家庭礼拝 2014年9月17日マタイ1章18-25イエスキリストの誕生
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起
今日の箇所は、イエス・キリストの誕生です。クリスマスなどの時には、盛んに、聖書の箇所を引用して、クリスマスの時を祝うので、聖書にはイエス・キリストの誕生の事で一杯のような気がしますが、実はあまり多くは語られていないのです。そういった意味で、今までのキリストの誕生のイメージは一度捨てる必要があります。
私たちが知っているイエス・キリストの誕生物語は、ほとんどがルカによる福音書から来ているものです。洗礼者ヨハネの誕生の告知の事も、マリアへの告知の事も、マリアがエリザベツを訪問したことも、ヨハネが誕生したことも、羊飼いがやって来たことも、皆ルカだけが書いていることなのです。ほかの福音書には書かれていないのです。特にマルコとヨハネによる福音書には、イエスの誕生に関しては一切触れられていないのです。わずかにマタイによる福音書にだけイエスの誕生の事が記されています。しかもそれは、イエスの誕生の事が天使によって、マリアに告知されたのではなく、ヨセフに告知されたのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
そもそもユダヤ教には、乙女が身ごもると言うような話は一切ないのです。ユダヤ人たちの考えではそれは異教的な考えなのです。なぜルカでは、堂々と乙女が身ごもって救い主イエスが生まれたと言う話を伝えているのでしょうか。それはルカによる福音書の性格によるのです。ルカはイエス様には一度もあったことの無い人です。使徒たちの中でも、ごく一部の人にしかあっていないのです。ルカはシリアのアンティオケの出身であり、ギリシャ文化の影響を受けた異邦人なのです。そして、ルカによる福音書は異邦人のティオピロ閣下と言う人宛てに書かれたものなのです。すなわち、ルカによる福音書は、異邦人の異邦人による異邦人のための福音書なのです。でもその内容は、洗練されており、文学的なのです。ルカによる福音書のイエスの誕生物語をユダヤ人に語ったらとんでもないヒンシュクものなのです。ところが異邦人世界ではこのような話はごく普通にあったのです。乙女が身ごもる話は世界中に数千例あるそうです。むしろ、乙女が身ごもったと言う話がないのは、実は日本人とユダヤ人くらいなのだそうです。このことはイザヤペンダサンが書いた、「日本人とユダヤ人」と言う本に書かれています。このような乙女が身ごもったと言う話は、今までの伝統的、血統的な流れを断ち切り、新しく世界が始まるようなことを説得しようとする時によく起こるものだそうです。ところが日本人とユダヤ人にはそれよりも、万世一系の血筋がとても大切だったので、このような乙女が身ごもって、全く新しい血筋が出来るような話は起こらなかったのだとも言っています。ところが、異邦人世界では、このような話は受け入れられやすく、異邦人世界に福音を伝えるときに絶大な影響があったと伝えられているのです。いわば、ルカによって、イエスの誕生物語は宣教のために都合よく整えられたのかもしれません。でもそれもまた、聖霊によるものなのだと思います。。
しかし、「マタイ福音書には処女降誕の話がはっきりと書いてあるではないか。しかも、旧約聖書を引用して書かれているではないか」と言う反論があると思います。それは今日の聖書の箇所に見られるからです。23節には
マタ 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
と書かれているからです。これはイザヤ書7章のインマヌエル予言と言われるところに書かれていることで、その14節がそこに該当します。ところが、ここで言われている乙女と言うのは、若い女性と言う意味であり、それがギリシャ語に訳された時に処女と訳されたと言うのです。ですから、イザヤ書でも、マタイによる福音書でも処女降誕の話は本来一切出ていないのです。すなわち、処女降誕の話はルカによる福音書だけなのです。
イエスの誕生物語には、このような背景があることを頭に入れつつ、この箇所をもう一度改めて、理解していきたいと思います。
承
それでは18節から読んでいきましょう。
マタ 1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
ここにイエス・キリストの誕生の事が書かれています。まず、母マリアはヨセフと婚約していた、となっています。この時代のユダヤの習慣では婚約とはほとんど結婚と同じなのです。その扱いは妻として扱われます。ですから、婚約破棄と言うのはただ約束の破棄と言うよりも、離婚手続き訴訟をしなければならないと言うことです。この婚約期間と言うのは1年間で、その間に何事もなければ正式に妻として受け入れられるのです。これはマリアの場合のように身に覚えのない子供が生まれてくるのを防ぐためだったのだと思いますが、これがまさにマリアに起こってしまったのです。ですが、マタイはそれを、「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」とあらわしているのです。このマタイによる福音書の、イエス降誕の話を読むときに、大切な視点は、マタイは決して、処女降誕と言う視点で書いているのではなく、「聖霊によって身ごもった」と言うことを強調して書いているのです。父親は誰かはわからないが、とにかくそれは聖霊によって身ごもったのであり、神様の計画であった、と言うことなのです。
当然、夫のヨセフはマリアに対し何らかの対処をしなければなりません。ヨセフには身に覚えのない子供なのです。一番、オーソドックスな方法は、律法に従って、裁判において、解決する方法です。今の離婚訴訟でもそうでしょうが、そうなると、洗いざらい、言いたくもないことまで、公の場で話さなければならなくなります。それは当然、マリアを深く傷つけることになります。しかもその結果によっては、死にまで至るのです。19節です
マタ 1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
夫ヨセフは正しい人であったので、と書かれていますが、ヨセフは単に律法によって裁くと言う冷たい方法ではなく、マリアの事を考えて、秘かに縁を切ろうと決心したのです。なぜならば、マリアは夫がいるのに姦淫をしたと言うことになり、石打の刑で殺されるかもしれないからです。ですから、ヨセフが秘かに縁を切ろうと決心したことは、マタイにも神様の御前に正しい方法と映ったのであり、ヨセフは正しい人であったと言うことになるのです。これが当時ユダヤ人が取れる最善の方法だったのです。
転
ところが、実に不思議なことが起こったのです。それは夢の中で起こったのです。20節21節です。
マタ 1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マタ 1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
