家庭礼拝 2014年11月12日マタイ5章13‐26地の塩、世の光
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起
今日の箇所も山上の説教の続きです。9つの祝福の後しばらく、イエス様の説教が続きますが、これは実際にこのように説教されたのではなく、いろいろな場所で説教された御言葉を、この山上の説教の場面に集めたものだと言われています。ですから、イエス様の教えを、凝縮して知りたいと思えば、ここに集められた山上の説教をしっかりと読み解くことが大切になります。
今日の説教では、2つのイエス様の説教を取り上げています。一つ目は「地の塩、世の光」、二つ目は「律法について」、と小見出しのついた箇所です。これらの説教を、今まで学んだ9つの祝福のどれに当てはまるかを考えながら読むと、さらに深い理解が与えられるような気がします。ここに語られる説教は、その9つの祝福のさらに詳しい説明ともとれるからです。
この山上の説教を聞くときに、特に大切な事があります。それはこの教えを律法的に聞いてはならないと言うことです。9つの祝福の所でもお話ししましたが、例えば、心の貧しい人々は、幸いである、と言う言葉を、心を貧しくしなさい、そうすれば幸いになるだろう、と言う風に聞いてはならないと言うことです。この言葉は、「あなたたち、心の貧しい人々は、幸いだなあ。」と、すでに心の貧しいものとされ、幸いなものとされていることが祝福されているのです。ですからこの言葉を聞いて頑張る必要はないのです。その言葉を素直に受け入れて、私たちは心が貧しくされ、幸いにされているのだ、とその祝福を喜べばよいのです。そして天の国が与えられていることを喜べばよいのです。
今日学ぶ箇所もまたそうなのです。最初にその心がけを話しておきますと、「あなた方は地の塩である。」と言われた時に、あなた方は地の塩のようになりなさいと言っているのではないと言うことです。世の光となりなさいと言っているのではないのです。ここで聞くべき言葉は、あなた方は、そのままで、地の塩であり、世の光です。と言っているのです。既にそうなのだと言っているのです。この事を聞き落すことなくしっかりとイエス様の御言葉を聞き、そして受け入れていきたいと思うのです。その時、感謝と賛美が沸き起こって来るのだと思います。
承
それでは本題に入ります。最初の聖句は、地の塩、世の光です。13節です。
マタ 5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
これは私たちが、どのような存在であるかを語っています。イエス様は、私たちは地の塩であると言いました。塩は生活にとってなくてはならないものです。もし塩がなかったら、生きていくこともできなくなるし、食事もどんなに味気ないものになるかわかりません。どんなに食事が素晴らしくても、塩をほめる人はいません。食事の材料に、牛肉や、新鮮な材料をほめる人がいるかもしれませんが、その時の味の決め手になる塩をほめる人はいません。ですが料理にとって、塩加減が一番の決め手になるのです。私たちはそのように目立たないけれども、人生の決め手になる塩加減を与える人々であると言うことです。神様が人類を見た時に、その塩となっている人々の働きがどんなに大きいかを示すのです。ですが褒められることはないのです。
もう一つの塩の大切な働きは防腐剤としての働きです。塩で漬けられた食べ物は腐ることなく保存食として、取っておくことが出来るのです。塩がなければどんどん腐敗してしまうような食べ物でも、塩気によってその進行を止めることが出来ます。塩はそのような腐敗から守るものとして、その色の白さも手伝って、清いもの、神聖なものとして祭られたりもしました。邪悪なものを清める塩としても用いられました。クリスチャンは、その様に、人間世界の腐敗を食い止め、清いものとして働く、地の塩なのです。ですがその塩は溶け込んで見ることも触る事もできないけれども、その働きは確かにあるのです。私たちはそのような地の塩であるとイエス様は言いました。ですが、その塩が塩としての働きを失い、塩味の無い塩となったら、もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるだけであると言うのです。私たちは塩であろうとすることはできないのです。イエス様が言った、「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」と言った意味がそうなのです。塩気の無い塩は、塩味になる事はできないのです。ですが、私たちが、イエス様を信じ、イエス様に従うならば、それは私たちの努力や力とは関係なく、イエス様によって地の塩とされているのです。イエス様によって、その働きを与えられているのです。私たちの力ではないのです。
同じように、イエス様は、私たちは世の光である、と言いました。
マタ 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
マタ 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
マタ 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
私達は、「あなたたちは世の光である、」と言われた時に、何かそんな立派なものではないと言う気持ちになります。それは、あなたたちは世の希望であり、世の模範であり、注目されるべき人間であると言われているような気がするのです。闇の中で、遠くから見れば誰でもその光のある方向へと導かれるからです。ですが光の下に来れば、誰もその光を見つめる人はいないのです。その時見つめるものは、光によって照らし出された、家具であったり、人であったり、宝石であったりするわけです。光はそのような大切なものを見えるようにするための、道具にしか過ぎなくなるのです。その光の中でなじんでしまった人は、光を意識する事すらなくなってしまうのです。私たちは光なのです。すべてのものを照らし出し、人々の前に輝かす光なのです。ですがこの光は、私たち自身で光らすものではありません。私たちはイエス様の光を反射して光っているだけです。その様な光なのです。
