家庭礼拝 2014年10月8日マタイ3章1-12洗礼者ヨハネ
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起
イエス様の公の働き、いわゆる公的生涯は何時から始まるかと言うと、このヨハネの登場からです。またイエス様が登場していなくても、ヨハネの働きとイエス様の働きは一体のものだからです。この洗礼者ヨハネの事とイエス様の洗礼の話は四つの福音書全部に書かれていることなので、その重要さが良く分かります。
このヨハネは洗礼者ヨハネとも呼ばれます。多くのユダヤ人たちに罪を清める洗礼を与えたからです。実はそれまで、ユダヤ人は洗礼というものを受けたことはないのです。なぜならば、洗礼を受けるのは罪人とされていた異邦人が悔い改めて、浄められて、ユダヤ教に入信するときに用いられるのが洗礼だからです。そしてその洗礼の方法も、私たちが教会で受けた水のしずくを頭にたらす、滴礼ではなくて、全身が水の中に浸されて浮かび上がる、全身礼なのです。これは古い自分すなわち罪ある自分が水の中で死んで、新しく生きることを意味しているのです。なぜユダヤ人たちは洗礼を受けなかったかと言うと、アブラハムの子孫は、アブラハムのゆえにみな救われていると考えられていたからです。洗礼を受けなくとも皆救われているのだから、アブラハムの子孫でない人たちだけが受ければよいものとされていたのです。それが洗礼者ヨハネの呼びかけによって、罪を自覚し、洗礼を受けたのです。
ヨハネは預言者と考えられていました。ユダヤ教の事にあまり詳しくない私たちは、預言者とはいつの時代にもいたような気がしていますが、実は、そのころ、ユダヤ教の歴史の中ではもう400年間も預言者は現れなくなっていたのです。ですがユダヤ人たちは必ず預言者はまた現れると信じて待っていたのです。それはマラキ書4章5節にある「私は預言者エリヤをあなた方に遣わす」と言った予言が実現されることを信じていたからです。そこに現れたヨハネはその予言されたエリヤとそっくりの風貌で現れたのです。ヨハネはラクダの毛衣を身にまとい、腰に皮の帯を締めて現れたのです。エリヤがどのようであったかと言うと、列王記下の1章8節に、アハズ王は必ず死ぬと告げている者がいることを家来が伝えた時、王はそのようなことを告げたのは誰かと問います。すると、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」と答えたのです。すると王は、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った、と書かれています。このようにエリヤとヨハネは風貌もそっくりなら、そのすることもそっくりだったのです。エリアがこのように、王に対してもあなたは死ぬ、と言ったように、バプテスマのヨハネもヘロデ王の結婚は律法に反していると言い、サドカイ人やパリサイ人に対してもその形式的な信仰に対して、蝮の子らと叫んで痛烈な批判をしたのです。その時の権威を全く恐れていないのです。ですから彼はきっとあのエリヤに違いないと思われたので、人々は続々とヨハネのもとに来て洗礼を受けたのです。すなわち、ユダヤ人たちは悔い改めの洗礼を初めて受けたのです。その様なバプテスマのヨハネのもとに、イエス様も現れて洗礼を受けました。これは原始キリスト教会の中では一つの疑問だったのです。なぜならば、悔い改めの洗礼は罪を犯した人が受けるものなのに、罪を犯していないはずのイエス様がなぜ洗礼を受けたのかと言う疑問なのです。それに答えているのは今日の箇所ではなく来週の箇所なのです。イエス様がなぜ洗礼を受けたのかの解答があるのです。
承
さて、聖書の箇所ではまず洗礼者ヨハネが現れます。場所はユダヤの荒野です。人の多い町の中で述べ伝えたのではなく、誰もいないような荒野の中で伝えたのです。この場所は死海の西側にある、すなわちエルサレム側の砂漠化した荒野です。そこに現れて、こういったのです。1節2節です。
マタ 3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
マタ 3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
洗礼者ヨハネが言ったことは「悔い改めよ」です。これは全くユダヤ教的な意味で言っているのです。そして、天の国は近づいたと言いました。これは神の裁きが近づいたから、悔い改めて、憐みを求めなさい。と言うことなのです。悔い改めのみが、神様の許しを受けるただ一つの方法なのです。これは今の私たちにとっても同じです。神の国がやって来るとはユダヤ教では裁きが行われると言うことなのです。イエス様の宣教ももうじき行われるのですが、イエス様の最初の宣教の言葉も実は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」なのです。ヨハネと全く同じなのです。ですがその意味はヨハネとは違うのです。裁きを許されるためではなく、福音を受けるために悔い改めよと言っているのです。
