家庭礼拝 2014年10月15日マタイ3章13-14章11イエスの洗礼と誘惑
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起
今日の聖書の箇所は、3章と4章にまたがっています。今まであまりなかったことですが、今回のこのイエスの洗礼と、その後の誘惑とはひとつのまとまりと考えられますので、一緒にしました。イエス様が洗礼を受けて、神の霊を受けなければ、サタンはイエス様を誘惑する必要はなかったのです。ですが、イエス様は洗礼を受け、神の霊を受けたので、サタンはこの世でのイエス様の働きを阻止するために、すぐにイエス様を誘惑しようとしたのです。ですが、これは神様の計画でもあるのです。
イエス様は洗礼を受けた後、すぐに荒野に引きこもり断食をしました。どうしてでしょうか。イエス様はこの時、一人になり、これから歩むべき道を尋ねていたのだと思います。それは誰に対してかと言うと神様に対してです。イエス様のメシアとしての自覚、使命が与えられたとすればこの時です。イエス様が洗礼を受けた時に、「これは私の愛する子」と言う声が聞こえた時に、その使命を知ることが出来ました。ですが、それが本当なのかどうか、本当に自分のやるべきことなのか。その覚悟があるか、などを確信するために、一人になり神様と向き合って断食し、その答えを求めたのだと思うのです。そして、その答えを求めている最中にサタンはイエス様を誘惑したのです。イエス様がその使命を果たさないようにするために、いろいろな誘惑をしました。ですがこれはサタンの側からの見方です。神様からの見方は、イエス様が荒野で得た結論が、これからメシアとして活動するのに耐えうるかどうかテストする、すなわち試練を与えて確かめると言うことなのです。
誘惑というものはどのようなものでしょうか。もし私たちにその誘惑に応える能力がなければ、誘惑は存在しないのです。その誘惑を為す力があるから誘惑されるのです。イエス様の誘惑が特別なものだったとすれば、イエス様の能力も特別だったのでしょう。悪しきことに誘惑されるのは、良いこともできるが悪いこともできるからです。そしてそれが魅力的に見えるからです。この荒野での誘惑の事を、イエス様は弟子たちに語ったのだと思います。イエス様以外に語れる人はいないからです。そして、これに先立つイエス様の洗礼の話は4つの福音書全部に書かれ、イエス様の誘惑の話はヨハネ以外の3つの福音書に書かれているのです。
4つの福音書に共通に書かれている出来事と言うのは実は少ないのです。最後の晩餐の時のエルサレム入場後は4つの福音書に共通の事が多く出てきますが、その時までの4福音書の共通の出来事として現れるのは、ヨハネの宣教、イエス様の洗礼、ガリラヤ伝道の開始、5千人の食事の4か所だけなのです。それらはイエス様の活動のターニングポイントとなるべき出来事です。そういった意味で、今日の聖書の箇所は、4つの福音書にとっても、とても大切な箇所なのです。
承
さて、ヨハネが、人々に洗礼を与え、ファリサイ派やサドカイ派の人々を激しく糾弾していた時、「私の後から来る方は、私よりもすぐれておられる。私は、その履物をお脱がせする値打もない。」と言って、メシアの登場を予言していたころ、マタイによる福音書では、「その時、」であり、ヨハネによる福音書では「次の日」イエス様が、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られたのです。それは当然、ヨハネの洗礼を受けるためなのです。ですが、洗礼とは罪の許しの洗礼であり、メシアとなるべきイエス様に許されるべき罪があるとは考えられないのです。それで、イエス様と出会った、ヨハネはこういったのです。14節と15節です。
マタ 3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
マタ 3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、」と言って、イエスが洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたのです。ところがイエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言ったのです。どうしてイエス様が洗礼を受けるのが、正しい事なのでしょうか。それは多分、イエス様が洗礼を受けたのは、自分の罪の為ではなく、ユダヤ人の罪の為であり、その一員として、みんなと同じように洗礼を受けて、民族の罪を清めると言う意味があったのだろうと思います。へりくだって人となったイエス様は、へりくだって、洗礼をも受けたのだと思うのです。そしてイエス様はヨハネによって洗礼を受けられたのです。
その時不思議なことが起こりました。16節と17節です。
マタ 3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
マタ 3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
イエス様が洗礼を受けて、水の中から上がられた時、天から神の霊が鳩のようにイエス様に下ったのを4つの福音書は同じように伝えています。そしてヨハネ以外の共観福音書には、その時「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたと言っているのです。この聖霊を見たのは、共観福音書ではイエス様自身ですが、ヨハネ福音書ではヨハネが見たとなっています。そしてヨハネはそれを証言して、こう言っているのです。「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」きっと、信仰ある人々には、それがはっきりと見えたのでしょう。そしてこの方こそは神の子であるとの確信が得られたのだろうと思います。
