全に捨て去るように勧める教えなのです。さらにこうも言ったのです。40節から42節です。

マタ 5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

マタ 5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

マタ 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

これはイエス様の姿を彷彿とさせる教えです。ユダヤの世界では、訴えて、下着を質に取ることはできましたが、上着は質に取ることが出来ませんでした。それは出エジプト記22章の26節27節に書いてあるように、「もし、隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。」と言う決まりがあり、上着は取られないで済む権利があったのです。ですがイエス様は、そのような権利を主張することなく喜んで与えなさい、さらに、誰かが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオンを喜んで行きなさい。求めるものにも、借りようとするものにも、拒んではならない、たとえ損失をこうむっても喜んでそうしなさい。と教えているのです。それは、侮辱したいものには、喜んで侮辱されなさい、それを受け入れなさい、と言っているのです。どうしてこのようなことが出来るのでしょうか。私たちは一体このような事を行うことが出来るでしょうか。もし私たちが、自分の権利や自分の正当性を主張しようとしていたら、このような事はとてもできないのです。とても受け入れることはできず、自分の正しさや権利を主張して争いとなるのです。ですが、イエス様はそれを喜んで受け入れなさいと教えました。それは、神様がそれを全部知っているからと言うことなのです。神様は正しいものに目を注いでいるのです。神様があなたを見ている、理解している、慈しんでくださっていると言う思いがなければ、とても耐えられないことだし、とても喜んですることはできないのです。ですが、その事を神様が、喜んでくださると知り祝福してくださっていると知ったならば、それは耐えやすく、喜んでできることになるのです。

転     

さて、この二つの教えは何を教えようとしているのでしょうか。それは最終的に、敵を愛しなさい、と言う6つ目の教えにつながるのです。それは、神様は今ここにそしてどこにでも居て私たちを愛し慈しんでくださっている、だから、敵と思うものであっても、喜んで愛しなさい、神様もそのものを愛しているのだから、と言うことなのです。決して自分の考えに捉われて、誓ったり、復讐したりしてはいけないと言うことなのです。イエス様は六つ目の教えの中で、イエス様の教えの真髄を語り始めました。53節54節です。

マタ 5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

マタ 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

隣人を愛しなさいと言うのは、古い教えもイエス様の教えも同じです。ですが違っているのは敵に対してです。古い教えは敵を憎めと教えました。そして滅ぼせと教えたのです。ところがイエス様の教えは、驚くことにその反対でした。「敵をも愛し、迫害するもののために祈りなさい。」と教えたのです。敵を愛することなど普通はできません、憎いのが敵だからです。ですから敵を愛するには、愛そうとする強い意志が必要になります。決心することが必要なのです。ですがいくら決心しても、本当に愛することは難しいのです。ですが、そうであってもその敵のために祈ることはできるのです。最初は口先だけで、心の中は憎しみがあるかもしれません。ですが祈ることによって、聖霊がそのことをとりなしてくださるのです。愛することが出来ないものを愛することが出来るようにしてくださるのです。ですから、敵を愛するためには敵のために良いと思うことを祈るのが大切なのです。そうするといつの間にか敵意は消え去り、本当に愛することが出来るようになるのです。でも、何故そこまでやらなければならないのでしょうか。敵を愛することに、そんなに大切な意味があるのでしょうか。このような時代には、かえって自分が滅ぼされてしまうのではないでしょうか。その様な疑問が当時の人たちにも起こったと思います。イエス様も十字架にかけられてしまったのですから。ですが、イエス様は言いました。45節から48節です。

マタ 5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

マタ 5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。

マタ 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

マタ 5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 イエス様は、敵を愛し祈るのは、天の父の子となるためであると言いました。それは神様がそのような方であるからです。神様は善人にも悪人にも平等に太陽を登らせ、雨を降らしてくださる方です。善人だ、悪人だと区別して差別するのは私たちの勝手な考えであって、神様はご自分のつくられたものを差別なく愛し恵みを与えて下さっているのです。「イエス様は、自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」と言いました。自分に親しいものに、良くするのはどこの人でも、どのような人でも同じではないかと言うのです。そうではなくて、「もしあなた方が神様に従いたいならば、あなたの敵をも愛して、神の子となりなさい。それが神様の方法なのです。あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい。」と教えたのです。ですが、この言葉に反発する人は、人間が神様と同じように完全になれるはずはないではないかと言うでしょう。その通りです、人間が神様と同じような完全を手に入れることなどできないのです。人間はつくられた者だからです。そうではなくて、これは、神様が神様として完全であられるように、私たちも神様に作られた人間として完全なものになりなさい、と言うことなのです。その完全は、神様が人間を分け隔てなく愛してくださるように、人間も権利を主張したり、復讐しようとしたりせず、どのような人をも喜んで受け入れ愛するならば、完全なものとなり、神の子となると言うのです。これが人間が完全なものとなる方法なのです。

 人間は、自分の正当性や権利を主張して、誓ってみたり、復讐しようとしたりして、多くの間違いや敵を作ってしまいます。そして、その争いの中で、多くの苦しみを味わいます。神様の御心からも離れてしまうのです。イエス様の教えは、その様なこの世での争いに捉われてはならない、利害得失や、権利や正当性に捉われてはならない、と言うことなのです。すべての事は神様が知っておられる、すべての正しいものを慈しんでくださる。だから、目先の侮辱や、不当な扱いに捉われることなく、むしろ相手の望むことを喜んでしてあげなさい。そうすれば、神様が喜んでくださる、と言うことを信じなさいと言うことなのです。

 神様の御前に正しいと思われることほど強いものはないのです。たとえ命を奪われようとも、喜んで、神様の御前に差し出すことが出来るのです。どのような侮辱でも、不当な苦しみでも受け入れることが出来るのです。これは神様の御心だと信じることが出来るからです。だから、イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えたのです。それは、天の父の子となるためであり、完全なものとなる道なのです。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様、今日は大切な教えを与えられ感謝いたします。私達は自分が正しいと思うことを主張するのが当然の権利だと思って、隣人と争い、敵と争ってしまいます。そして、それに対して、不当な扱いを受けたり、侮辱を受けたりすると、古い律法に従って、復讐しようと言う強い恨みを持ってしまいます。ですがあなたは、敵を愛しなさいと教えてくださいました。自分を迫害するもののために祈りなさいと教えてくださいました。これは自分たちの考え方ではとても実行することの出来ないことです。ですが、その事をあなたがご存知であり、いつも私たちを見守ってくださっていると知った時には、勇気と希望が与えられ、あなたの御心にかなうために私たちは敵をも愛する神の子となる事が出来ます。神様、どうか、この世の事、自分の事に捉われることなく、自分の正当性や権利に捉われることなく、あなたのまなざしだけを覚えて、御心にかなって歩むことが出来ますように。そして何時の日か、よくやったと喜ばれるものとなる事が出来ますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>

 

◆誓ってはならない

マタ 5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。

マタ 5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。

マタ 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。

マタ 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。

マタ 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

◆復讐してはならない

マタ 5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

マタ 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

マタ 5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

マタ 5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

マタ 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

◆敵を愛しなさい

マタ 5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

マタ 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

マタ 5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

マタ 5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。

マタ 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

マタ 5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」