ヨセフが、秘かに縁を切ろうと決心していた時に、主の天使が夢に現れていったのです。それは、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」とあります。ここでも、マタイはマリアの処女降誕をではなく、イエスが聖霊によって宿ったと言うことを強調しているのです。天使はヨセフに言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎い入れなさい。」と言いました。姦淫によって身ごもった女を妻に迎い入れると言うのは大きな罪なのです。正しい人ヨセフにとってはそれは死ぬほどの恐ろしい事なのです。そのハードルを、ヨセフは天使の声によって乗り越えたのです。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と言う言葉によって、これは神様の計画であると理解したのです。
そしてさらに天使は、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言いました。イエスと言うのは、実はギリシャ名であって、ユダヤの名前ではヨシュアと言う名前なのです。ですから天使は、その子をヨシュアと名付けなさい、と言ったのです。その意味は「エホバすなわち神は救いなり」と言う意味なのです。ですから天使の言った意味は、「この子はすなわち、「神は救いなりと言う名」の子は、自分の民を罪から救うからである、」と言う意味に繋がっていくのです。当時の神様は、救いと言うよりも裁きの神様だったのです。それが救いの神様として、イエス様がお生まれになる、と言うことを示しているのです。
そして、マタイはこの事は主が予言者を通して言われたことが実現するためであったとして、旧約聖書の言葉を引き合いに出しました。22節と23節です。
マタ 1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
マタ 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
これは、イザヤ書7章14節からの引用ですが、ここで言われている乙女は前にも言いましたが、若い女性と言う意味で処女と言う意味とは限りません。そしてその名はインマヌエルすなわち「神は我々と共におられる」と呼ばれると予言されましたが、ヨシュアすなわち「神は救いなりと言う名」を持つものとなりました。でも、実際のイエス様はその予言以上に救い主なる神となられたのです。すなわち、イエス・キリストとなって、主は我々と共に居られる方となったのです。
この不思議な夢を見たヨセフは、きっとそのことを真剣に思いめぐらせたのだと思います。しかし、誰にも相談できなかったのだと思います。相談する以上に、この事は天使を通して夢の中で、神様が自分に命じたことなのだと受け止めたことだろうと思います。そして、24節と25節です。
マタ 1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
マタ 1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
ヨセフはその夢を信じたのです。神様の御言葉を信じたのです。ですから、マリアを妻として迎え入れ、マリアと関係することなく、子供が誕生し、その子の名をイエスと名付けたのです。男の子が生まれるまでマリアと関係することがなかったと言うことは、イエス様は明らかに、ヨセフの子ではないと言うことを証明しているのです。
ルカによる福音書では、天使がお告げを知らせに来たのはマリアに対してでした。そしてマリアはそれを受け入れたと言う内容でしたが、マタイでは全く反対にお告げを受けたのは夫のヨセフでした。ユダヤ人たちによっては、マタイによる福音書のイエスの生誕物語は受け入れられても、ルカによる福音書の生誕物語は受け入れられなかったでしょう。福音書はそれぞれに、働き方が違っていたのかもしれません。でもそれもまた、神様のご計画の内にある聖霊の働きなのです。
結
私たちは、イエス・キリストの生誕物語と言うと、何か、子供向けの紙芝居を見ているようで、何か受け入れがたいものを感じることがありますが、このマタイによる福音書の生誕物語は、決して非現実的でも空想的でもなく信仰的な物語として受け入れることが出来るのではないでしょうか。そして、このマタイによる福音書の生誕物語で大切なのは、この事が、聖霊によって起こった出来事であり、預言されていたことである。と言うことです。マリアが身ごもったのも聖霊によってであり、ヨセフがマリアを受け入れたのも聖霊によってなのです。この聖霊による働きによって、イエス様はお生まれになった。それは神様のご計画のままであったと言うのが、マタイによる福音書の生誕物語の真髄です。そしてその生まれた子供は、その名の通り、世に救いをもたらすものとなったのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。イエス様の生誕の次第を、マタイを通して教えられましたことを感謝いたします。この出来事が、すべて聖霊の働きを通してなされたことであり、人間の思いを超えた神様の計画であることを教えられました。ヨセフはそれを天使のお告げによって知りました。そしてマリアを迎い入れたのです。神様のこの聖霊の働きによってイエス様は生まれ、そして世の救い主となられたことを信じます。
私たちはこのイエス様の誕生の事を、マリアが乙女であるのに生まれたのかどうかと言うことよりも、そこに聖霊の働きがあって、すべてが導かれたと信じます。どうか私たちが、理屈ではなく、聖霊の働きに信頼することによって、信仰をもって生きることが出来ますように導いてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マタイによる福音書)>>
◆イエス・キリストの誕生
マタ 1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
マタ 1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
マタ 1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マタ 1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
マタ 1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
マタ 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタ 1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
マタ 1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。