家庭礼拝 2014年6月25日ペトロ第一3章1-22 正しい事のために苦しむ
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起
ペトロの励ましと薦めは、信仰者全員に対するだけではなく、より具体的に、召使たちへの薦めであるとか、妻と夫のための薦めであるとかをも行っています。今日の学びの最初は小見出しにもあるように、「妻と夫」となっていますが、その内容は主に妻に対するものです。妻に対するものが14行あるのに対して、夫は4行しかないのです。どちらかと言うと夫はついでに語られたのです。どうして、召使と、妻たちには特別の励ましの言葉が与えられているのでしょうか。それは、これらの人々が、信仰を持ち続けるのが困難な状況にあったからです。召使も、妻も主人に仕える人たちです。その主人が信仰者であるならまだましかもしれませんが、キリスト教を嫌う人だったら、とてもその信仰を持ち続けることが困難なのです。
召使は、主人から、そんな宗教は邪教だから信じるなと言われたら、ふつうはそれに従わざるを得ないのです。妻も同じような状況です。当時の妻の地位はかなり低いもので、牛や、馬などの家畜と同じ財産のようなものとして扱われていたのです。ですからその夫である主人から、そんな信仰は捨ててしまえと言われれば、それに従わざるを得ないのです。たとえそのような主人のもとにあっても、ペトロの薦めは、主人に従いなさい、夫に従いなさいというものでした。主人に逆らってでもその信仰を守りなさいと言うのではありませんでした。それでは、どのようにしてその信仰を守ったらよいのでしょうか。それは、その日々の生活を通して守りなさいと薦めているのです。
当然そのような生活は多くの困難や苦しみが伴うのです。その中にあって、クリスチャンはどのように生きたらよいのかを薦めているのが今日の箇所になります。それは今の時代に生きる私たちにとっても、困難な人間関係の中でどのように生きるのが、主の御心にかなうのかを知ることのできる大切な箇所でもあります。
承
今日の3章1節は、「同じように、」という言葉で始まります。これは2章で語られた、召使の場合に薦めたことと同じように、という意味になります。1節です。
1ペト 3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
召使の場合と同じように、自分の夫に従いなさいと薦められています。それはたとえ夫が御言葉を信じない人であってもなのです。ふつうはこのような夫ならば、妻の信仰に反対し、捨てるように言うものです。そのような夫であっても、その夫に抵抗して、信仰を伝えようとしたり、逆らったりしてはいけないと言うのです。ペトロは、そのような伝道よりも、妻の無言の行いが、その夫を信仰に導くようになると言っているのです。ですから、逆らうことなく従い、たとえ苦しむことがあったり、困難があったりしても、それを主の御前にあって受け入れて、無言で、良い行いをしなさいと言うのです。そうするとそれを見ている主人は、その信仰に打たれて、どうしてそのようにできるのだろうかと不思議がり、信仰に導かれるようになるのだと言うのです。ですから、このような困難や苦しみもまた、神様に用いられて、伝道の働きになるのです。私たちの思いだけでそれを嫌ったり避けたりしてはいけないのです。
ペトロは妻の無言の行いによって、夫が信仰に導かれるようになる理由をこのように説明しています。2節から4節です。
1ペト 3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
1ペト 3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
1ペト 3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
不信仰者の夫が、信仰へと導かれるのは、「神を恐れるあなた方の純真な生活を見るから」だと言っているのです。神を恐れる純真な生活、すなわち敬虔な生活が人の心を打つのです。私達よりもずっと大きな存在があり、その前に頭を垂れて、信じていく純真な生活、敬虔な生活は、信仰の無い人をも、信仰へと導く、大きな力であり、美しい生活なのです。私たちは、自分たちだけのためではなく、それを見ているほかの人々のためにも、神を恐れる敬虔な生活を行って、人の魂に何か劇的な事をもたらす生活が出来るのです。それは決して言葉を使って議論したり、説得したり、説明したりするのではなく、ただ無言の行いによるものなのです。その方がより心の中に入り込んで働いてくれるのです。年老いたお婆さんでも、敬虔な信仰生活をすることによって、人々の魂に美しいもの、偉大なものを呼び起こす、大きな働きをするのです。
それは、美しい人が何も語らなくても、人々に感銘を与えるように、その無言の敬虔なる行いが、感銘を与えるのです。そこには、神の御前で価値のある装いがあるのです。その装いは決して、髪を飾りたてたり、派手な服を着て装うと言った、外面的な事ではなく、「柔和でしとやかな気立てと言う朽ちないもので飾られた、内面的な人柄」なのです。それが、神のみ前で価値のある美しい装いなのです。そのように装いなさいとペトロは薦めます。
そして、その具体的な例を旧約聖書から選んでペトロはこう語りました。5節と6節です。
1ペト 3:5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
1ペト 3:6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
ペトロは、アブラハムの妻サラが行ったように、自分の夫に従うならば、あなたたちもサラの娘となるでしょうと言いました。これは私たちが、アブラハムの子供と例えられる事の対なのです。
夫たちに対しては、1節だけが語られました。7節です。
1ペト 3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
ペトロの言葉には、妻が夫の財産であるとの思いは全くありません。1個の人間として、自分よりも弱いものである人間として、いたわり、神様からの命の恵みを共に受け継ぐものとして、尊敬しなさい、と教えています。ペトロの言葉では、妻は神様の御前で、命の恵みを受け継ぐ協力者なのです。だから尊敬しなさいと教えています。ペトロの人間に対する信仰的な見方は、神様がその人をどのように見ているかという視点で見ているのです。ですから、妻は夫と共に命を受け継ぐものであり、主人や権力者たちは、神様がその人たちに権力や力を与えた人たちであり、悪人や罪人であっても、そのような人をも神様は愛し救おうとしている人々であるので、神様の視点で見て、神様が愛しているのだから、人々を愛するようになりなさい、尊敬するようになりなさいと言うことなのです。これは私たちにとっても大切な視点です。これがなければクリスチャンとは言えないでしょう。この世的な、自分勝手な視点ではなくて、神様がそのことを、どのように見られているのかを受けて、同じようにすることなのです。苦しみや困難もまたそうなのです。
