家庭礼拝 2014年4月23日ヨハネ21章1-25 イエスとペトロ

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いよいよ今日で、ヨハネによる福音書は最終回です。約一年かかりました。今日の21章は、だれが見ても一度終わった後に書き足された箇所です。それもヨハネによってではなく比較的すぐ後の時代に、他の人によって書き足された箇所です。なぜこれは書き足されたのでしょうか。それは、前回お話しした、本当にイエス様が復活したのかと疑う人々に対して、本当にこのような形で復活されたのだと言うことを表すためでした。そのために、今回はもしそれが霊や幻であったらとてもありえないことがそこでは起こっている事を示しているのです。復活のイエス様が炭火を起こし、魚を焼いており、朝の食事の準備をしていたのです。そして弟子たちと一緒に食事をしたのです。この記述には、このようなことは幻では絶対に起こりえないではないか、本当に普通の人間として現れたのだ、と言う主張が入っているのです。

ですが、この21章は、その事の証しのためだけに書かれたのではないようです。ここでの主役は第一にペトロであり、第二にヨハネなのです。この二人の教会における重要性をイエス様の言葉を通して教えられているのです。イエス様が天に召された後、この現実の世の中で、だれがどのような役割を担っていくのかが示され、そのことを教会全体にも知らしめることが必要だったのかもしれません。そのことを意識して、この21章は書き足されたかもしれません。

この最後の章でイエス様は、また弟子たちの前に現れました。これで3度目です。今度はエルサレムの家の中ではなく、ティベリアス湖の湖畔に現れました。これはガリラヤ湖と同じですが、湖畔にティベリアスと言う町があったのでそのように呼ばれていました。弟子たちは、エルサレムの家の中に閉じこもっていたのではなくガリラヤ湖の空の下にいたのです。そこにはトマスやナタナエル、ヤコブやヨセフなど7人の弟子たちがいたのです。多分ペトロの実家のあるカファルナウムの家にいたのだと思います。ここにはイエス様も何度か来ているのです。弟子たちは、イエス様を失って、元気をなくしているようです。20章ではイエス様から聖霊を与えられて、元気になっているはずなのですが、21章ではまだ意気消沈している雰囲気があります。

ある日の夜、ペトロは元気を出そうとしてか、「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言って出かけ、舟に乗りこみました。ほかの弟子たちも何とか元気を出さなくてはと思っていたのかもしれません。ガリラヤ湖での漁はふつう夜行うのです。ですから、ペトロが漁に行くと言った時には真っ暗な深夜だったのだと思います。これは弟子達の心の闇を象徴しているのかもしれません。彼らは夜通し漁を行いました。ですが魚は一匹も取れなかったのです。うまくいかない時は何もかもうまくいかないものです。もう夜が明けて、漁のする時間は終わりになりました。その朝もやの中に、誰かが岸に立っているのが見えたのです。それでもそれは誰なのかはわかりませんでした。それは復活されたイエス様でした。イエス様が、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えました。まだ誰なのかはわからなかったのです。すると、イエス様は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われたのです。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった、と書かれています。右側と言うのは、信仰的には神様の側を指すのだそうです。これは、神様の側に立たなければ何も取れず、神様の側に立てばとらえきれないほどの収穫があることを意味しているのかもしれません。

その人が復活されたイエス様であることに最初に気がついたのは、イエスの愛しておられたあの弟子でした。それはヨハネです。ヨハネはこの出来事に不思議を覚えて、このような奇跡を行えるのはイエス様かもしれないと思ったのです。ヨハネは、ペトロに、「主だ」と言ったのです。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込みました。ペトロはイエス様が現れたら、真っ先に挨拶したかったので、よく確かめることもしないで、すぐに湖に飛び込んだのです。岸からは遠くなかったからです。ペトロは、またきっとイエス様は現れてくださると信じていたのでしょう。だからすぐに反応したのだと思います。信じているものはヨハネのように見出すことが出来、ペトロのように反応することが出来るのです。

