家庭礼拝 2014年11月2日マタイ5章1‐12山上の説教(7節から)
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起
今日の箇所は、前回に続いて山上の説教の後半です。5番目の7節から始まります。前半の4つの幸いな人では、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々が幸いな人々として、祝されました。その共通することは、神様以外には頼れるものを持たない人々、神様にのみ頼る人々が幸いであると言うことでした。すなわち、この世のものには何も頼らず、ただ神様にのみ頼る人々が幸いであると言うことです。それでは後半はどうでしょうか。その最初は憐み深い人々です。7節です。
マタ 5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
この言葉は、道理にかなった言葉のように感じられます。日本の諺にも、「情けは人の為ならず。」と言う言葉がありますが、情けをかけることは他人のためばかりではない、巡り巡って、自分に帰って来るからだ、と言う諺ですが、今日の、憐み深い人々にも同じような意味が含まれているようにも思います。ですが、一番違うことは、日本のことわざで情けを返してくれるのは同じ人間同士ですが、憐み深い人々に憐れみを与えるのは、人間ではなく、神様なのです。憐み深い人々の憐れみが、誰にも知られず、誰にも理解されなかったとしても、神様はそのことを知っており、その人のために憐れみをかけてくださるのです。ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」と言う長編小説がありますが、これは日本語では「ああ、無情」と言う言葉に訳されて有名です。この小説の中には、誰にも知られない情けや、憐みがたくさん出てきます。人には知られなくとも、人には無情に見えても、どんなに惨めな人生に思えても、神様はこの事を知っておられる、神様はその憐れみに報いて下さる、と言うメッセージが流れていると思うのです。憐み深い人々は、神様の憐れみを知って幸いなものとされ、さらに憐み深くなるのです。人に知られることではなく、神様が憐れんでくださっていると言う信仰が大切なのです。
承
6番目に出てくる幸いな人々は、心の清い人々です。8節です。
マタ 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
神様の存在の事を話をしているときに、良く、神様を見たことがある人などいないではないか、と言う議論が起こる時があります。そんな時、私は、こう答えたことがあります。「聖書には、心の清い人々は神様を見ると書いてある。だからきっと、心の清い人々は神様を見ているのかもしれない。私たちが神様を見ていないのは、心が清くないからだろう。」このような考え方も成り立つのかもしれませんが、それでは心の清い人とはどんな人なのでしょうか。清廉潔白で純粋な人でしょうか。それでは何が純粋なのでしょうか。よこしまな事を考えていない、悪いことを考えないと言うことでしょうか。意外とわかりにくいのです。ですが、ここで出てくる幸いな人々の言葉は、すべて、「神様の御前で」と言う条件が付くのです。ですからここでの心の清い人々とは、神様の御前で心の清い人々なのです。神様はすべてを見透かされる方ですから、心の清い人々と言うのは、二心の無い意志の純粋な人々の事ではないでしょうか。そのような人々のみが、神様の御前で、神様の顔を見て話が出来る人々なのです。そのような純粋さの無い人々は、その心を見透かされて、神様の顔をまともに見ることはできなくなるのです。私たちのような、心の不純なものが神様の顔をまともに見ると言うことは、消え入りそうなくらいに恐ろしい事なのです。このような心の清い人になると言うことは、人間には本当に難しいことです。ただ神様だけが本当に心の清い方なのではないでしょうか。人間が本当に心が清くなるとしたら、その人は本当に神様に似た人となっているのではないでしょうか。このような心の清い人々のみが、何の後ろめたさも感じることなく、まっすぐに神様の姿を見ることが出来るのです。その様な人々を、イエス様は幸いな人々と祝福したのです。
7つ目の祝福された人々は、平和を実現する人々です。9節です。
マタ 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる
この言葉の中で注意しなければならないのは、よく言われるような、平和を愛する人々は幸いである、と言っているのではないのです。愛するだけではだめなのです。イエス様が言っているのは平和を作り出す人、平和を実現する人々の事なのです。この様な人々には当然平和を愛する心があるのでしょうが、そこからもう一歩先に進んで作り出す人にならなければ、幸いな人とはならないのです。そしてそのような平和を作り出す人は、神の子と呼ばれると言うのです。神の子と呼ばれるほどの人は、めったにいるものではありません。それほど平和を作り出す人と言うのは、めったに出来るものではないのです。世の中に平和を愛すると言って、争いや対立を作り出す人はいくらでもいるのです。平和を作ると言って、戦いを引き起こす人がたくさんいるのです。