転
そのことを、ペトロは「終わりに」と断っておきながら、信仰者がどのように生きればよいのかをまとめて語りました。8節と9節です。
1ペト 3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
1ペト 3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
これらの事は、みなイエス様が私たちにその模範を示されたことです。イエス様がなさったように私たちにも、同じこと行うことを薦めているのです。
最初は「皆心を一つにしなさい」と言うことです。これが最初に出てきたと言うことはこれが何よりも大切だと言うことです。その後に出てくる、同情しあい、兄弟を愛し、憐み深く謙虚になりなさい、というのは、その具体的な方法なのです。「皆心を一つにする」ために、このようにしなさいと言っているのです。それほどペトロはキリスト者の一致と言うことを大切にしました。キリスト者の中で、仲間割れをし、批判し、言い争いをするようでは、とても信仰的ではありえないのです。キリストにある一致こそ真の教会にとって不可欠なものなのです。
次に挙げたのは同情し合いなさいと言うことです。これは無関心であったり、冷たかったりしてはいけないと言うことです。苦しみも悲しみも喜びも楽しみも共に味わい分かち合うように同情し合いなさいと言うことなのです。このようにできたなら、皆心は一つになるのです。
3番目は、兄弟を愛しなさいです。「神を愛している、と言いながら兄弟を憎むものは、偽りものである」と、第一ヨハネの4章20節に言われるように、神様を愛するものは兄弟をも愛するのです。なぜならば、その兄弟がどのような人であっても、神様はその兄弟をも愛しているからなのです。神様がその兄弟を愛しているので、私たちもその兄弟を愛するのです。自分にその愛する力がなくても、神様から愛を頂いて愛するのです。
4番目は憐み深くあれと言うことです。これも神様が私たちに憐れみ深かったように、私たちも憐み深くあれと言うことなのです。
5番目は、謙虚であれと言うことです。私たちが謙虚でなくなるのは、自分の力が他のものに勝っていると己惚れてしまう時です。私たちに与えられている力や賜物がすべて神様から与えられていることを忘れているのです。そしてその力を、神様のご用のために用いるようにと命じられていることを忘れているからです。私たちが謙虚であるのは、人に対して卑下するのではなく、全てを与えて下さっている神様に対して謙虚になるのです。私たちが神様の御前で己惚れることなどできないのです。自分の力や立場を神様の御前で確認して、その大いなる方を覚えて謙虚になるのです。謙虚であると言うことは、神様を知ると言うことでもあるのです。
でも、人間の世界は、善をおこなっても必ずしも報われるとは限らないのです。悪を行う人がいるからです。その様な時には、仕返しをしてやろうと言う気持ちになるのが普通の人間なのですが、ペトロはそのようにしてはいけないと言うのです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。」と薦めています。これがクリスチャンの生活なのです。なぜならば、私たちはこの祝福を受け継ぐためにこの世に召されたからだと言うのです。私たちの生きている意味、私たちのこの世での使命は、この神様の祝福をすべての人のために祈り、受け継いでいくことなのです。ですから、日々の執り成しの祈りが大切です。
次の10節から12節の詩は詩編34編13節〜17節の詩です。実際の詩篇の中の言葉とは多少違うところがありますが、内容的には同じものです。「悪を言わず、偽りを語らず、悪を遠ざけ、善を行い、平和を願いなさい。主の目は正しいものに注がれ、主の顔は悪事を働くものに向けられる。」という内容のものです。きっとペトロは、苦難と困難の中で、イエス様の言葉と、この詩編の言葉を繰り返し覚えながら、生きていたのだと思います。
ペトロはこのように、何があっても善い事を行って生きていきなさいと薦めます。そして、例え、「義のために苦しみを受けるのであっても、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません、」と語っています。私たちは苦しみを受けるとすぐにそこから逃げ出そうとし、どうして私がこんな目に合わなければならないのだろうと思います。ですが、ペトロは「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」と言っています。キリスト教が、こんなにも強く生き残って来れたのには、このような苦しみをも幸いとして受け止めることが出来たからです。このような苦しみを、正しく耐え忍ぶことは神の栄光を現すことだとして、その幸いを喜んだからです。その苦しみを意味あるものにしたからです。だから、人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけませんと言いました。同じような苦しみを味わってくださった、キリストを心の中で主と崇めて、耐え忍びなさいと言っているのです。
そうすると、そのように立派に苦難に耐え忍んでいるクリスチャンの人々を見て、信じていない人々は不思議がるのです。どうして、あなたはそのように耐えられるのですか、どうしてあなたはそのように生きられるのですかと尋ねてくる人が出てくるのです。私もあなたと同じようになりたいのです、と思う人が出てくるのです。そして15節と16節ではこう言っています。
1ペト 3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
1ペト 3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
信仰を持たない人々が、どうしてあなたはそのように耐えられるのか、喜んでいられるのかと尋ねてきたならば、あなた方の抱いている希望について説明できるように準備しておきなさい、と言っています。そのような時こそ一番の伝道の時なのです。その時には上から目線で語るのではなく、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、説明しなさいと言いました。そうすると罵った人でさえも恥じ入るようになるからだと言うのです。このように説明すると、例え、罵るような人でも、その言葉を受け入れるようになるのです。ですから、苦しみに正しく忍耐することは、素晴らしい伝道の機会にもなる事なのです。言葉で、伝え歩く事だけではなく、無言の行いによっても伝道はできるのです。私たちはそのような、敬虔な生活を通して、伝道の業を行えればと思います。