そして、それはまさしくそれはイエス様だったのです。イエス様は炭火を起こしており、魚を焼いており、パンも用意してありました。イエス様が「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われたので、網を引き揚げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであったのです。それほど多くとれたのに、網は破れていなかったのです。ヨハネ福音書は常に象徴的な言葉を使っています。ここで網と言っているのは、世界教会を意味しています。そして153匹の魚というのは当時知られていたすべての魚の種類であり、それは世界中の異邦人の人種を表しているのです。これは弟子たちの異邦人伝道が、大成功し、網である教会は魚すなわち異邦人で一杯になるのだけれども決して破れることなく、すべての人々を救いへと導くことが出来ると言うことを表しているのです。そして、パンと魚ということで思い出すのは5千人の食事の事であり、聖餐式の事なのです。これもまたここで象徴的に語られているのです。イエス様はパンを裂いて弟子たちに与え、魚を裂いて、これも弟子たちに与えたのです。弟子たちは誰もあなたは誰ですかとは尋ねなかったと書かれています。ですから、普通ならば、あなたは誰ですかと尋ねてもいいほどその姿は昔のイエス様とは違っていたのだと思います。ですが、そのなさることを見て、弟子たちはその方がイエス様であることを知っていたのです。すなわち信仰的に知っていたのです。

 さて、食事が終わると、イエス様はシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。

 このような問いかけが3度あったのです。これはペトロがイエス様を3度知らないと言ったことに対応しているのです。イエス様はペトロにその信仰を告白させることによって、清めているのかもしれません。イエス様の最初の質問は他の質問とほとんど同じですが、大事な違いが一つあります。それは「この人たち以上に私を愛しているか」と他の弟子達との比較で尋ねているのです。それは、マタイ26章33節にもあるように、ペトロが以前に「たとえみんながあなたにつまづいても、私は決してつまづきません。」と言って大見得を切った時に、イエス様に「3度私の事を知らないだろう。」と言われましたが、その時のペトロはたとえほかの弟子たちがつまづいても私だけは絶対につまづかないと言う傲慢さがあったのです。ですから、イエス様は「この人たち以上に私を愛してるか」と比較して質問しているのです。ですが、ペトロは「はい、この人たち以上にあなたを愛しています」とは言わなかったのです。もうそのような比較するような言葉では言えなかったのです。ペトロはただ、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、人と比較することも、自分で断言することもせず、イエス様の判断にお任せしたのです。そしてただ、自分はイエス様を愛していますとだけ答えたのです。その答えを聞いてイエス様は良しとされました。イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言いました。これは信じる者たちの教会を指導していきなさいと言うことです。

二度目にイエス様はまた言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」するとペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言い、イエス様は今度は、「私の羊の世話をしなさい」と言われました。

ほとんど同じ質問なのですが、微妙に違ってきています。二回目の質問にはこの人たち以上にと比較する言葉は入っていないのです。その問題は解消されたのです。ペトロは同じように答えました。するとイエス様の答えは少し違っていて「私の羊の世話をしなさい」と言ったのです。一回目は「子羊を飼いなさい」と言ったのですから、その役割が大きくなったともいえます。

 三度目もイエス様は同じように質問されました。ペトロは3回も同じことを確認されたので悲しくなって、必死になって愛していることはあなたが存知ですと答えました。するとイエス様は、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。羊の世話から羊を飼うとなって、その責任がさらに大きくなったような気もします。このことは、イエス様が世界宣教の責任とその使命をペトロに委ねたと理解されています。そしてその考えは延々と受け継がれ、バチカンの法王はそのペトロの後継者とみなされているのです。

イエス様はそのあとさらに言葉を続けられたのです。

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

この事は、ペトロが迫害にあって、最後には十字架で死ぬことを予言されているのです。そしてイエス様は、「私に従ってきなさい。」と言われました。イエス様からペトロに与えられた使命と命令とはここで確定したのです。