この当時の明かりは油を入れたランプです。家の中には小さな明り取りの窓しかなかったので暗かったのです。それに一度火が消えると、ランプに火をつけるのは大変だったのです。その様なランプを燭台の上において家の中のものを全て照らし出しました。ですが夜でもそのランプの光を消すことはなかったのです。一度消すと簡単にはつけられないからです。ですから、明かりを暗くするときには升で覆ったらしいのです。
イエス様は、イエス様を信じて従う人々を、あなたたちは光であると言いました。光の世になりなさいと言ったのではなく、すでに光であると言ったのです。その光を放つ山の上の町は、隠れることが出来ないし、光はいつもみんなから見えるように、燭台の上に置かれるのであると言っています。ですが光は見るものではなく、照らすものです。見るものはその光に照らされた物です。人々はその光に照らし出されたものを見て、ほめ、その照らし出した光をほめて、光を与えて下さった天の神様をほめたたえるのです。その光のように、人々のために輝く立派な行いを見て、神様をほめたたえるようになるのです。このイエス様の教えは、9つの祝福の心の貧しい人々への祝福に通じるものがあると思うのです。たとえ心が貧しく、なんの頼るものもないものでも、イエス様への信仰があるならばその地の塩としての働きを為しており、世の光としての働きをしていると言うことではないでしょうか。あなたたち地の塩であり、世の光である人々は幸いであると言っているのではないでしょうか。
転
次には一転して、律法について語っています。今までのように、あなたたちはと呼びかけて、私たちがどのような存在であるかを語っているのではなく、イエス様が何のためにやって来たのかを語っています。17節と18節です。
マタ 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
マタ 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
この言葉は、何か違和感を感じることはないでしょうか。イエス様は律法主義と対立すべく、形式主義的な信仰を離れて、愛と慈しみの信仰を教えようとしたのではないのでしょうか。パリサイ人や律法学者たちが、イエス様を憎んだ一番の理由は、イエス様が安息日を守らなかったことと、神殿を軽んじたと思ったことでした。新約聖書の中でも、何度も、あなたたちの弟子はどうして、律法を守らないのか、と言う言葉がイエス様たちを非難する言葉として、繰り返し出てきます。ですから、イエス様が来たのは律法や予言者を廃するために来たと思っている人が少なからずいたはずなのです。それなのに、イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とはっきり言っています。これはどういうことなのでしょうか。イエス様が言っている律法と、パリサイ人たちが言っている律法とは何か違うのでしょうか。
それが違うのです。律法と言う言葉の意味はとても広いのです。この当時律法学者たちが律法と言っているのは、口伝律法と呼ばれているものなのです。それはまだ文字で書かれたものではなく、いろいろな学者たちが唱えた説を、言葉として、伝えられた、掟のようなものです。その様なものがどうして出来て来たかと言うと、もともとの原則としての律法には、具体的にどうすればよいのかと言うことがくわしく書かれていなかったので、律法学者たちがいろいろと、実行するための条件を決めていったのが口伝律法なのです。一番の原則を現した律法と呼ばれるものは、モーセの十戒です。その次に詳しい律法とされるのはモーセ5書でトーラとも呼ばれる、5つの書物です。それは旧約聖書の最初の方にある、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。ここにはモーセが命じた、戒めがたくさんあるのです。そして、一番広くとれば旧約聖書全体の事であり、律法と予言書と呼ばれるものです。ユダヤ人たちはその教えの律法をきちんと守れば、神様の救いにあずかれると信じていました。ですが、どうすればきちんとしたことになるのかが分からなかったので、律法学者たちが、一つ一つの行動にこれは律法を守っていることになる、これは律法を守っていないことになるなど、細かい規則を作っていったのです。そしていつの間にか、信仰とはそのような規則を守ることが大切だと思ってしまったのです。その様な規則は実は人間が解釈して作ったものです。神様が与えた戒めはそんなところにはなかったのです。ですから、イエス様の言う律法とは、もともと神様が人間に守るようにと教えた律法の事で、人間が解釈して誤って作った律法ではなかったのです。ですからイエス様は人間が作った律法は軽んじ、神様の律法に従おうとしたのです。そして、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言ったのです。そしてそのことは必ず実現するとしてこう言いました。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」イエス様の実現しようとした律法は、神様の教えて下さった律法の事なのです。ですから、イエス様は律法学者やパリサイ人たちの教える律法に対しては、それを批判してこういったのです。19節と20節です。