最後にペトロは、ノアの箱舟の事を語っています。この話の中でペトロが言おうとしていることは2つあります。一つは、ノアの箱舟の出来事は、神様の言葉を守って、箱舟に乗り込んだ8人だけが、水の中を通って救われた。と言うことです。すなわちこのことは、同じように水の中を通って救われる洗礼の事をも意味していると言うのです。その洗礼とは単に体の汚れを取り除くことではありません、心も魂もその汚れから取り除かれるのです。それをペトロは、「神に正しい良心を願い求めることです」と言いました。これはすなわち、神様の御前に正しい良心であることを誓うことです。
もう一つは、このノアの箱舟の時に、神様の忍耐に対して反抗し従わなかった罪深い人々の救いの事です。イエス様は、正しくない者のためにも苦しまれ、肉では死に渡されたが霊では生きるものとされたと言うのです。そしてその霊において陰府にまで下って、ノアの時代の神様に従わなかった罪深い人々のためにも宣教されたと言うのです。この事が、使徒信条で語られる、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、3日目に死人の内よりよみがえり」と語られる根拠なのです。
結
今日のペトロの手紙で教えられることは、自分の信仰がいくら正しくても、そのことによって言い争ったり、抵抗したり、非難したりするのではなく、従順で、敬虔な生活によって、善を示しなさいと言うことでした。主人のいる人ならば、その主人に従いなさい。たとえ無慈悲な扱いを受けても忍耐しなさい。夫に対しても同じようにしなさい。そして、無言の行いによって、信仰に導きなさいと言うことでした。そして、何よりも皆心を一つにして、愛し合いなさい。例え、侮辱するものがいたとしても祝福しなさい。その祝福を受け継ぐために私たちは召されたと言うことなのです。私たちの使命はそこにあるのです。そうすると、私たちの無言の行いを見て感心する人々が、どうしてあなたたちはそのようにできるのですかと尋ねられたら、あなたたちの希望を穏やかに、敬意を持って語りなさいと薦められました。
今日は、ペトロにクリスチャンが、敬虔な生活を通して、無言の行いによって如何に人々に強い影響を与えていくものなのかを教えられました。私達もまた、そのクリスチャンとして、人を裁かず、非難せず、ただキリストに希望を抱いて善をおこなっていくことが出来るようにと願うものです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様。私たちは自分の信仰を守るために、自己防衛的になり、自分の正しさを主張したり、抵抗したりしてしまいますが、ペテロの教えてくれたように、どうかあなたへの希望に支えられて、敬虔にそして無言の行いによって、あなたの御心を現していくものとなる事が出来ますように。義のために苦しみを受けるのであれば、むしろそれを幸いな事として受け止めて行くことが出来ますように。そしてあなたの祝福を受け継ぐものとして、人々のために祝福の祈りをささげることが出来ますように導いてください。今日与えられた御言葉に感謝いたします。これからもあなたにならって、歩んでいくことが出来ますように。あなたが愛する人々を愛することが出来ますように導いてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:ペトロ第一の手紙)>>
◆妻と夫
1ペト 3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
1ペト 3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
1ペト 3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
1ペト 3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
1ペト 3:5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
1ペト 3:6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
1ペト 3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
◆正しいことのために苦しむ
1ペト 3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
1ペト 3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
1ペト 3:10 「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
1ペト 3:11 悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
1ペト 3:12 主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
1ペト 3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
1ペト 3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
1ペト 3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
1ペト 3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
1ペト 3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
1ペト 3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
1ペト 3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
1ペト 3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
1ペト 3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
1ペト 3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。