家庭礼拝 2014年6月11日ペトロ第一2章11-25 神の僕として生きよ

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ペトロの手紙は、私たちがこの世にあってどのように生きたらよいのかの素晴らしい手引きです。教理的と言うよりも具体的生活に即した勧めです。ペトロの教えの根底には、私たちは既に大きな恵みによって救われており、この世は仮住まいであって、神の御国に生きる希望が与えられていると言う教えが強く出ています。そのうえで、過ぎゆくこの世の生活をどのように生きたらよいのかと言う勧めとなるのです。

この世の生活が仮住まいだと言っても、実際にはその中で生活しなければならず、その社会的生活や、人間関係には他のすべての人と同じように配慮しなければならないのです。ですがクリスチャンらしい配慮の仕方、生き方とはどのようなものであるのかをペトロはここで詳しく私たちに語っています。この世はひどすぎる、人間というものは醜すぎるとこの世を嘆く生き方もあるかもしれませんが、クリスチャンの生き方は、決してこの世を捨てるものでも軽く見るものでもないのです。たとえ仮住まいであっても、この世に与えられた社会や人間関係を大切にして生きることを教えているのです。それは自分の考えで大切にするのではなくて、神様の御前で大切にするのです。神様が与えて下さった、この現実の社会や、人間関係を大切にし、神様の御心にかなう歩み方を勧めているのが今日のペトロの教えの箇所です。現実を斜に構えて、眺めるのではなく、それも与えられたものとして、大切に接していく生き方なのです。この生き方を、クリスチャンに対する迫害と言う環境の中で信仰者たちに勧めているのですから驚きです。ぜひ私たちもその生き方を学び取っていきたいと思います。

まずペトロは、社会生活をする私たちにこのように勧めました。11節と12節です。

1ペト 2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

1ペト 2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

 ペトロは多くの信仰者たちに語っているのですが、その信仰者たちの多くは下層階級にある人々です。この当時では奴隷と言われる社会階級です。ですが、この奴隷と言うのは私たちのイメージしている、農場で酷使されている奴隷のイメージとは違うのです。この当時は仕事のほとんどは奴隷がしているのです。農場の仕事もあるでしょうが、商売の仕事も大工の仕事も医者の仕事も、役者の仕事も家政婦も、執事も、書記も、職人も、芸術家も皆奴隷がやっているのです。即ち奴隷でない人たちは、仕事を全部奴隷にさせて、自分たちは仕事をしないで生活しているのです。ですからその中にはかなり知的な職業の奴隷もあったのです。ですが身分はあくまでも奴隷であって人間ではなく、ものとして扱われているのです。売り買いされたり、捨てられたりするのです。ですが、実際には、その家の家族として扱われていることが多いのです。今でいうと、その家の家畜やペットと同じ扱いなのです。中には、愛されているペットもいるわけです。ですが、その生活には自由がないので、やはり多くの悩み苦しみを抱えて、教会に集ってくる人たちが多かったのです。

ペトロは、そのような人たちに愛する人たちと呼びかけました。ペトロの呼びかけには、そのような苦しみを持った人たちに対するやさしさがあるのです。そして勧めたのです。それは、まず、自分たちはこの世にあって、旅人であり、仮住まいの身である、ということを確認しています。この世の事はもうすぐ過ぎ去って、本当の自分たちの国がやってくると言うことが、大前提として考えられているのです。この事がしっかりと捉えられていないと、この世の事に捉われてしまい、この世での損得から抜け出ることが出来なくなってしまいます。神の御国よりも、この世の損得のほうが大切になってしまうのです。私たちはどうでしょうか。ペトロはその大前提を確認した後で、「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」と言いました。私たちは、肉の欲と言うと情欲、性欲、食欲のようなものをイメージしますが、ペトロの語る肉の欲とはもっと広い意味なのです。それはほとんど「罪」と呼ばれるものの範囲と同じなのです。それは、パウロが肉の欲の罪をガラテヤ人への手紙5章19−21節に上げているように、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」としているのと同じなのです。すなわち、利己心や不和、敵意や争いや妬みも肉の欲なのです。そのような罪、すなわち肉の欲が魂に戦いを挑んでくるのを避けなさいと言っています。ここで注意しなければならないのはペトロはそのような肉の欲と戦いなさいと言っているのではないのです。避けなさい、そのようなものを遠ざけなさい、近寄ってはいけないと言っているのです。この様な肉の欲の中にいたならば、いくら闘ってもいつしか負けてしまうかもしれないのです。ですから、最初からそのようなものには近づかず、避けなさいと教えており、それがクリスチャンの生活だと言っているのです。戦ってはいけません、避けるのです。戦おうとすると、相手はもっと大きな力で襲ってくるのです。忘れるのです。頭から消し去るのです。それはサタンに対する対応と同じなのです。