マタ 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
マタ 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
ここで、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。」と言われている人々は律法学者やパリサイ人たちです。彼等もまた神様に仕えようとしているものとして、決して地獄に落ちるものではないのですが、天の国では最も小さい者と呼ばれるようになると言うのです。それは本来人間を愛する神様の教えからそれて、自分たちの救いのために自分たちが考え出した戒めを人々に押し付けて教えているからです。それに反して、神様の愛の教えを守り、そうするように教えるものは大いなるものと呼ばれると言うのです。それはイエス様の教えを守る人々の事です。律法学者やパリサイ人たちは、天国に入ることはできるのですが最低ラインでやっと入る事が出来るのです。ですから、この律法学者やパリサイ人の義に勝るものを持たなければ天国には入ることが出来ないとイエス様は言っています。私たちはどうでしょうか。律法主義において、律法学者やパリサイ人程に熱心になる事はできないでしょう。ああしなければならない、こうしなければならないと一生懸命になる事は律法学者と同じなのです。私たちが天国に入る道はイエス様の指し示してくださった道を信じて、行くことになるのです。その時に私たちは、神様の義を行うものとして受け入れられていくのです。それは神様を愛し、人を愛する道なのです。規則を守る事ではありません。そして、それは人々の中で、地の塩、世の光として人々に善きものを与え続けて生きることなのです。
この律法に関する教えに対する9福の教えは何でしょうか。私は「憐み深い人々」の事だと思います。「憐み深い人々は幸いである。その人たちは憐みを受ける。」このことが神様の義です。律法学者たちは、人々に憐れみの心を持たず、ただ律法を守ろうとする義務の心しか持たなかったのです。もしそこに憐れみの心をもって、安息日にいやすイエス様を受け入れていたならば、その律法学者も大いなるものと呼ばれるようになったかもしれません。
結
私たちは、イエス様を信じることによって、地の塩、世の光としてこの世にあって大切な人々とされました。それは決して私たちの努力でも能力によるものでもありません。また自分たちの努力や能力によって達成されるものでもありません。イエス様が私たちを地の塩、世の光として用いて下さっているのです。それがどのような形で用いられているのかもよく分かりません。私は決してそんな立派なものでは無いと思っていても、イエス様は私たちを地の塩、世の光として立派に用いて下さっているのです。ですから私たちはそのことに誇りと希望をもって、生きていくことが出来るのです。私たちはそのことによって幸いなものとされているのです。
私達がそのようにされているのは、律法学者やパリサイ人のように、何かをしたからではありません。何かを守ればできるようになると言うのでもありません。もしそう考えているならばそれは妄想です。私たちはただ神様の恵みによって、イエス様を信じるものとされ、地の塩、世の光とされているのです。私の信仰はとても至らないものですと言う必要もないのです。それは私たちの勝手な考えです。神様が私たちを地の塩、世の光として作ってくださったのだから、そのことを素直に受け入れるだけなのです。そうすれば私たちは幸いなるものとされ、憐み深いものとして、生きていくことが出来るのです。こうしよう、ああしようとあくせくしなくともいいのです。これが神様の恵みです。すべて神様を信じて委ねることです。そうすれば、神様が一番良いものに私たちを作ってくださるのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。あなたの恵みに感謝いたします。私たちは何の努力もせずに、ただあなたの恵みによって、地の塩、世の光として、この世での大きな働きをすることを与えられて居ります。そのことが何のことであるかわからなくても、あなたは私たちをこの世で無くてはならないものとしての働きを与えて下さっていることを信じて感謝いたします。どうかこれからも、あなたに用いられて、良き働きをすることが出来ますように。そしてその行いを見て、人々が天の父を崇めるようになりますように。どうか私たちの思いではなく、あなたの御心がなりますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆地の塩、世の光
マタ 5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
マタ 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
マタ 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
マタ 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
◆律法について
マタ 5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
マタ 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
マタ 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
マタ 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」