イエス様自身、この神様の聖霊が下ったことを重大な出来事としてとらえ、それを思いめぐらすために聖霊に導かれて、荒野で一人になり断食して、その事の意味を問い続けたのではないでしょうか。
転
イエス様は、洗礼を受けた後すぐに荒野に向かったのです。それは、悪魔から誘惑を受けるために悪魔によって導かれたのではなく、霊に導かれていったのです。4章の1節2節です。
マタ 4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
マタ 4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
イエス様は悪魔から誘惑を受けるために、すなわち悪魔の試みに会うために、簡単に言えば悪魔のテストを受けるために、霊に導かれて荒野に入ったのです。霊に導かれたと言うことは、これは神様の計画であると言うことです。イエス様は、洗礼を受けられて神様の霊を受けた時、一緒に大きな力をもうけられたのだと思います。その大きな力を、イエス様が正しく用いることが出来るかどうかのテストを受けられたのです。それは40日間断食し、空腹を覚えられた後にくる3つの誘惑でした。まず最初の誘惑は3節4節です。
マタ 4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
マタ 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
先ほども言いましたように、誘惑と言うのはそれを行う能力があるから誘惑を受けるのです。もしサタンが、私たちに、イエス様に行ったと同じことを言ったとしても誘惑にはなりません。私たちには石をパンに変える力はないからです。ですがイエス様がこの誘惑を受けたと言うことは、イエス様には石をパンに変える力があったからなのです。人間は自信のあることにこそ誘惑を感じることが多いのです。この誘惑は、イエス様が、その与えられた神の力を、自分のために用いるかどうかと言う誘惑なのです。イエス様は空腹を覚えられていたのです。それは普通の空腹ではありません、死ぬかもしれないほどの空腹なのです。それでサタンは、それなら自分の命ために、石をパンにしたらどうだと、誘惑したのです。イエス様は、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」と言って、聖書の言葉で、その誘惑をはねのけました。この誘惑、すなわち試験は、サタンが行っているものではないのです。神様の試験なのです。神様がサタンを使って試験をしているだけなのです。ですからイエス様はその試験、すなわち試練を避けようともせず、素直に受けているのです。私たちにもこのような試練がやって来ることがあります。悪魔の仕業ではないかと思われる試練です。ですが、それもまた、神様が私たちの信仰を試すために与えた試練なのかもしれないのです。ですから、試練を軽んじてはならないと言う聖書の言葉が与えられるのです。試練に対しては、聖書の言葉に従うのがよいのです。イエス様でさえ、聖書の言葉によって、その試練を乗り越えたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」と言って乗り越えたのです。これは命をかけた言葉なのです。ここには、パンがなければ死んでしまうだろうと言うことが背景にあるのです。サタンの誘惑は、「死んでしまったらおしまいだろう。自分のために、石をパンに変えたらどうだ」と言うもっともらしい誘惑なのです。それに対してイエス様は、たとえ肉体が滅んでも、神様の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ、御心に適って生きるのだと言う、信仰にもとづいた答えなのです。
二つ目の試練は、神殿の屋根の上から飛び降りてみて、皆を驚かせたらどうだと言う誘惑です。これもイエス様はできるかもしれないと思っていることです。そうすればその奇跡を見て人々はみなあなたに従ってくるだろう、あなたがメシアであることを認めるだろうと言うことをサタンは言おうとしているのです。5節から7節です。
マタ 4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
マタ 4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
マタ 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
この誘惑は、あなたほどの力があるならば、何も回りくどいことをしなくても、奇跡によって、皆を信じさせることが出来るだろう、と言う誘惑なのです。イエス様にそれが出来るかもしれないと言う思いがあるならば、それを試してみたらどうだと挑発しているのです。しかも、サタンですら聖書の言葉を引用して、こう書いてあるから大丈夫なはずだと言っているのです。すなわち、驚くような奇跡の力によって人々を信じさせてしまおうとする誘惑なのです。それもイエス様はできたのかもしれません。ですがイエス様はそのような方法を取りませんでした。それはたとえ聖書に書いてあっても、神様の御心に適うやり方ではなかったのです。イエス様が示した方法は、そのような奇跡の力で信じさせる方法ではなく、苦難と十字架の上での死と復活を通して人々に信じる心を与えることだったのです。これは、私たちにも同じような誘惑がよく起こります。「私たちは、信仰を持っているのだから、神様はきっと助けて下さる。聖書にもそう書いてある。だからこれを思い切ってやってみよう。神様は奇跡を起こしてくださる。」と言うのがそれです。一見信仰的なのですが、神様が助けて下さったときには、神様を崇め、助けて下さらなかったときには神様を罵るような信仰なのです。これは神様を試みる信仰なのです。イエス様はそのようなことはしてはいけないとその誘惑をはねのけました。それも、旧約聖書の言葉から、「『あなたの神である主を試してはならない』と書いてあることを引用してはねのけたのです。