洗礼者ヨハネもイエス様も言った最初の言葉「悔い改めよ」とはどういう意味でしょうか。これは信仰を持つ者にとってとても大切な言葉なのです。これは私たちの罪を悔い改めて、神様の方に向き直りなさいと言うことです。ですが私たちは、私たちはもうすでに信仰をもって、神様の方を向いているのだから、悔い改めは既になされているのではないかと、軽く考えてしまいます。それならば、ヨハネも、イエス様も改めて、悔い改めよとは言う必要はないのです。ユダヤ人もそれなりに信仰をもって生きていたからです。ですが、そのそれなりに信仰をもって生きているその生き方を悔い改めよと言って洗礼を受けさせたのです。それは今までの生き方、今までの信仰が間違っていたと認めることなのです。信仰を持っているのに何が間違っているのでしょうか。それは信仰を持っていると言いながら、この世的な生活をしているから間違いなのです。信仰も大事だけれども、この世の生活のほうがもっと大事なのです。すなわち、私たちの心は、この世の方に向いているのです。「悔い改めよ」とはその心の向いている方向を、反対に向けなさい、神様の方に向き直りなさいと言うことなのです。もうこの世の生活はどうでもよい、ただ神様の栄光のために生きようとすることなのです。それが「悔い改めよ」なのです。そして「神の国は近づいた」と言いました。これはもう時間がないと言うことです。早く悔い改めて、神様の国の方を向かないと、神の国に入ることが出来なくなってしまう。神様の裁きに会ってしまうと言うことなのです。その様な切迫感を持って、ヨハネもイエス様もこの神の国の到来の近い事を告げたのです。
洗礼者ヨハネとは一体何者なのでしょうか。それは祭司やレビ人達も問題にしていることでした。このいきさつはヨハネ福音書の1章19節から27節に詳しく書かれています。そこでは、祭司やレビ人たちが、あなたはいったい何者なのかと尋ねた時、ヨハネは自分はメシアでも、あの預言者でもないとはっきり否定しています。ヨハネは預言されていたあのエリアの再来ではないと言っているのです。それではあなたは何者なのかと問われると、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えるのです。今日の聖書の箇所ではこうなっています。3節から6節です。
マタ 3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
マタ 3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
マタ 3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
マタ 3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ここには、ヨハネによる福音書のようないきさつは書かれていませんが、洗礼者ヨハネは、預言者イザヤによって予言されている人だと言っています。それは、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」と言った人だと言うのです。旧約聖書の中では、この人が誰であるかは示されていないので、ヨハネは、私がそれであると答えたのです。ヨハネが、自分は預言者エリアではないと言っても人々は彼を預言者と認めたのです。その姿はエリヤそっくりだったからです。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたのです。実はユダヤ人は昆虫を食べてはいけないのです。汚れているからです。ただ一つ、イナゴだけは食べてよいのです。ヨハネはそのイナゴを食べていたようです。日本のイナゴよりも一回りも大きいイナゴのようです。それをバリバリと食べている姿は、まさに仙人のようです。その様なヨハネにひかれて、人々は罪を告白し、ヨルダン川で、ヨハネの洗礼を受けたのです。
転
その洗礼を受けに来ている人々の中に、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのです。その時ヨハネはこう言ったのです。7節から10節です。
マタ 3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
マタ 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
マタ 3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
マタ 3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる
なんと激しい言葉でしょうか。当時のファリサイ派は信仰の指導的立場であり、民衆に対して、宗教的な干渉を常にしていました。それは律法を守らせると言う態度でした。こうしなければならない、ああしなければならないと言って、監視を強め、いつも人々を縛っていたのです。どうしてそんなにも律法を守らせようとしていたかと言うと、もしユダヤ人が一日でも完全に律法を守った時にはメシアが現れると信じていたからです。ですがそれは、自分たちの力でメシアを呼び寄せようとする努力であり、その信仰は戒めを守る形式的な信仰へと変わっていたのです。ですから、神様の前に正しい人の洗礼者ヨハネにはその信仰は実りの無い信仰であり、神様の御心に反する信仰であるとしていたのです。一方サドカイ派は政治的な意図を持った宗派であり、議会の大部分を占め、そして、裕福なこの世的な考えを持つ人々で占められていました。神様の事は、ファリサイ派よりもさらに形式的であり、この世の喜びを何よりも大切にしている人々でした。ですから、洗礼者ヨハネはこのファリサイ派とサドカイ派の人々には厳しかったのです。「悔い改めよ」とはまさにこの人々に対して言うべき言葉だったのです。ですがこの人々は、それをも表面的にしかとらえていなかったのです。とりあえず洗礼を受けていれば大丈夫だろうと言うような考えで洗礼者ヨハネのところにやって来たのです。ですから、その心を見抜いている洗礼者ヨハネは激しくこれらの人々を非難してこう言ったのです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」このように、ヨハネは、見かけだけ装って、悔い改めようとしない彼らに対して、良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる、と叫んだのです。ヨハネのメッセージは「悔い改めよ、よい実を結べ。そして神の国に入りなさい」なのです。
