家庭礼拝 2014年8月13日ペトロ第二1章16-21 キリストの栄光、預言の言葉
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起
今日の聖書の箇所のキーワードは預言と言う言葉と、目撃と言う言葉です。私たちは、預言とか、預言者と言う人をどのように受け止めているでしょうか。それはまだ知識の足りなかった時代の迷信みたいなものではないかと思ってはいないでしょうか。実は私の中にも、まだこの予言というものを本気になって受け止めていない部分があって、問題だなと思っています。と言うのも、この予言とその実現と言うことが、信じることと非常に強く結びついているからなのです。私たちの信仰はこの予言されたことをどう理解しているかによって、本当に信じるものとなるからです。
私たちは、この信仰を信じるものとなるために、どのようにして信じるものとなろうとしているでしょうか。多くは、聖書を学び、説教を聞き、多くの知識と導きとによって理解してから、少しずつ信じるものに変えられていくと言うパターンではないでしょうか。それはそれで、オーソドックスな信仰のあゆみです。ですが、このような歩みが、本当に信じていると言う確信になかなか迫ることが出来なくて、歯がゆく思っている人も多くいるはずです。どうして自分はこんなに長く信仰生活をしているのに、本当の確信に至らないのだろうかと嘆いている人もいるのです。ところが、このような学びのアプローチではなく、たとえ知識は無くても、信仰経験が短くても「私はイエス様に出会った。私はイエス様を体験した。」と言い切れる人々がいるのです。この人々は、その体験が強烈なので、他に何の保証も必要としないのです。その体験だけで、私はイエス・キリストを信じます。主の復活を信じていますと、心から言えるのです。そしてその体験の証しを生き生きと語ることが出来るのです。私はイエス様と出会って、このように変えられたと、確信を持って言えるのです。そのような人々は、イエス様の目撃者となったのです。証人となったのです。ですから、どんなこともその事実を翻すことが出来ないのです。
その様な直接的な目撃者でなくても、同じような体験をすることがあるのです。それは、預言が実現したと確信した時です。このような事はふつうはあまり見かけません。私の知り合いに、地震を予知する人がいました。その人が、ある日の夕方、何か遠くを見るような感覚で、「明日起こるかもしれないな。」と言いました。その人は、今までも何度か地震を予知したことがあると言うのです。ですからそれを聞いた時には本当かなと思いつつも、信じられないと言う気持ちでした。そして次の日、本当に大きな地震が起こりました。私は本当に驚きました。そのことを知らされていたのは私だけだったので、その人に、「どうしてそんなことがわかるのか」と尋ねました。すると、「分かるんだよ、感じるんだよ」とまた遠くを見るような風をして言うのです。私はこの事件で、その人が本当に地震を予知できると信じました。これはもう理屈ではありません。信じるか信じないかだけです。単に偶然だよと言う理解もできるでしょうが、私の心は、実現したと言う思いで一杯でした。もっと詳しく知りたいと思いましたが、その後は話す機会がありませんでした。
旧約聖書には、いろいろな預言がたくさんあります。今の私たちが読むと、それは昔の事であって、もう過去の事だと思っています。そして、その予言が本当に実現したかどうかなどと本気になってそのことを確かめようとも思っていません。一種の伝説のようなもので、昔はこのような事もあったと思っているくらいのものです。ですが聖書の中の人々は、その予言が本当に実現したのかどうかを本気になって探し求めています。そして預言が実現されていることを知ると、驚きと畏れをもって、それを信じるのです。それはほとんどその予言を目撃したと同じような体験となります。
パスカルは中世の有名な科学者で、圧力に関するパスカルの法則などでもよく知られていますが、彼はとても信仰的な人でした。そして彼はパンセ(瞑想録)と言う本を出しましたが、そこには預言に関することがいろいろと語られています。その中で一つだけ挙げると、734項です。そこには、
734.たとい私がメシアについて語られている何事も聞かなかったとしても、世界の行程についてかくも驚くべき予言があり、しかもそれが成就したのを見ては、それを神の業であると思うであろう。またこれらの同じ書物が一人のメシアを予言していると知ったならば、彼の来ることを確信するに違いない。そして、これらの書物が彼の来臨の時を第二の神殿の破壊前においていると知ったならば、彼は既に来たと、私は言明するであろう。
パスカルは、聖書の中の予言をいろいろ調べて、その事が実現していることに驚いてそういっているのです。聖書にはその予言が実現したかどうかを書いてある箇所は少ないのです。自分で調べてみて、それがその通りであったときの驚きは大きいのです。
承
さて、ペトロはキリストの再臨について語りだしました。この手紙の一番の目的はイエス・キリストの再臨に関する確信を人々に思い起こさせることでした。それは再臨が語られてから大分経っているのに再臨がまだ訪れず、異端を語る者たちはもはや再臨を信じなくなっていたからです。その揺らぎ始めた信仰者の心に再臨の確信を今一度呼び戻そうとしているのです。
再臨の予言は聖書の色々な箇所に書かれています。新約聖書では、使徒言行録の1章11節にこうあります。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じありさまで、またおいでになる。」と書かれていますが、またおいでになると言っているのです。新約聖書だけで、300回以上再臨の予言が記されていると言われています。例えば、マタイの24章25章は全編再臨の予言なのです。これほど多く語られているにもかかわらず、私たちの心には響いてこないのです。それはまさに異端者たちと同じような思いなのかもしれません。それをペトロは、この再臨は実現すると呼びかけているのです。目を覚ましているようにと呼びかけているのです。ペトロは、このイエス様の再臨の根拠を自分の体験から語っています。16節から18節を読んでみましょう。