私達は、平和を作り出す人ではなく、毎日争いを作り出している人と言ってもいいのかもしれません。本当に平和を作り出す人は、一切の争いや対立を放棄しなければならないのです。自分にどんなに不利益が生じたとしてもその争いをやめなければ平和は作り出せないのです。このような人を私たちは知っているでしょうか。実は知っているのです。その人こそイエス様なのです。イエス様は、本当の平和を作り出すために、一切の争いを放棄されたのです。ですから、ローマと対立するために担ぎ出そうとする人々を斥け、祭司長たちや律法学者たちの殺意に対しても抵抗しなかったのです。そして争うことなく、十字架の道を進まれたのです。平和を作り出す人の道と言うのはこのような道なのです。ですから、自分を守ろうとするようなことは一切しないのです。自分を守ろうとすれば対立が起こるからです。どうすればそのように自分を守らずにいることが出来るのでしょうか。それは一切を神様のみ旨に委ねることの出来る人だけが出来るのです。どんなにさげすまれても、危害を与えられても、苦しめられても、その事を通して、神様が与えてくださる平和を信じることの出来る人だけが出来ることなのです。ですから、その様な人は神の子と呼ばれるのです。その言葉通りにイエス様は、十字架の上で、命を差し出されたのち、神の子と呼ばれるようになったのです。平和を作り出すとはそういうことなのです。単なる平和運動をして体制に抵抗するとかそんなものではないのです。神様を信じて、一切の争いを放棄したところに本当の平和が生まれてくるのです。恐れや憎しみの連鎖を断ち切って、一切の争いを放棄したところに平和が作り出されるのです。このような平和を作り出す人々をイエス様は幸いな人々と呼び、神の子と呼ばれると祝福しているのです。
転
さて、9つの祝福の中で、特に繰り返しその祝福を語っているのは次の第八の祝福です。教派によっては、この山上の説教を8福までとして語っているところも多いのです。その祝福は10節と11節です。ここでは、同じような言葉で繰り返し幸いであると語られています。それはこの事が大切な事であるからです。
マタ 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタ 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
このように、繰り返し幸いであると語られた人々とは、誰なのか。それは義のために迫害される人々なのです。それは、イエス様のために迫害される人々です。今まで語られてきた幸いな人々と言うのは、最終的に、この義のために迫害される人々の幸いを語るために語られてきたような気がします。イエス様は、決して、自分に従ってくれば、良い事だけが起こるだろうとは言いませんでした。むしろ、イエス様に従うことは、罵られることであり、迫害されることであり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることなのです。イエス様に従う人々の環境は決して、平和なものではありませんでした。同胞のユダヤ人たちからは、異端として、迫害され、異邦人のローマからは、犯罪者のように迫害されてきたのです。ですがイエス様に従うことは義なのです。神様の御前に正しい事なのです。この義を求める人々、イエス様に従おうとする人々には多くの迫害や困難が生じることをイエス様は隠さずに言いました。そうして、イエス様は言ったのです。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」どうしてでしょうか。どうして天の国がその人たちのものとなるのでしょうか。それは、イエス様のために迫害されると言うことは、自分はイエス様の側に立つとはっきりと表明することになるからです。迫害されれば迫害されるほど、それは、お前はイエスと同じだと言われていることと同じなのです。それはイエス様に従おうとしている人々にとっては栄光であり、誉れなのです。それはイエス様の居られる神の国、天の国に共に居ることが出来ると言うことになるのです。ですから、このような人々に対して、天の国はその人たちのものである、とイエス様は言っているのです。
私達もそうかもしれませんが、この世に生きる者にとって、迫害や試練や苦しみに会うことは避けるべきこと逃れるべきものと考えて、そのようなものから助けてくださいといつも祈ります。ですが、クリスチャンにとっては迫害や試練や苦しみはそういうものではないのです。それは、神様を信頼して受け入れるべきもの、そのような試練を受けると言うことは、イエス様と同じ立場に立つことを表明することであり、神様の栄光を現すことなのです。このような苦しみはむしろ、イエス・キリストのために喜んで受け入れたいと思うのがパウロ的な理解なのです。ですから、このような人々は迫害の中にあって幸いなのです。イエス様と共に居ることが出来るからです。ですから義のために迫害される人々は幸いなのです。天の国はその人たちのものであると祝福されているのです。
そして最後の9つ目の祝福ですが、これはカトリックではここまで数えて、9つとしています。そこには幸いである、と言う言葉は見当たりませんが、大きな祝福が語られているので、その祝福の内に数えられて、9つの祝福とされているのです。その個所は12節の前半なのです。