そして来るべきメシアについてはこういったのです。
マタ 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
マタ 3:12 そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネは、いよいよメシアが到来することを伝えました。ヨハネは、その方は私よりもすぐれた方で、自分はその履物をお脱がせする値打もないと言いました。履き物を脱がせるのは奴隷の仕事でしたので、自分はその奴隷以下であると、自分の小ささを述べたのです。そして、私はあなたたちに水で洗礼を授けているが、その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになると言いました。ヨハネは水であり、イエス様は火なのです。水による清めはノアの大洪水による人類の清めを連想させ、火による清めは終末の火による清めを連想させます。良い実を結ばないものは切り倒され火に投げ込まれ、麦の殻は消えることの無い火で焼き払われるのです。これは当時のユダヤ的な終末思想であり、一般的に信じられていたことです。ヨハネは、ともかくも、自分の後にはとてつもなく大きな方がやって来て、聖霊による洗礼を与えてくれると予言したのです。私はそのための準備をしているにすぎない。道を整えているにすぎない。奴隷以下の働きをしているにすぎないと言っているのです。そして、だから悔い改めなさい、そしてメシアを待ち望みなさい、と言ったのです。
結
ヨハネは偉大な人でした。イエス様自身が女から生まれたものの中で、ヨハネほど大きなものはいなかったと言っています。その様な偉大な人でしたが、決して自分の役割を忘れるような人ではありませんでした。その役割とは、メシアが現れる前の準備をする働きです。その働きは、その方に比べたら、全くとるに足りない者であり、奴隷にも及ばないものであることを自覚していました。ですが、神様に用いられたその働きを信じて、人々に対して悔い改めよと言ったのです。ヨハネは、時の権力者や権威者に対して、反抗的でしたが、決して彼らに対抗することが目的だったのではありません。ただ、神様の御心に従って、「悔い改めよ」と言った時に、その人たちが、従おうとしなかったので、厳しい批判の言葉を浴びせたのです。それによって命を奪われそうになっても、それは何の問題ではありませんでした。もうこの世は滅びる、そして、実を結ぶものだけが神の国に入ることが出来ると信じていたのですから、この世には何の執着もないのです。ヨハネはただ、神の栄光の為だけに生きたのです。私たちも、この世に執着することなく神の栄光の為にだけに生きることを求められているのです。それが「悔い改めよ」と言う言葉なのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。ヨハネはあなたの声となって、「悔い改めよ」と叫び続けました。私たちの心の目を覚まさせるために叫び続けました。私たちはいつの間にかこのままでいいと言うような気持ちになり、この世を安楽に生きていたいと思うようになってしまいます。その姿勢に対して、ヨハネは、「悔い改めよ、実を結べ」と叫びます。私たちの信仰の実はどこにあるのでしょうか。神様、どうか私たちが、本当にあなたの方に向き直り、この世の事に捉われることなくあなたの栄光の実を覚えて生きることが出来ますように。信仰の実を結ぶことが出来ますように導いてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
マタ 3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
マタ 3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
マタ 3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
マタ 3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
マタ 3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
マタ 3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
マタ 3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
マタ 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
マタ 3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
マタ 3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
マタ 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
マタ 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」