家庭礼拝 2014年10月29日マタイ5章1‐12山上の説教を始める
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起
今日の聖書の箇所は、山上の説教と呼ばれるイエス様の教えの大切なものを集めたところです。聖書に興味を持っている人ならば、どれかしら覚えている言葉があるかと思います。その言葉は世の常識とは違い逆説的であり、幸いであると言う言葉で彩られています。その言葉は短いながら祝福に満たされた言葉です。この幸いであると言う言葉のついた教えが9つあるので九福の教えと呼んだり、9つの祝福と呼ぶこともあります。
この教えが、山の上で語られたことから山上の説教とも呼ばれていますが、実際にはイエス様がこのような形で説教されたわけではありません。イエス様が弟子たちに、大切な言葉として常々教えられた言葉の数々が、ここに集約されたものと考えられています。その証拠に、山上の説教として語られているのはマタイとルカにしかなく、しかもルカで幸いな人々と言われているのは4つしかないのです。マタイはどちらかと言うと、まとめるのが好きな人ですから、ここにイエス様の大切な言葉をまとめたと考えた方が良いでしょう。
ここの場面は、イエス・キリストの出てくる映画などでは、イエス様が多くの群衆に囲まれて、大勢の群集に対して、この説教をしているようなイメージを与えていますが、実はこれはイエス様が弟子訓練として、弟子たちに話しかけている言葉なのです。もちろん周りには群衆もいたので一緒に聞いてはいるのですが、イエス様が話しかけている相手は弟子たちなのです。
この山上の説教の始まる前の場面は、イエス様がおびただしい病人を癒しているところです。大勢の群集がイエス様のところに集まってきたのです。このころはまだ、群衆はイエス様の教えよりも、その癒しの力の評判を聞いて、癒しのために集まってきている群衆だったのです。そして今日の5章の1節2節ではこう書いてあります。
マタ 5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
マタ 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
イエス様はその日、大勢の群集の中にあって、おびただしい病人を癒していました。ですが、イエス様がその群衆の多いのを見て、山に登られたのです。それは山の上から群集に語り掛けるためではなく、そのような大勢の群集の中では、弟子たちに必要な訓練を与えられない、必要な教えを語れないと思ったので、山に登って、もっと落ち着いて話の出来るところを求めたのです。そしてその適当な場所を見つけ、腰を下ろされました。腰を下ろすと言うのは、当時のラビすなわち先生が、弟子たちに正式に教えるときの姿勢だったのです。ですから、イエス様が腰を下ろされると、弟子たちは近くに寄って来て、その話を聞こうとしたのです。そして、イエス様はその教えを語り始めたのです。
その教えと言うのは戒めと言うよりも、弟子たちにイエス様に従うならば、ぜひ知っておいてほしいと思われる生活綱領なのです。ここには「なになにする人々は幸いである。」と書かれていますが、原文に近い訳では、「幸いなるかな!なになにする人は。」と言う感嘆符のついた言葉なのです。こうすれば幸いになる。こうすれば幸せになると言っているのではありません。まず、イエス様は、あなたたちはなんという幸せにあるのだろう!とまずそのことを言っているのです。それがどんな苦しみ、悲しみ、貧しさ、迫害の中にあっても、あなたたちは幸せなんだと言うことを言っているのです。それはどうしてでしょうか、それはその次にくる言葉が説明しているのです。その一つ一つを学んでいきたいと思います。
ここで語られている9つの教えは、一つ一つを一回の説教で語っても良いほどのものなので、9つの教えをまとめて一回で話をすることはできません。それで今日は、4つの教えを学び、次回に5つの教えを学びたいと思います。
承
最初にくるのはこの言葉です。3節です。
マタ 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタイでは、心の貧しい人々となっていますが、ルカでは単に貧しい人々は、となっています。多分もともとは貧しい人々であって、マタイがその意味を考えて、心の貧しい人々、と言ったと思われます。この言葉は、世の中の常識とは異なります。人々は豊かな人、富んだ人になりたいと思い、そのようになれば幸いであると思います。それが単に財産でなくても心の豊かさであっても、豊かなほうが幸いだと思いそれを追い求めます。しかしイエス様は、心の貧しい人々は幸いであると言うのです。「ああ、幸いなるかな、貧しき者!」と呼びかけているのです。キリスト教と言うと、この世の幸せよりも、死んでからの来世の幸せを言っているのでしょうと捕える人も多いのですが、イエス様がここで言っているのは、「今、あなたたちは、幸せだなあ」と今の貧しい人々の幸せを喜んで言われているのです。決して来世の事ではないのです。