もう一人の教会の重要人物がいます。それはヨハネです。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。これは、後世の人が、ペトロの口を借りて、ヨハネの事を言わせているのです。ペトロが教会の指導者、後継者であるならば、ヨハネは一体何なのでしょうかと言うことなのです。この21章が書かれたころは、ヨハネの権威も高まっていたからです。このペトロの質問に対し、イエス様は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と答えたのです。このことが誤解されて、ヨハネはイエス様の再臨の時までは死なないとか、永遠に死なないとかいううわさが流れたのだそうです。実際ヨハネは長生きをしました。ですからそのようなうわさも出たのです。ですが、イエス様の言われたことはそうではなくて、「それはあなたには関係がない。あなたの使命は私に従ってくることだ。」と言うことを言われたのです。イエス様は、ペトロの意思を確認し、ペトロを教会を導く指導者として、私に従ってきなさいと使命を与え、そして、最後には迫害にあって十字架で死ぬだろう、ということを告げたのです。

このイエスに愛された弟子が、使徒ヨハネすなわちヤコブの兄弟ヨハネなのか、エフェソの長老となったヨハネなのかは、はっきりわかっていません。ですが、このヨハネによる福音書はイエス様と身近に行動し愛されたものだけが書くことのできる出来事を、イエス様が、本当によみがえりキリストであることを伝えるために書かれたのです。すなわちヨハネはキリストの証人として生きたのです。このイエス様の後を引き継いだ偉大な二人は、一人はイエス・キリストに任命された教会の牧者として歩み十字架での殉教の道を歩み通しました。もう一人はイエス・キリストの証人として、その長い人生を歩み通したのです。このことを、教会の人々に最後に言いたかったのがこの21章なのです。

これで、ヨハネによる福音書が終わりました。これらの事が書かれたのは、私たちが、イエス様は神の子キリストであると信じるためであり、また信じて、イエス様の御名によって、永遠の命を受けるためなのです。このことをヨハネは、20章の最後に明確に語りました。このことを伝えるために、自分たちの恥かしい過ちをも全部さらけ出しました。ペトロの3度の否定、ヤコブとヨハネがイエス様の右と左につこうとしたこと、トマスが見なければ信じないと言ったこと、弟子たちがみなイエス様を見捨てて逃げ去ったこと、そしてユダが裏切ったこと。このような多くの過ちや裏切りの中にあっても、イエス様が、人々の救いのために愛しその罪を担って死んで行った事をヨハネは伝えたかったのです。そしてそのイエス様が本当に復活して、今もなお生きておられることを伝えたかったのです。それは私たちが、信じるものとなるためです。その信仰を受け継いでいきたいと思います。

 

(一分間黙想)(お祈り)

天の父なる神様。ヨハネ福音書の学びをここまで導いてくださいましたことを感謝いたします。ヨハネによって、共観福音書では分からなかった多くの事が教えられました。この一年間の学びの時に感謝いたします。どうかこれからも、信仰によって、心を開いて、イエス様の御業が今もなされていることに気がつき、主の御名を崇め賛美するものでありますように。そして、永遠の命を与えられて、御心にかなって歩ませてください。

 次の学びのテキストがどこになるのかは、全く決まっていません。どうか次の学びの箇所をあなたが示してくださいますように。そしてこれからもずっとこの学びを続けていくことが出来ますように導いてください。共に学ぼうとするものがいましたら、どうかここにあなたが送り届けてくださいますように。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 


<<聖書の箇所(新約聖書:ヨハネによる福音書)>>

◆イエス、七人の弟子に現れる

ヨハ 21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

ヨハ 21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

ヨハ 21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ヨハ 21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

ヨハ 21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

ヨハ 21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

ヨハ 21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

ヨハ 21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

ヨハ 21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

ヨハ 21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

ヨハ 21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

ヨハ 21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

ヨハ 21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

ヨハ 21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

◆イエスとペトロ

ヨハ 21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

ヨハ 21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

ヨハ 21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ヨハ 21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

ヨハ 21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

◆イエスとその愛する弟子

ヨハ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

ヨハ 21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。

ヨハ 21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

ヨハ 21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

ヨハ 21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

ヨハ 21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。