三つめの誘惑は、サタンとの妥協です。すなわち、この世との妥協です。すなわちどんなものが与えられてもこの世と妥協せずに、神様に仕えることが出来るかと言う試練です。8節から11節です。
マタ 4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
マタ 4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
マタ 4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
マタ 4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
これは私たちの陥りやすい誘惑です。多くの罪はこのサタンの誘惑に負けてしまって、この世の力、名誉、豊かさ、快楽を、罪を犯してでも求めてしまいます。たとえそれが罪でなくてもそうです。イエス様はサタンに、「ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑されました。私たちは、ほんの小さなことを与えようと言われただけで、誘惑に陥ってしまいます。私たちの今の生活が、サタンの誘惑に陥っていることはないでしょうか。もし、神様よりも、この世を求めるならば、それはサタンの思う壺です。イエス様は、ここでも聖書の言葉で対抗しました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と言って斥けたのです。ただ主に仕えると言うことに立つことだけが、サタンの誘惑を斥ける一番の道なのです。
結
イエス様は、罪ある人々と同じように洗礼を受けられました。そしてその時、天から霊が降りてきて、「これは、私の愛する子」と言う神様の認証が与えられました。それはイエス様にとって、大きな使命が与えられた時でした。その使命を遂行するために、神様はサタンを使ってイエス様を試みられました。イエス様が神様の御心に適って、その力を用い、神様に仕えるものなのかを試みられたのです。そしてイエス様は、立派にその試練を乗り切ることが出来ました。その試練は、一つ目が、自分のために生きるのか、神様のために生きるのか。二つ目が、安易に神様の力を求めて、神様を試してはいないか。三つめが、この世に思いを置かず、ただ神に仕えようとしているか、と言うことです。この試練は、実は私たちが、毎日この世にあって受けている試練です。イエス様が聖書の御言葉によって、立派にこの試練を乗り切ったように、私たちも聖書の言葉に立って、この世の試練を乗り切ることを求められているのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、あなたはイエス様に多くの試練を与えました。あなたの働きを担うものとして、誘惑に耐えて行けるかどうかを試されました。イエス様はそれを聖書の御言葉によって、乗り越えられました。私たちの生活の内にも、多くの誘惑と試練とがありますが、どうかこの世の事に捉われることなくただあなたを見つめあなたへの信仰に立って歩んでいくことが出来ますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆イエス、洗礼を受ける
マタ 3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
マタ 3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
マタ 3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
マタ 3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
マタ 3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
◆誘惑を受ける
マタ 4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
マタ 4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
マタ 4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
マタ 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
マタ 4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
マタ 4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
マタ 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
マタ 4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
マタ 4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
マタ 4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
マタ 4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。