2ペト 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
2ペト 1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
2ペト 1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
福音書に書いてあるように、ペトロは変貌の山で、イエス様が姿が変わり、そして、神様の声を直接聞いたのです。ペトロは「私たちは、キリストの威光を目撃したのです」、と興奮気味に語ります。そして、「これは私の愛する子。私の心に適うもの」と言う神様の声を聴いたと言うのです。ペトロが言おうとしているのはこういうことです。「神様が、イエス様にこのような誉れと栄光を与えて下さっているのに、どうして私たちが作り話などして、人を信じさせようとするでしょうか。その事実を語るだけで十分ではないですか。神様が、このような誉れと栄光をイエス様にお授けになったのですから、この方こそ再臨が予言されている、キリストに間違いがないのです。キリストは必ずまたやって来るのです。」と言うことを言おうとしているのです。この神様の声を聴いたと言うことが最大の根拠なのです。
転
ペトロにとっては、この神様の声を聴いたと言うことが、イエス様が語った再臨の約束、旧約聖書に書かれている再臨の予言が単なる話ではなく、事実として実現すると言う確信に至ったのです。19節ではこう言っています。
2ペト 1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
ペトロはこの体験によって、預言の言葉はいっそう確かになったと言います。ペトロはその予言が確かなものであることを理屈で教えようとしたのではなく、私が実際に体験した真実だから、私を信じて、この予言すなわち再臨を信じるようにと勧めているのです。夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇る時まで、すなわち、実際にキリストが再臨される時まで、どうかこの予言の言葉に留意してください。今の時代の迷いの多い暗いところに輝くともしびとして、この予言の言葉を信じて、再臨の時を待ち望んでくださいと言っているのです。
そしてその時に大切な事を次のように言っています。20節から21節です。
2ペト 1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
2ペト 1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ペトロが、何よりも心得て欲しいと言っているのは、聖書の預言を自分勝手に解釈してはいけないと言うことでした。実は、ペトロがこの手紙を書いたのはそのような人々が増えてきたことに対する恐れでした。約束された再臨の時が来ないではないか。これはもしかするとこのような解釈ではなかったのかと、その再臨の約束の意味を別の意味に取り違える人々が出てきたのです。だから、自分勝手に解釈してはならないと言うのです。それならばどのように解釈すべきなのでしょうか。それは次の言葉がそれを示しています。それは預言は人間の意志によって語られたのではなく、聖霊に導かれて神様からの言葉を語ったものだからです、と言う言葉です。すなわち聖霊によって語られた言葉は、聖霊の導きによって理解するのが正しいのです。自分の思いや理解で解釈するのではなく、祈りに導かれて、聖霊が教えてくださるところを理解するのです。聖霊が教えて下さらなければ、それは神様からの言葉ではないのです。ペトロはそのように、異端の教えに惑わされてはいけない、預言の言葉を聖霊の導きによって理解し、その再臨の約束を確信して待つようにと教えているのです。
結
聖書には、たくさんの予言の言葉があります。ですが私たちは、その予言の言葉を、これは本当に起ったのだろうか、とか、本当に起こるのだろうかと言う真剣な受け止め方をすることがあまりないのではないでしょうか。ですが、旧約時代の人々、原始キリスト教の人々が、聖書の中に見る予言と約束を受け止める態度は本当に真剣なものなのです。だからこそ異端的な見方も現れたのです。私たちに必要なのはそのような預言に対する真剣な受け止め方ではないでしょうか。ペトロは再臨は必ずやって来る。私はそれを神様の声を直接聞いて、確信したのだからと言いました。私たちも、そのような確信を聞きのがすことなく、自分の問題として受け止めていきたいと思うのです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちには大切な預言が与えられていますが、私たちはその予言を聖霊の導きによってではなく、自分勝手に受け止めて、大切な御言葉と約束とを聞きのがしてしまいます。一つ一つの予言が、本当に実現するものとして、確認し、確信して、歩んでいくことが出来ますように。そして、その予言が本当に実現されているのだと、証言できるものとなる事が出来ますように。そして、その予言を聖霊によって語っていくものとなる事が出来ますように。どうかあなたの御言葉がすべて実現しますように。私たちはそのことを信じて準備するものでありますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ペトロ第一の手紙)>>
◆キリストの栄光、預言の言葉
2ペト 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
2ペト 1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
2ペト 1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
2ペト 1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
2ペト 1:20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
2ペト 1:21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。