クリスチャンもユダヤ人も異教徒の中にあっては、胡散臭いものと思われ、嫌われていました。自分たちだけの特別のものを信じていたからです。ですからいろいろないじめがあったり、悪人呼ばわりされたりすることも多かったのです。このようなことは現代でも起こる事です。人と違った生き方をすると、人から嫌われ、いじめられたりするのです。その時、被害妄想になって、落ち込んでしまったとすれば、それはクリスチャンの生活ではないのです。ペトロは「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めました。どのようにいじめられ、非難されたとしても、そこで立派に生活するならば、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります、と言っているのです。いじめられ、非難されても立派な行いをし続ければ、それは素晴らしい伝道の働きとなり、神様を崇めるようになると言うことなのです。私たちの生活は、苦しい中にあっても、神のみ前で立派に生きることなのです。それが、いろいろな人間関係の中にあって生きる生き方なのです。決して、逃げたり隠れたりする生活ではありません。

 次にペトロは、社会の中に会って生きる生き方を語ります。この時の社会は信仰者たちにとって決して住みよい社会ではないのです。信仰の自由があるわけでも、基本的な人権が守られているわけでもないわけです。むしろ、社会から抹殺されようとし迫害されている状況なのです。その中で、どんな社会生活が出来るのでしょうか。今の世の中だとこの様な人々はたいていテロリストになってしまうのです。社会に対して復讐し、破壊しようとするのです。

ですがペトロの教えはそうではありませんでした。その社会がどのようなものであっても、それに従いなさいと教えたのです。その背景には、それを立てたのもまた神であるとの考えがあるのだと思います。13節から17節です。

1ペト 2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、

1ペト 2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。

1ペト 2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

1ペト 2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。

1ペト 2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

ペトロの教えは、基本的には、すべて人間の立てた制度に従いなさい、ということです。それが悪いものであっても、良いものであっても、それに従いなさいと言うことです。それが迫害するものであっても、当時の皇帝ネロであろうとも、それに従い服従しなさいと教えているのです。決して、革命や反乱を教えるものではありません。抵抗することを教えるものでもありません、従い服従するだけです。それは、右のほほを打たれたら、左のほほをも出しなさいと言うイエス様の教えに共通するものです。その教えは、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」と言う考えにもどづいているのです。そのような、この世の社会に捉われることなく、神のみ前で善を行い、神のみ前で自由な人として生活しなさいと言うことなのです。神の僕として行動しなさいと言うことなのです。この世の事はすべて過ぎ去るのだから、善を行い、すべての人を敬いなさい、と言っているのです。その中には兄弟を愛し、神を恐れることはもちろんのこと、迫害している皇帝をも敬いなさいと言っているのです。たとえ何があろうとも、すべての人を敬い、兄弟を愛するのが、クリスチャンの生き方なのです。

さて、ペトロは、このような人間関係社会関係を語る中で、その話を聞いている人々の一番の関心事、主人との関係について語りました。先ほど説明しましたように、この教会に集まるほとんどの人は奴隷の身分の人々だったのです。ですから、その人たちにその主人にどのように仕えて行ったらよいのかを語ることはとても大切な事でした。その教えはこうでした。18節と19節です。

1ペト 2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。

1ペト 2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。

 召使たちとは奴隷たちです。その人たちが主人に対するときには、心から敬って主人に仕えなさいと教えました。先ほど17節で、すべての人を敬いなさいと教えたように、今度は主人に対しても、心から敬って主人に仕えなさいと教えているのです。非難したり、口答えしたり、無視したりするのではなく、心から敬って主人に仕えるのです。誠意をもって仕えるのです。それは、善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい、と言っているのです。これがキリスト教のすごいところです。無慈悲で、恨みたくなるような、非難したくなるような、反抗したくなるような主人に対してでさえも、心から敬って仕えなさいと言っているのです。そんなことが本当にできるのでしょうか。出来る方法はあるのです。それをペトロはこう言ったのです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」と言ったのです。その苦しみもまた、神様の望みであるとわきまえて、受け取るならば、それは神様の御心にかなうことをしているので、単に無意味に苦しんでいるのではなく、神様に仕える苦しみとなるのだ、としているのです。それは大いに意味のある価値のあることだと言っているのです。それをペトロは別の言葉でこうも言いました。20節です。