マタ 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
それはこの、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」と言う祝福なのです。大きな報いがある、と約束されたことが祝福なのです。そしてそのことを、喜びなさい、大いに喜びなさいと励まされています。たとえどんな迫害の中にあっても喜びなさいと、その祝福の大きさを伝えているのです。それは、あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたからである、と言いました。とりもなおさず、このことを語っているイエス様自身が同じように迫害されるからであります。ですから迫害される者たちはみなイエス様の仲間であり、義とされる者達であるので、天にあっては大きな報いが約束されているから、喜びなさい、と励まし祝福しているのです。ここで語られていることも、迫害の中に会って喜びなさいと言うことです。ここの箇所も含めると、3回も繰り返して迫害の中にあるものの幸いを語っているのです。イエス様が、どれだけ、弟子たちにあなたたちは必ず迫害されるだろう。でもそれから逃げるのではなく、それを幸いなものとして受け取りなさいと教えているかが分かります。その迫害が意味の無いものなら耐えられないでしょう。ですが、迫害を受けることがイエス・キリストを信じる証しとなるので、幸いなものとなるのです。ですから喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがあると祝福しているのです。
結
これで9つの祝福を一通り学びました。中には逆説的にしか理解できないような言葉もありましたが、全て、神様の御前にあって、と言う言葉を前提に考えると、一つ筋の通った教えになるのです。これらの祝福される出来事には多くの困難や苦難が付きまといます。ですがそれらのすべてをイエス様は引き受けられたのです。自らそのことを受け入れて、私たちにも、その様になりなさいと励ましているのです。それらの苦難や困難は意味の無いこと、無駄な事ではなくなるのです。イエス様を信じる証しとなり、神の国に入るパスポートにもなるのです。その様なパスポートをもって、喜んで神の国に入ることが出来ることを、祝福されているのです。私達は自分たちに起こる苦しみや困難やもしかすると迫害をも、その意味をとらえなおす必要があるのかもしれません。自分の為だけだったらそれは避けるべきものでしょう。意味の無いものとなるでしょう。ですが、イエス様の為ならば、イエス様と一緒に受ける苦しみならば、それは輝かしい証しの印となるのです。そして幸いなものとして祝福の内に神の国に入ることが出来るのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、9つの祝福を通して教えられた御言葉に感謝いたします。自分たちだけの事を考えれば、意味の無い苦しい出来事が、あなたを通してその意味を知る時、それは祝福となり幸いなものとなりました。あなたは苦しい出来事、困難な出来事を幸いな出来事に変えてくださいました。そして新しい価値をこの世に作り出してくださいました。私達が困難の中にある時、このあなたの御言葉を振り返ることが出来ますように。そこにあなたの示してくださっている幸いを見出すことが出来ますように。その苦しみや困難を通して、あなたを信じるものであり、あなたを崇めるものであることを証して行くことが出来ますように。そして、幸いなるものとの祝福を受けて、御国に入ることが出来ますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆山上の説教を始める
マタ 5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
マタ 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
◆幸い
マタ 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタ 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
マタ 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
マタ 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
マタ 5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
マタ 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
マタ 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
マタ 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタ 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
マタ 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」