ここで大切なのは貧しいと言われている言葉です。どの程度の貧しさなのでしょうか。日々の生活に困る貧しさなのでしょうか。普通、貧しいと言っても、何かしら頼れるわずかなお金や財産やまたは知恵があるものです。その中で、私たちは貧しい、貧しいと言っているのです。ですが、イエス様がここで言っている貧しさとは、もう一切頼るものの無くなった貧しさなのです、金銭的にも無一物、知恵も尽き果てなんの頼るものもない状態の貧しさなのです。その様な状態にある人こそ、幸いなるかな、とイエス様は言うのです。どうしてかと言うと、そのようなもう何の頼るものもない状態の中にあっても、頼ることの出来る方が居られるからです。その方に気がつくことが出来るからです。ただ心を向けさえすればその方に頼れるからです。必要な助けと力を神様の中に見出すことが出来るからです。そしてその時は、ものや、お金や、知恵や、力が無意味であり、ただ神様のみがすべてであることを悟ることが出来るからです。そこが天国なのです。ですからイエス様は、天の国はその人たちのものであると言うのです。天の国は、自分の中に全く頼るべきものを見出せない、貧しい人々の中にこそ、見出されると言うことなのです。ですから、自分はもうだめだ、何もかも失ったと思われる瞬間、この言葉を聞くのです。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」天の国に入るためには、むしろ、自分の無力、無知、無能を知ることが大切なのです。その人たちには、もう神様しかないのです。そしてそれが一番大切な事だったのです。
そして次の言葉は、4節です。
マタ 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
この聖句は、それほど逆説的な感じはしません。それは、その人たちは慰められると言う言葉が現実的だからでしょうか。悲しんでいる人が慰められると言うのは、普通一般にあるので、なんとなく納得してしまいます。ですがこの悲しむ人々と言うのはそのような一般的な悲しむ人々でしょうか。この聖句は、貧しい人は、と言う聖句と対句になっているような気がします。この二つの聖句は、同じことを言っているような気がするのです。この時代には、貧しいことも悲しいことも沢山ありました。それは今の時代の貧しさや悲しさとは違うのだと思います。この当時の貧しさや悲しさはもうすぐ死に至るような貧しさ、悲しさです。先ほどの貧しさが、もう何物にも頼ることの出来ない貧しさ、完全な無力を感じる貧しさであり、その先には死しか待っていない貧しさであったように、ここでの悲しむ人々の悲しさは、自分の無価値、無力に絶望する人々の悲しさです。どんなに悲しんでも補うことの出来ない悲しさです。もうその先は死が近いのです。その様な絶望的な悲しむ人々が幸いだと言うのです。どうしてでしょうか。もちろん人に慰められることもあるでしょう。人の情けを知る事もあるでしょう。それでも補えない悲しみがあるのです。その時慰めることが出来るのは、ただ神様の憐れみだけなのです。神様の憐れみと慰めだけが、その悲しみを補ってくれるのです。その悲しむ人々は、絶望的な悲しみの中で、神様の憐れみを見出すことが出来るのです。その憐れみは、その悲しみを覆い隠して余りあるものとなるのです。ですから、悲しむ人々は幸いなのです。その悲しみなくしては知る事の出来なかった、神様の憐れみを知ることが出来るからです。
このように、貧しさも、悲しさも、この世のものではもう何も補いきれないと知った時に、神様の恵みを知ることが出来、神の国を知り、慰めを得るのではないでしょうか。そういう意味では、このような貧しさや悲しみは、神様を知るための試練であり、いたずらに避けるべきものではないのだと思うのです。ただこの世の幸せだけを願うものではないのだと思うのです。私たちの人生には、このような、もうこの世の何物も頼りにできない、補うことの出来ない、絶望的な無力感に陥ることが、きっとあるのです。いくら強気な事を言っていても、きっとそうなるのです。ですから、私たちが本来頼るべき信仰をしっかりと持って歩きたいと思うものです。
転
次の、聖句は私たち自身の姿勢の問題です。ですが、ちょっと分かりにくい聖句です。5節です。
マタ 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
この聖句の第一印象では、穏やかな人々は、この世で幸せになる、と言う風に受け取ってしまいますが、そうではないでしょうか。そもそも柔和な人とはどんな人でしょうか、「あの人はいつも柔和で、穏やかで、ニコニコしている。」と言った表現が当てはまるような、柔和さでしょうか。柔和な人は、怒る事はないのでしょうか、怒るべき時にも怒らない人なのでしょうか。聖書の中で柔和な人と言われている代表格はモーセです。ですがモーセは怒るべき時に怒り、叱るべき時に叱り、裁くべき時には裁く人です。すなわち、柔和とは完全に自分をコントロールできる人の事です。感情的になって、怒ったり行動したりする人ではなく、どのような状況になっても、自分をコントロールして、冷静に行動できる人です。ですがこのようなことが人間にできるのでしょうか。それは人間の力ではできないのです。このように完全に自分をコントロールできる人と言うのは、神様に完全に支配された人なのです。神様の御心に従って歩むときのみ、私たちは、完全な自由を得て、どんなときにも柔和にふるまえるのです。自分の力に頼るものが、恐怖に陥る状況の中でも、神様の力を信じて柔和にふるまえるのです。このように、自分をコントロールできない人は人を従わせることはできないのです。自分自身を支配するものだけが、他の人をも支配することが出来るのです。それは神様の支配に委ねた人です。イエス様は、そのような人だけが地を受け継ぐと言っているのです。それは来るべき世界を担っていけると言うことです。それはこの世の事も、来るべき世の事も含めてです。
今日の最後の聖句、4つ目の祝福はこの言葉です。6節です。
マタ 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる
この時代の人々は常に死と向き合っていました。この飢えと渇きもまた、死に直結する問題でした。水の乏しい、飢饉の多いこの地方にあって、飢えと渇きに出会うことは恐ろしい事でした。モーセがエジプトから導き出したユダヤの人々も、この砂漠の中で飢えと渇きに出会うと、神様の恵みの事も忘れて、モーセに反抗したのです。水を飲まなければ死ぬのです。食べるものがなければ死ぬのです。ここでイエス様が語っている飢えと渇きは食べ物や水の事ではありません、それは義なのです。その義がなければ死んでしまうほどの渇きを覚える人々の事を言っているのです。義とは何でしょうか。それは、神のみ前に正しいことです。神様との関係において正しいことです。人間社会において正しい事とは違うのです。義に飢え渇く人々とは、神の御心を追い求めて、飢え渇く人々なのです。神様の御心を行わなければ、死んでしまうほどの渇きを覚える人々なのです。いったい誰がそんな渇きを覚えたでしょうか。それは詩編の中で、ダビデが叫び追い求めていた渇きに似たものではないでしょうか。イエス様は、そのように、神の義を追い求める人々、それこそ命を懸けて、追い求める人々は幸いであると言っているのです。イエス様の時代ではエッセネ派と呼ばれる人々に属する人々がそうでした。洗礼者ヨハネも、イエス様もその系統ではないかとも言われています。それに比べて、パリサイ派やサドカイ派の人々には、そのような飢え渇きを感じないのです。形式的、儀式的信仰なのです。本当に神様の御心を求める姿勢にはなっていないのです。ですから、洗礼者ヨハネやイエス様から偽善者と強く非難されていたのです。
ここで注意しなければならないのは、イエス様は義を行うものは幸いである、とか、義を得たものは幸いであると言っているのではないのです。イエス様が幸いだと言っている人々は義を得ていなくても追い求める人々の事なのです。例え、義に到達することが出来なくとも、追い求める熱心さのある人々に対して、幸いだとの祝福を与えているのです。私たちの信仰も、もしかすると本当に救いには達していないかもしれません。ですがそれを追い求める者こそ幸いであるとの祝福があるのです。この御言葉に励まされて、命の尽きるまで、御心を追い求めていくのが信仰者なのです。信仰者とは悟った人ではなくて、追い求める人々なのです。
結
私たちは、イエス様によって祝福を与えられているのです。どんなに貧しくとも、どんなに悲しくとも、どんなに無力を感じても、最後に神様の御心に頼るものは幸いなのです。神様に委ねて生きるものは、柔和なものとなり、地を受け継いでいくのです。たとえ義に至らなくともそれを追い求める者こそ、幸いであるとの祝福を与えられているのです。クリスチャンは、この幸いなるもの、祝福を与えられたものであると言うことを忘れてはいけません。ですからどんな環境の中にあっても、クリスチャンは喜びの中にあるのです。パウロが言っているように、いつも喜びなさいとの、呼びかけの中にあるのです。そしてその恵みが与えられていることに感謝して祈るのです。神様の御心を求めて生きる者こそ、本当の喜びに生きるものなのです。幸いなるものとは、神様を本当に求める人々なのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、イエス様の山上の説教によって与えられた多くの恵みと祝福とに感謝いたします。私たちは自分の足りなさを思い、自分の欠けを思い、いつまでも成長しない自分の信仰に絶望しそうになります。ですがイエス様は私たちに、幸いなるもの達との呼びかけをし祝福してくださいます。それはどんな状況であっても、神様の御心を求めるものが、神様の祝福を与えられていると言う教えです。私たちはこの事を、イエス様に教えられました。そして、あなたたちは幸いなるものであると、呼びかけられているのです。こんな素晴らしいことがあるでしょうか。私たちは今このままで幸いなものとして祝福されているのです。そのことを素直に喜びたいと思います。何かしなければならないとか、まだまだ駄目だとか言うのではなく、今このままで幸いなものと呼ばれているのです。ただ私たちが神様に心を向けて追い求めさえすれば私達は幸いなものとなるのです。この事を教えて下さった神様に感謝いたします。どうか日々幸いなるものとして、歩んでいくことが出来ますように。神様を賛美し、ほめたたえます。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆山上の説教を始める
マタ 5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
マタ 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
◆幸い
マタ 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタ 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
マタ 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
マタ 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
マタ 5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
マタ 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
マタ 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
マタ 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタ 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
マタ 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」