1ペト 2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

 私たちの間では、よく苦しみに会ったときに、自分は何の悪いこともしていないのに、なぜこんなに苦しまなければいけないのだと嘆く言葉を聞くことがあります。ですが、ペトロが言っているのは、何の悪いこともしていないのに苦しみを受けてそれを堪え忍ぶならば、これこそ神様の御心にかなうことだと言っているのです。全く無意味に思われた苦しみが、神様の御心にかなう意味ある苦しみに変えられたのです。これこそ、奇跡的な価値転換、意味の転換ではないでしょうか。たとえどんなことであっても、私たちの苦しみは、それを立派に耐え忍ぶならば、神様の御前に大いに意味のあるものとなり、御心にかなうものとなるのです。

ペトロは、じつにこの事こそあなた方の使命だと言っているのです。あなた方は、キリストと同じ苦しみに与るために召されたのだと言うのです。21節から25節です。

1ペト 2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

1ペト 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」

1ペト 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

1ペト 2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

1ペト 2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 あなた方は、その苦しみに立派に耐え忍ぶために召されたのであり、キリストはその模範であると言いました。キリストこそ、罪を犯したことも偽りもなかったのに、罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、すべてを神様にお委ねになったのです。そして、十字架にかかって、自ら、私たちの罪を担ってくださった。そのことによって、あなた方は癒されたのだと言ったのです。そして、今や、魂の牧者であり監督者である、イエス様の元に戻ってくることが出来たのだと言いました。

このペトロの言葉によって、どれだけの人が迫害を勇気を持って受け入れ、その苦しみに立派に耐え忍んで、来る御国を待ち望んでいったでしょうか。この世の良し悪しは問題ではないのです。あれがよい、これが悪いと言うのはすべて過ぎ去る問題なのです。問題なのは、そのことに対して、神のみ前で、立派に耐え忍び、善をおこなって生きることなのです。ペトロは、そのように信仰によって、最後まで生きるようにと、信仰者たちを励ましているのです。

 ペトロの教えは、人間関係にあっても、社会との関係にあっても、主人との関係にあっても、すべての人を敬いなさいと言うことでした。そして善を行って立派に生きなさいというものでした。たとえそれが、理不尽なものであってもそれに忍耐し耐え忍びなさい。それに逆らってはならないというものでした。なぜならば、その苦しみは神様が、そうお望みになっているのかもしれないのだから、その苦痛に耐え忍ぶことは御心にかなうことだと教えられました。これこそ、キリスト教の教える、生き方であると思います。私たちの今の生活を少しでもこのペトロの教えに近づけるのが、私たちに求められていることだと思います。私たちが信仰に召されたのは、それによって、楽しい楽な生き方をするためではなく、イエス様のように苦しみを引き受けて、立派に生きるためであることを、いま改めて教えられるものです。どうか私たちがイエス様に倣って生きることが出来るようになり、すべての人々を敬って生き、善をおこなって生きることが出来ようになる事を願っていきたいものと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

 天の父なる神様。今日ペトロによって教えられたことに感謝いたします。私たちはこの世の事に捉われ、この世で少しでも楽しい楽な生き方をしようと、人の事を批判し、自分のなすべき善を忘れてしまいます。ですがペトロは、たとえ相手や社会がどのようなものであってもそれを敬い従いなさいと言いました。そして、立派に生活しなさいと言いました。たとえ不当な苦しみを受けたとしても、それは神様が与えて下さったものとわきまえて、苦痛に耐え、忍耐しなさいと言いました。それが神様の御心にかなうことなのだと言いました。

 私たちの自己主張による少しでも得をする生き方ではなく、この世の事はこの世に任せ、ただ神のみ前で生きる生き方をよしとする生き方が出来るようになりますように。少し自分が得をして喜ぶのではなく、少し相手が得になるように善を行い、あなたに喜ばれるものとなる生き方が出来ますように。全ての苦しみが、あなたの御心によるものとして、立派に耐えて、御心にかなう者となる事が出来ますように。今日は、このように大きな教えが与えられましたことに感謝いたします。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ペトロ第一の手紙)>>

◆神の僕として生きよ

1ペト 2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

1ペト 2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

1ペト 2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、

1ペト 2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。

1ペト 2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

1ペト 2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。

1ペト 2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

◆召し使いたちへの勧め

1ペト 2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。

1ペト 2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。

1ペト 2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

1ペト 2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

1ペト 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」

1ペト 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

1ペト 2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

1ペト 2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。